消えた車山の天狗
転載元 http://rarememory.justhpbs.jp/tengu/ten.htm
高島藩最後の殿様の忠誠(ただまさ)様は、頭のよいすぐれた方で、幕末、徳川様の老中にまでなりましたが、明治維新を迎えると、幕府の重要な役目についていたため、新しい政府に大変に気を使うようになりました。一万石を減らされるという誤ったうわさに脅えて、京都の新しい政府へ使いを出したりしました。
明治元(1868)年12月には、神宮寺の堂塔をとりこわしたりしました。それは、明治政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教の排斥運動によるものでした。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とよばれています。
慶応4(1868)年4月の太政官から出された神仏分離令から始まったことなのです。神道と仏教をはっきりと区別することで、お寺や仏像を壊して無くしてしまうことではなかったのです。それでも京都の新しい政府神祇局(じんぎきょく)から使わされた大鑑札使という、名前だけは大層な小役人たちが、権力におごり、鎌倉時代以来からの重要な建築と仏像什器を壊してしまったのです。高島藩では、忠誠様を初めとして家臣たちも、京都の新しい政府に気を使い、ただ高島藩がつぶされないように努力をするだけでした。それが原因でした。明治8年、高島城の天守閣も、命じられてもいないのに、自分の考えで壊させてしまいました。
明治2(1869)年正月、薩摩、長州、土佐、肥後の4つの藩の殿様が、天皇へ版籍奉還(はんせきほうかん)の文書を差し出します。諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)をたてまつり、公地公民の奈良時代の昔にもどすようにしたのです(奉還)。それに日本中の殿様が、みならったのです。新しい政府に逆らえなかったからかもしれませんが、本当の気持ちは、高島藩の殿様をはじめ、ほとんどの殿様は、借金だらけの破産状態で、住んでいる260年以上もたった木造の城も、今ではぼろぼろで、壊れる寸前の状態にあったからです。6月17日、天皇に版籍奉還が聞き入れられたと言う形式で、もとの殿様が知事に任命されたのです。殿様の多くは、肩の荷を下ろしてほっとしたことでしょう。この時に殿様の家来の給与は下げられましたが、もともと俸給(ほうきゅう)の多くが、藩に借り上げられていましたから、貧しいことには変わりがありません。名称の変更があっても、もとの殿様は知藩事に任命され、役職の多くは、もとの家来が勤めていました。諏訪の民の生活にも、あまり影響はなかったようです。
この頃の事でした。柏原村の人が、5月頃、車山にヤマウドを採りに登って行きました。江戸時代末期の信州は、寒く、室(むろ)といって、地面に穴を掘り、大根やネギ、白菜などの野菜を入れて冬の食料として保存をします。室の野菜は、あまみが増し、余分な水分が抜けるので、調理がしやすくおいしいのです。わが家の冬のおいしい食材として、室の利用が今でも諏訪では行われています。
それでも、新鮮な青物が食べたくなります。春の3月の蕗(ふき)のとうやカンゾウの芽が出てくるのが、待ち遠しいのです。山菜こそが、春の訪れがおそい信州で食べられる、初めての野菜です。
柏原村の人は、車山湿原から八島湿原に向う、蝶々深山の裾野が、ヤマウドの群生地であることを知っていましたから、5月になるとたくさん採りに来て、塩漬けして年間を通しての食材として利用していました。
この日が、今年最初の車山のヤマウド採りで、いつものように一人で登って来ました。背負うかごにヤマウドをたくさん刈り採って満足した時は、車山肩に真っ赤な夕陽が沈み始めていました。急いで帰ろうと夫婦岩の方に向かったその瞬間、頭の上の方から、ドォドォドォドォとけたたましい音がします。その方向を見ると、車山の山頂から、数頭の猪が駆け下りてくるではありませんか。急いで逃げようとして、湿地の穴に足が挟まって転んだ、と思ったとたん、気を失っていました。大きな岩に頭をぶつけたようです。どのくらいの時がたったのでしょう。寒さで目を覚ますと、辺りは真っ暗です。昼間は晴れていたのに、星一つ出ていません。方向も分かりません。ただやたらと寒いのです。すると春の小雨が降り始めました。ますます困りはてていると、とつぜん前方に一つ、二つ、三つと青白い炎のようなものが見えてきました。あっと思うとすーと消えます。消えたと思うと、一つ、二つ、三つと炎の行列が現われます。村人は、車山の伝説として語られる、あれこそ車山の天狗様の炎だと気がつきました。
その瞬間、寒さと恐れが消え、安心してその炎に向って歩く事ができました。途中、一つ、二つ、三つと炎の行列が導くままに、夫婦岩を過ぎ、車山の南斜面の入の嶺を下り、中笹川の渓流に沿っていく時には、車山の天狗様の炎だという確信が持てるようになりました。音無川に出ると、前方の柏原村の闇空の下に、村人たちの自分を探す松明の明かりが、たくさん見えてきました。それからは、一つ、二つ、三つと青白い炎の行列が消えていきます。村人は、振り返り闇の車山へ向って、拝み続けるばかりでした。
明治4年7月14日、在京の知藩事を召しだし、廃藩置県を申し渡します。高島藩は高島県となりますが、知藩事の諏訪忠礼(ただあや)様は県知事に任命されませんでした。その後、忠礼様は東京へ移住し26歳で亡くなられました。
11月、府県の全国的な統廃合が行われました。同月20日、中南信と飛騨の諸県が合わせられ筑摩県となりました。県庁は筑摩郡松本に置かれました。高島県庁は、筑摩県高島出張所となり、県令は中央の政府から任命されてきました。県庁の役人にも、新しい人がきました。かつての高島藩の家来は辞めさせられました。翌5年3月、高島出張所は筑摩県へ事務の引き継ぎが終わると閉ざされます。高島藩は名実ともに終りを告げたのでした。