東山道
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東山道(とうさんどう、とうせんどう、あずまやまのみち)は、山陽道・山陰道・東海道・北陸道・南海道・西海道と並ぶ古代の官道、五畿七道の一つである。大化2年(646)正月、大和朝廷は改新の詔を公布し、中央集権の強化策の一つとして、その2条で「初めて天皇の都を整え、皇居に近い大和、山城、河内、摂津の畿内4カ国に、国司や郡司を置き、国境には関所、砦を設け、斥候や防人と駅馬、伝馬を置く」とし、中央と諸国の国府を結ぶ官道の整備が図られた。官道には、大・中・小の格付けがあり、当時枢要な九州大宰府に通じる山陽道が大路、東北蝦夷地への侵出通路の東山道と東海道が中路、北陸道・南海道・西海道・山陰道は小路であった。その東山道は近江より美濃・信濃・上野・下野に通じ、古代の初期から開設されていた。
古東山道を改修・整備し官道とした。『続日本紀』には、大宝2年(702)、「始めて美濃国の岐蘇(きそ)の山道を開く」と記されている。当時、木曽は美濃国に属していて、「岐蘇の山道」とは神坂峠越えの東山道の開設であった。こうした官道には、30里(約16キロ)ごとに駅(うまや)が置かれた。官道や駅の制度は大和朝廷が政治上の目的をもって設置したものであることから、中央の役人の往来や軍事のための利用であった。
律令体制では、諸国の宿駅に所属する家・駅戸(えきこ;うまやべ)が定められ、一定の戸数が指定されていた。駅馬の飼育や駅の経費に充てるため、租税免除で国から支給される駅田(えきでん;大宝令では駅起田と称した)の耕作などを受け持った。駅には、駅戸の中から選ばれる駅長(うまやのおさ)が置かれ、駅使(えきし;はゆまづかい)の送迎およびその事故の処置、駅鈴(うまやのすず)の検査、駅子(えきし;駅戸の課丁、言わば駅丁【えきちょう】)・駅馬(はゆま)・駅家(えきか;うまや)の管理監督を主な職務とした。10疋の駅馬を常備していたほか、佐久郡で5疋の伝馬(てんま)を置くなどの規則が設けられていた。伝馬は逓送用の馬で、律令制では、駅馬とは別に各郡に5頭ずつ常置して官吏の公用にあてた。
東山道は、近江国勢多駅を起点とし、美濃・信濃・上野・下野・陸奥の各国国府を通る道であり、陸奥国府・多賀城より北は小路とされて、北上盆地内にあった鎮守府まで続いていた。
行政区画で東山道に区分されていた上記以外の飛騨・出羽の各国国府には、幹線道路としての東山道は通っていなかった。飛騨へは美濃国府を過ぎた現在の岐阜市辺りから支路が分岐し、出羽国へは、小路とされた北陸道を日本海沿岸に沿って延ばし、出羽国府を経て秋田城まで続いていたと見られる。また、東山道から多賀城に至る手前で分岐して出羽国府に至る支路もあったと見られる。
上野国府からは武蔵国へ向かう東山道武蔵路が設けられた。元来、東海道は相模国から海路で上総国・安房国へ渡り、そこから北上して下総国方面に向かう経路が取られていたが、その後、海路に代わり相模国から武蔵国を経由して下総国に抜ける経路が開かれ、宝亀2年(771)旧10月27日武蔵国は東海道に区分された。なお、行政区画として東海道に区分された甲斐国府へ至る支路も、現在の中央本線に似た経路で存在していたと見られる。
平安時代、平安京との間の運脚(運搬人夫)の日数(延喜式による)は以下の通り。括弧内は陸路の行程日数で、前者が上り、後者が下り。上りの際は調と庸を携え、その他の旅費にあたるものも携行したため、下りの約2倍の日数がかかっている。
東山道:近江国府(1日/0.5日)、美濃国府(4日/2日)、信濃国府(21日/10日)、上野国府(29日/14日)、下野国府(34日/17日)、陸奥国府(50日/25日)
支路:飛騨国府(14日/7日)、北陸道:出羽国府(47日/24日)
