神話と伝説

車山の天狗

車山の天狗伝説

転載元 http://rarememory.justhpbs.jp/tengu/ten.htm


 高島の殿様が日根野様から諏訪の殿様にもどってから、ずいぶんとたちました。上桑原村の若者が朝まだ暗い山道を、車山に向って荷車を引いて登って行きました。タキギとマグサを採るために来たのです。その頃は、村人の多くが、車山へ田畑の肥料となる刈敷(かりしき;山野の草や柴を刈り、田に緑肥として敷き込みました)や家を修理するための木を採りによく登りましたから、ほぼ直線に近い道が、里の上桑原村からついていました。
 一番の近道ですが、ずうっと続く登り道でしたから、慣れていても随分疲れます。野田原(のたつぱら)にようやくたどり着くと、前を人が歩いています。この時代は、霧ヶ峰が上桑原山と呼ばれ、上桑原村、上諏訪町、堀合神戸(ほりあいごうど)、小和田(こわた)の村人しか入ることが許されませんでした。その後ろ姿に見覚えがありません。誰だろうと思って急ぐと、前の人も急ぐので追いつけことができません。池のくるみを越え、蛙原(げえろっぱら) を過ぎ、強清水(こわしみず)に来ました。とうてい追いつけません。そのうち前の人は、「車のぞき」の方に、ぐんぐん登っていきます。それで北大塩村の人かと思い、すごい人がいるのだなと感心して見上げると、雲間からもれる日差しの光の中で、すーと消えてしまいました。そのあとに、かすかでありながら淡く美しい、青い陽炎がただよい、次第にふくらむと穏やかに消えて行きます。若者は、はっと気がつきました。あの方こそ、うわさの「車山の天狗」なのだと……。若者は強清水で刈敷を懸命に集めますが、震えがとまりませんでした。それでも「車山の天狗」に、恐怖は感じませんでした。

 これも上桑原村の若者が、秋の10月、仲良しの5人がそろって、ススキがきれいな、「麦搗きの沢」に、飼い馬が越冬するための厩肥(まやごえ)の萱を集めに行きました。その時も馬を八頭引いてきました。「麦搗きの沢」の土地のほとんどが、美しいススキ野です。昼間から、あらゆる動物が縄張りを競う鳴き声が響き渡り、今でも絶えることがありません。突然、熊や猪があらわれ、襲いかかられる危険が一杯です。でも大変よい牧草がとれるので、仲良しの5人をさそい刈り取りにきたのです。エナガなどの小鳥たちも、人を恐れず、近くによって、ぎりぎりの所で飛び去るこがあります。
 「麦搗きの沢」で一生懸命に、刈り取りを始めてしばらくして、若者の一人が疲れたので、背伸びをしながら、ふっと車山の山頂の方を、あおぎ見ると、昼間なのに、青白い陽炎が、きれいに立ち上っているのが見えました。するとあたりがしーんと静まりかえっているのに気がつきました。鳥の鳴き声や、熊や猪の声も聞こえてこなくなりました。一人仲間から離れて、車山肩からさらに登る車山中腹の踊り場(おどりば)で、草を刈っていったことが分かりました。大切にかわいがっていて、いつもそばを離れない雌馬も「麦搗きの沢」で、仲間の馬と仲良く食べているのが、遥か下に見えました。若者は、かかえられる分だけのススキをかついで、仲間達のところへ駆けもどりました。
 仲間達とその話をしながら仰ぐ車山は、西日をうけて、一面のススキが美しく輝いていました。仲間達も、その神々しい光景に息をのんで見まもるだけでした。やがてそこは、屋根を葺く萱(家萱;いえかや)を刈るための萱野となりました。良質な家萱が採れる一方で、人家が増え、萱が不足するようになってきたからです。それで、春の草刈りが許されなくなりました。
 上桑原村も人が増え、田畑が広がり用水が不足がちになりました。それで文政4(1822)年3月、麦搗汐(むぎつきせぎ)を掘ることになりました。足りない水を、「池のくるみ」の奥の「麦搗きの沢」から引こうとしました。「麦搗きの沢」と「いもり沢」の大湧き水を、「池のくるみ」で貯め、それから禊萩 (みそはぎ)の花がきれいな「みそはぎ沢」へ用水路を引く計画です。その水と合わせて、樋(とい)で横ケ川(よつかがわ)を越して、上桑原御林(おはやし)の科の木細久保の川に落すという全8.9mの長い距離でした。
 上桑原御林は上桑原山の南側、桑原地区の北沢にありました。高島藩が所有する御林で、民の入山を禁止していました。ただ毎年、秋になると、村人は交代でキノコの番をさせられました。麦搗汐の工事は、日数が31日、人足の総人数598人の手間で、費用は637両を越えていました。その費用は、上桑原村、赤沼村、堀合神戸で分け合いました。
 ずいぶんとたくさんのお金と人手がかかり、苦労して完成させたのですが、「いもり沢」と「池のくるみ」の水は、地面の中に吸いこまれて、日照りがつづくと涸れてしまいます。上桑原村の名主様が、2人の村役を連れて、その不思議な現象を調べに登りました。「池のくるみ」を見下ろす丘に立ち見渡すと、美しい空の青さを映す、静かな満水の池のたたずまいでした。見とれて、「なぜ水かさが増えないのか」と話し合うこともなく時を過ごしました。ようやく我に返り、気が付くと、先ほどまでしきりに鳴く動物たちの奇声や野鳥たちのとぎれる事のないさえずりが止み、あたりは神々しい静かさに包まれていました。すると、3人は同時に、アシクラの池の上をただよう青白い陽炎を見て、息をのみます。晴天下でありながら、別次元の鮮やかな色合いでした。時には大きく膨らむと淡く消え、消えたと思うと小さく現れて、しだいに大きくなる、またかすかに消える、何かを語りかける光景でした。村々の人々は、それを名主様から聞くと、車山の天狗様が、「麦搗きの沢」の大切な牧草を守ろうとしたためと考え、すべてを理解したのです。それでも「みそはぎ沢」からは、たくさんの水が田畑に引かれるようになりました。科の木地籍・細久保は、今でも諏訪市の水源になっています。








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