
この彫像はキエフ大公国の洗礼(966年にポーランドでキリスト教が受容された)後のある日、キエフとノブゴロドに埋められた多くの偶像のように竪穴に廃棄もしくは埋められたことをほのめかしている。19世紀にズブルチ川(ドニエストル川の支流)が流れを変えたとき、この柱が埋まっている領域が水没した。[2]この柱は1848年に旧ポーランド・リトアニア共和国領の一部であった Liczkowce 村の付近が干魃(かんばつ)のときに発見された。現在のウクライナの Lychkivtsi (Личк?вц?)であり、フシャティン(Husiatyn)のちょうど北である。現在、この彫像はポーランドのクラクフのクラクフ考古学博物館に展示されている。いくつかの博物館に正確な複製が展示されており、モスクワのロシア国立歴史博物館にも展示されている。
解説

最下層の3面は、跪いてヒゲを生やした人物が両手で上の階層を支えていることを表している。第4面は空白である。
中間層は両腕を広げたより小さな人物を4面全てに表している。4面中1面だけ人物とともに小さな子供の姿が見える。
最上層の4面はこの偶像の最大の人型の像であり、高い丸みのある帽子の下に4つの顔が結合されている。各面は個別の象徴を表している。リングあるいはブレスレッド、角杯あるいは豊穣の角、剣と馬、そして侵食された太陽のシンボルである(訳注:後述によると太陽のシンボルが侵食されて消えてしまったということらしい)。

この彫像は干魃(かんばつ)によって川底が見えた間にロシア帝国のポジーリャの Liczkowce 村で1848年8月に発見された。その村の所有者であるコンスタンティ・ザブロースキー(詩人タイモン・ザブロースキー(英語版)の兄弟)は、ポーランドのミェチスワフ・ポトツキ(Mieczys?aw Potocki)伯爵にそれを寄贈した。その伯爵は1850年にクラクフ科学協会本部へそのことを報告した。[2]ポトツキは最初にこの彫像がスヴェントヴィトを表現しているかもしれないとの疑問を持った人物でもある。当初、ヤギェウォ大学の図書館に保存されていたが、1858年にルボミルスキー家の邸宅内の一時的な遺物展示会へ移動された。それからクラクフ科学協会本部へ移動した。しかしながら、1950年になって初めてその彫像は永久展示されることになった。1968年からはクラクフ考古学博物館に保存されている。[2]
この歴史的記念物の発見以来、この偶像が正確なところ何を表現しているのかという論争が続いてきた。[1][3][4]発見後間もなく、ヨアヒム・レレヴェル(英語版)は、最上層が2人の髭のある男性と2人の女性を表現していると理論づけた。それらは四季を表現しており、春(リングを持った女性)、夏(角を持った男性)、秋(馬と剣を持つ女性)、冬(何も持たない男性)ということである。[要出典]

その神がスヴェントヴィトと同一であるということは ガブリエル・レンチク(ポーランド語版) によっても支持された。以前、何も持たない男性だと信じられていた面に侵食された太陽のシンボルがあったということを突き止めた。[6]ヘンルィク・ウォヴミャンスキ(英語版)によるもう一つの理論(スラブの信仰についての1979年の彼の論文[7]に書かれている)は、完全にスラブ民族のものではないというものだった。その神は石で作られており、木で作られていない。木はスラブ民族の基本的な建築材料であった。しかし、それでもスヴェントヴィトの伝説は全てのスラブ文化に存在する。

ルイバコフは偶像の前面は角を持つ女神の面であると主張している。その根拠は最下層の人物像に基づいている。角を持つ女神の面の最下層の人物は正面から見ているように足を見せている。その2つの隣接した面は足を横にして見せている。最後にルイバコフはこの偶像の全体的な男根の形状はより小さな人物像の全てを結合したものに違いなく、単体の包括的な全能のより大きな神であるロード(スラブ神話)(英語版)であると信じている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BA%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%81%E3%81%AE%E5%81%B6%E5%83%8F