信濃坂(信濃国境神坂峠)は、美濃国坂本駅(中津川市駒場の地)からの信濃路への急峻な峠越えで、岐阜県中津川市と長野県阿智村を結ぶ道筋であった。恵那山につらなる山並み、その中で一番低く見て取れる場所が標高1569mの神坂峠である。美濃国坂本駅から信濃国阿智駅間の距離は74里、現代の里程では約12里49kmで、標高差のある指折りの山道の難所であった。現代では、下を中央高速道路の長さで有名な恵那山トンネルが峰を貫通している。恵那山が2191mなので、比較して低く見えるが、越える者にとって、その高さと険しさは困難を極めた。『日本書紀』に、景行天皇の時、日本武尊が東国12道の荒ぶる神やまつろわぬ者どもを征服するように命ぜられ東征したその帰路に、神坂峠を越えたとある。鹿に苦しめられ、白狗の出現に助けられたという。神坂峠が既に、この時代から曲がりなりにも開通していた重要路であった。平安時代初期、最澄が信濃国を旅したとき、最難所である峠のあまりの急峻さに驚き、815年、広済院(こうさいいん)と広拯院(こうじょういん)を建て、旅人の便宜を図った。前者が美濃側で後者が信濃側で、それぞれ一軒ずつの「お救い小屋(仮設避難所)」である。1003年には信濃国司藤原陳忠(のぶただ)が谷に落ちて、家臣達が慌てふためく最中、谷底から主が「籠をおろせ」と叫ぶので籠をおろすと、平茸(ひらたけ)がいっぱい入れられ上がってきた。家来があきれていると、陳忠は「受領は倒れるところに土をも掴め」とたしなめた、という話で、やはりこの神坂峠付近が舞台です。いずれにしても、神坂峠の存在は大きかった。後世、木曽路が整備されてくると、平安、鎌倉期には通行頻繁だった神坂峠も、その重要性を失ってくる。
『続日本紀』には和銅六年(713)、信濃坂が難路であったので、吉蘇(きそ)道を開通するとあって、翌年2月、その工事に功があった美濃守笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)が、封戸70戸、功田6町の恩賞を賜ったことが記されている。駅路でない、単なる小径であった古道を改修して吉蘇路(きそじ)を開通させた。木曽は古代「吉蘇」の字が使われていた。木曽谷は伊那谷と比べると、狭隘な渓谷が続く山間の道である。耕地の適地に乏しく古代集落の発達が遅れていた。しかし吉蘇路は、東山道が美濃から急峻な神坂峠を越える迂回路であったのに比し、美濃から木曽谷を経れば松本平への直路となり、その先の善光寺平を経て越後に到る要路でもあった。覚志駅(かがしえのうまや)で伊那から遡上してきた道と結ばれている。次の難所が青木村の保福寺峠越えで、上田へと通ずる道は険しい道であった。
この駅路東山道の原初の道は、大和国から伊勢・尾張・美濃の各国を経て信濃坂を越え、天竜川沿いに北上し、宮田駅(上伊那郡宮田村)を過ぎてから北東へ向かい、標高1,247mの杖突峠を越えて、急坂を下って諏訪郡へ出、更に東北に進み、縄文時代に繁栄を極めた湯川以北の北山浦の当時ほぼ無人の地を過ぎ、この時代、沼地だった白樺湖の大門峠を右折して、女神湖を下り、現在の長門牧場の北東にある雨境峠を越えて、春日(現北佐久郡望月町春日)に出る。更に佐久郡に下り、佐久平を北東に進んで碓氷坂に至ったと推定されている。筑摩郡を経由する道は大宝2年(702)に開通していた。東山道の最大の難所は、南の信濃坂峠、北の碓氷坂及びその中間にある現保福寺峠であったが、東海道には幾つかの大河が存在していることもあって、大和朝廷が陸奥・出羽への侵出に当たって次第に重要路線となり、奈良時代の中頃までその主要道路とされていた。
ちはやふる 神の御坂に 幣(ぬさ)まつり 斎(いほ)ふ命は 父母のため 信濃坂にて 万葉集巻20防人の歌
信濃路は 今の墾道刈株(はりみちかりばね)に 足踏ましむな 履(くつ)はけ我が夫(せ) 保福寺峠で 万葉集巻14東歌
