神話と伝説

車山の天狗

高島城築城

転載元 http://rarememory.justhpbs.jp/tengu/ten.htm


 高島城は、今から4百年以上も前に、その頃、諏訪を治めていた豊臣秀吉の部将・日根野高吉(ひねの たかよし)が築きました。高吉は、安土城と大阪城が造られる時、役人として働いていました。また強い武将で武器や武具にも知識が深く、兜の鉢から下がる錣(しころ)の「日根野錣(しころ)」などは高吉が発明しました。
 高吉が諏訪にやって来た時、高島城が建つ場所は、島崎と呼ばれていました。諏訪湖の波に洗われる島で、高島村という漁村でした。城を築く前は、上諏訪駅の山側にそびえる茶臼山(手長山の後ろの丘陵・茶臼山、今は桜ケ丘という)に有った本城の出城にすぎませんでした。高吉は、今までの茶臼山城から、諏訪湖畔のこの小島を選んで城を造ろうと思ったのです。日根野氏が諏訪にいたのは、その子吉明とあわせて、2代だけでした。慶長6(1601)年までの12年間でしたから、この短い間に高島城が築かれたのです。
 諏訪の殿様となった日根野高吉は、文禄元年(1592)に高島城を造り始めました。その時、前の殿様の諏訪頼忠が建てた本城の金子城の石材を使って石垣を築こうとしました。金子城の石垣をこわして、舟にのせて宮川を下らせたのです。さらに対岸の有賀村の石船渡(いしふなと)から大きな石を運び、石垣を造りました。今の上諏訪駅のそばの片羽の裏山も崩し、土や石を運ばせました。
 寺や神社の大木をも伐りたおしたりして、諏訪のあちこちから材料を集めました。とうとう金子城は、石垣の石をはずし尽くされて、何も残らなくなりました。諏訪地方に古い墓石がないのは、この時に石垣に用いられたからだとも言われています。たいそうなお金が城を造るには必要でした。金沢の金山の金が使われたそうです。
 ちょうど、城造りが始まったその年に、朝鮮出兵のため、殿様は、兵士を300人率いて肥前の名古屋へでかけました。城造りと重なって、大変苦労しました。城を建てる場所は、諏訪湖の洲ですから、地面が柔らかい沼地です。その上にそのまま石垣を組んでいくと、すぐにかたむいて崩れてしまいます。そこで大きな木の丸太を井桁状(いげたじょう)に組んで、その上に石垣を重ねる方法をとりました。
 工事は大変つらく、きびしいものでした。諏訪中の老人から若者まで、男女の区別無く働かされました。その労働についていけなければ、石垣の中に生き埋めにされ、人柱にされたといわれています。殿様が集める年貢も多すぎて、さらに城の仕事が重なり、生きていくのが難しくなってきた人々もいました。妻子を連れて諏訪から逃げていった人もたくさんいました。村の人みんなが逃げ出して、村が無くなった所もありました。村の人は藁で髪を結び、つぎ合わせだらけの衣服をまとい、懸命に働きますが、その苦しさのあまり、泣き叫ぶ人もいました。
 長男は家を見なければならないので、家へ帰れましたが、二男、三男の若者は、不衛生な仮小屋にとめおかれ、朝は早くから、夜遅くまでこき使われ、休みの日もありませんでした。あまりの苦しさから、若者たちの中には、真夜中にそっと逃げ出す者も多かったようです。逃げても、家に帰れません。直ぐ役人に見つかります。それで松本や高遠の方へ向うか、山の奥に隠れ住むのでした。
 この逃げ出した若者たちが、上桑原山(車山から霧ヶ峰)の「池のくるみ」へ隠れました。若者たちは、ワラビやゼンマイ、マユミ、ミネバ、ニリンソウなどの野草を採って食べたり、川をせき止めて、イワナ・ヤマベ・ハヤなどをもつかまえて食べました。食欲旺盛ですから、豊富に自生するマユミの幹を弓に仕立て鹿を射、落とし穴を細工し猪を狩猟しました。








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