『すわものがたり』・善光寺如来様とお諏訪様
転載元 https://suwaarea-examine.com/suwa_story_zenko-ji_temple.html
信濃国水内の郷(さと)の住人、本田善光(ほんだよしみつ)は、ある日夢のお告げに尊い如来様が現れ、『我が身は浪速(なにわ)の江にあり。我が身を拾い、安住の地を探しておくれ』との夢札(ゆめふだ)に一念発起、信濃国を旅立ち、遥か浪速の地を目指して旅に出ました。時に紀元598年。大化の改新はまだ遠く、大和王朝に仏教が根付き始めた頃で、地方に置いては、まだ、仏教は異国渡来の怪しい宗教と捉えられていた頃の事です。
浪速にたどり着いた善光は、早速夢に出てきた景色の場所を探しました。住吉の浜に着いたところ、浜辺に、何か打ち寄せられているのを見つけました。近づいて見たところ、それは、子供位の背丈のある如来様の仏像でした。善光は、如来様のお告げの通り、その仏像を背負って、安住の地を探す旅に出ました。
とりあえず何処に向かえばいいか迷っていたところ、再び夢枕に如来様が現れ、『善光よ、汝の故郷信濃国に連れて行っておくれ』と申されたので、善光は、如来様を背負い信濃国を目指し、帰り旅に出たのです。まだ、現代のように、道が整っていない時代の事です。善光の旅は困難を極めましたが、その度に如来様のご利益に助けられ、無事信濃国にたどり着く事ができたのです。
善光は、最初、南信濃の飯田に落ち着き、如来様を祀る庵を作りました。現在(いま)の元善光寺です。しかし、ある夜、また如来様が夢枕に現れ、『私の安住の地はここではない。諏訪の明神様が導いて下さるから、諏訪に連れて行っておくれ』とお告げになりました。善光は、また、如来様を背負い、今度は諏訪の地を目指して旅に出ました。
諏訪に着き、真志野村の庵に如来様を安置して、(現在の真志野善光寺)善光は、諏訪の明神様に日参し、託宣を待ちました。
すると、ある夜、今度は夢枕に、梶の紋所の水干を纏った諏訪明神が現れ、『善光よ、そなたの背負って来た如来様は、日の本を照らす尊い如来様じゃ。そのお住まいは、日の本の中心にあってこそふさわしい。そなたの生まれた水内郷に、私の長男がおるから、その子供に安住の地を尋ねよ』と託宣されました。明神様のお告げを聞いた善光は、早速如来様を背負い、水内郷への旅に立ちました。いつしか、善光が浪速への旅に立ってから二年が過ぎ、紀元600年になりました。
善光は、生まれ故郷の水内に帰り着き、早速明神様の長男カムヒコワケの神のおわす水内大社に日参し、『如来様のお住まいを定めてください』と祈る日参を始めました。八十八夜の祈りを捧げたその夜、ついにカムヒコワケ神が夢枕に現れ、『尊い如来様を連れて長い旅ご苦労であった。如来様のお住まいは、我が住まい水内大社に作ると良い。私の住まいは今の社の北側の城山に移して良い。また、如来様の新しい住まいの四周を囲むように諏訪明神を配して、土地の固めとせよ』と託宣されました。善光は、言葉の通り、カムヒコワケの住まい水内大社を城山にお移しし、その土地に大きな寺院を建て、如来様をお祀りし、寺の周囲に、武井、湯福、妻科の諏訪明神を祀り、水内大社とともに寺を守る結界を張りました。
寺の完成した夜のこと。善光の夢枕に如来様が現れ『善光よ、ご苦労であった。そなたのお陰で私の安住の地を得る事ができた。諏訪明神のご加護にも恵まれ、素晴らしい住まい(伽藍)も整った。私は信濃のこの地から国中を照らす如来となろう。完成した寺の名前はそなたの名をとり、善光寺(ぜんこうじ)とすると良い。善(ぜん)の光(ひかり)で衆生を導く寺じゃ』と託宣されました。
こうして、信濃国に善光寺が出来、現在まで日本国中多くの老若男女を照らすお寺になったのです。後日談ですが、水内大社の土地を譲られたカムヒコワケ神ですが、善光寺の地主神として、明治の廃仏希釈まで、善光寺の『年神堂』に祀られておりました。廃仏希釈の神仏分離令で、善光寺から水内大社に堂は移されましたが、善光寺の元の主が諏訪明神の一族であったとの左証です。
また、本田善光は、天寿を全うし、八十歳まで生きて、没後は善光寺鎮守の一つで、諏訪明神の息吹きがかかったとされる湯福神社(いぶきがなまってゆふくとなった)にその御廟があります。信濃国にある善光寺と諏訪明神のかかわり合いのお話です。歴史が繋ぐ二つの聖地、諏訪大社(下社)と善光寺。長野県を代表する全国区の神社と仏閣はその距離も150㎞以上隔たり、一見関係無いように思えるのですが、実はとても深く密接な関係をその歴史に持つ聖地同士なのです。まず、善光寺のある水内一帯は、神話の時代は諏訪大神の神領で、神子の一人が治める土地で、そこには水内大社(みのちのおおやしろ)が長らく置かれていました。そして、人の時代になってからは諏訪下社の祭主であり後に下社大祝となる金刺氏の治める領地となり、(朝廷から派遣された金刺氏は水内=善光寺平を拠点としそこから南侵し諏訪湖北へ入りました)下社の庄園的な土地となりました。そこへ、難波から辿りついた如来信仰が根付き置き換わったのが善光寺です。
これには上記にも記した物語があります。本田善光に背負われ安住の地を求めて信濃を北上していた如来様ですが。諏訪に滞在されていた(諏訪の滞在地として真志野善光寺があります)時に、諏訪大神の神示により水内を目指すことになり、水内に辿りつくと神示通り水内大社の神領を譲り受け鎮まられました。そしてそこに鎮まられ善光寺として仏閣を営むにあたりもともとの地主神である水内大社を習合し、本堂の隣に【年(歳)神堂】としてお祀りしたのです。つまり、善光寺のあった土地のもともとの地主は諏訪大神(水内大社)であり、そこに善光寺が置かれ、そのあとも諏訪信仰と善光寺信仰は習合したのです。神領から仏都へと変わったあとも善光寺と水内の諏訪大神は仲良く同居を続けたのですが、150年前の神仏分離令により切り離され、年(歳)神堂として祀られていた水内大社は善光寺北の城山に遷されました。そして、より仏都としての性格が強い長野市に置いて、水内大社は衰退して行く運命を辿ります。
現在では見えなくなってしまっている諏訪大社と善光寺を結ぶ信仰。神社と仏閣、仏と神として別世界に見える二者の間には、幻となった水内大社を通しての、繋がる歴史があります。