ひなぐもり 碓氷の坂を 越えしだに 妹が恋しく 忘らえぬかも
最後の句の意味は、ひなくもりは碓氷を導く枕詞で、碓氷の坂を越える時は、国へ置いてきた妻のことが恋しくて忘れられない。防人の碓氷峠越えの別れの恋歌。
信濃国における経路は、美濃国坂本駅から信濃坂(神坂峠;みさかとうげ)を越え阿智駅(下伊那郡阿智村駒場)に下り、伊那郡を下る天竜川沿いを遡上し、育良(いくら:下伊那郡伊賀良村)・賢錐(かたぎり;上伊那郡中川村.旧片桐村;上伊那郡の最南端に位置)・宮田(みやだ;上伊那郡宮田村;古くは伊那路交通の要所で信濃15宿の一つ。江戸時代は高遠藩領であった。)・深沢(ふかさわ;天竜川の支流深沢川が流れる上伊那郡箕輪町中箕輪)の各駅を経て善知鳥峠(うとうとうげ;松本平と伊那谷の境界をなす峠.表日本と裏日本の分水嶺をなす峠の一つで、標高889m。江戸時代中馬の道三州街道は、小野からこの峠を越えて中山道と合流した。長野県塩尻市)を越えて筑摩郡に入り、覚志駅(かかしのうまや;松本市芳川村井町。平安時代から信濃国府が置かれた)を経て、錦織駅(にしごり;上水内郡【かみみのちぐん】四賀村【旧保福寺村】錦部)に出る。この駅は保福寺峠越えの重要な駅であった。峠の名は宿の東端にある曹洞宗保福寺に由来する。江戸時代保福寺街道保福寺宿に、松本藩の保福寺番所が置かれていた。そこから保福寺峠越えとなる。明治になって英国の登山家ウェストンが保福寺峠で、北アルプスの連山の展望に感動し日本アルプスと命名した話は有名である。江戸時代は手前の刈谷原宿が、北国西街道(善光寺街道)との分岐点として栄えた。やがて鉄道の開通・車社会の到来で、二筋とも殆ど使われない道となった。
本道は東に方向を転じ、保福寺峠を越えて小県郷浦野駅(うらの)に至る。今の小県郡青木村に隣接する上田市に浦野の地名が残る。駅の場所は特定されていないが、東山道の難所保福寺峠越えの重要な駅であった。亘理駅(わたりのうまや)は千曲川を渡る重要な駅で、千曲川畔に設けられた駅(うまや)で、伝馬10疋をそなえていた。その場所は、現在の上田市常磐城と推定されている。従来信濃国府は上田市亘理周辺にあったと考えられていた。近年の屋代遺跡群の発掘調査により、その定説を変えざるを得ない木簡が発見された。
森将軍塚古墳に近い屋代遺跡から出土した木簡には、年紀(乙丑【(きのと うし】年=665年)が書かれ、その裏面に「『他田舎人(おさだのとねり)』古麻呂」と氏名と名が記されていた。全国最初の地方「国符木簡」の出土で、信濃国司から更科郡司等に対する命令の木簡であった。また、「信濃団」の文字が記された木簡もあった。亘理駅から屋代にあったと思われる信濃国府に通じる道が当然あったはず、即ちその道が、後の鎌倉街道となったものと考えられるが、現在ではその道筋も、伝承もない幻の街道となっている。千曲市の東山道も、後の鎌倉街道も、千曲川の洪水によって流失したあと、村上時代に山の裾野に街道が開かれたからで、そこに鼠の宿も設置された。
亘理駅で千曲川を渡り、上水内郡の多古(たこ:長野市三才から田子付近)・沼辺(ぬのへ:上水内郡信濃町野尻または古間)の良駅を経て越後国に至る支路があった。それぞれ駅馬は5頭であった。亘理駅で千曲川を渡り、佐久郡清水駅(小諸市諸)・長倉駅(ながくら;軽井沢町の長倉;中軽井沢の北隣)経て、碓氷坂を過ぎ、上野国坂本駅へ至る路となる。小諸市諸にあった清水駅も、信濃にある15の駅の一つで、当然水の確保も課せられていた。水の豊富な諸にはうってつけであった。清水駅は全長約270mあり、中央の道路をはさんで両側に、間口およそ22m、奥行およそ45mの地割をして駅の役人たちの屋敷にした。道路の中央には駒飼(こまがい)の堰を通し、また屋敷北側の後ろには飲用の堰を流し、それに沿って小道が通じていた。