縄文時代の地域的特性


三浦半島の縄文時代

転載元 http://rarememory.justhpbs.jp/jyoumon/


 昭和21(1946)年、群馬県赤城山麓を踏査していた相沢忠洋による岩宿遺跡の発見、昭和25(1950)年、神奈川県横須賀市夏島(なつしま)町の夏島貝塚の発掘調査などは、静岡県登呂遺跡の発掘と並んで、戦後の考古学研究に指導的役割を果たした。
 夏島貝塚の発掘調査では、放射性炭素(C14)による絶対年代の測定という、新しい化学的手法を活用したことで知られている。貝塚の牡蠣殻についての C14 による年代測定の結果、9,240±500BPという値が得られ、この貝塚の年代は、予想を超えた古いものであった。この測定値もまた縄文文化の初源年代を、更に遡る契機となった。
 夏島遺跡は、三浦半島東岸の金沢湾に面した小丘陵の南端にある。三浦半島の縄文人は、海をすぐのぞむ丘に集落を営み、かなり長期間生活している。9,500年前の縄文早期末から後期(4000年~)前半まで、各年代の土器が出土している。 この遺跡は、世界最古の貝塚で、今から1万年近く前(縄文早期初頭)の遺跡として世界的に貴重なものでる。昭和25(1950)年から5年間に渡り、明治大学考古学研究室の発掘調査が行われ、貝、魚骨、獣骨、土器、石器などが多数発見された。
 当時は、世界最古の土器が発屈されたと、世界的に話題になった。各年代層ごとの土器の出土により、撚糸文系の井草式・大丸式と夏島式との新旧関係が確実に把握され、その上層に、縄文時代早期の田戸下層式土器も出土している。
 夏島式土器は、夏島貝塚で初めて出土した。尖底深鉢の縄文早期特有の土器様式で、関東地方で、その後広く分布していることが分かった。土器の大きさがまちまちで、最大口径40から10cm程度のものまである。実用的に使用目的に応じて、製作されていたと考える。文様は撚糸文と縄文が主体であった。
 最後の氷期で、最も寒くなるのは2万年前で、その後、地球上を覆っていた氷や雪が溶け始め、更には極地の氷河も海水となり、海水面は、次第に上昇を始まった。 こうして、縄文前期(約5,000~6,000年前)から中期(約4,000~5,000年前)には、縄文海進が起こった。それで、横須賀市の横須賀港・日出町など低地は、水没し、海面は、現在より5m前後高くなっていた。
 久里浜付近から徐々に海が入り始め、平作川流域が海の底になり、衣笠十字路付近まで海水が進出し、古久里浜湾という内海ができていた。この湾をのぞむ周辺の小高い丘に、三浦半島の縄文人は集落を作り始めた。 当時の縄文人の生活跡は、横須賀市内の吉井城山、伝福寺裏、茅山など、古久里浜湾を取り囲むような場所で発見されている。ただ、市街地として開発が早いため、史跡の殆どは消滅した。それでも、この時代の人々の生活は、夏島・平坂・吉井などの貝塚遺跡で、相当程度、推測は可能となった。
 吉井の丘にも、波が打ち寄せますが、内湾なので潮騒穏やかな海であった。汀から少し上がった丘に、竪穴住居を造り始める。目の前の海からマガキ、ハイガイ、アサリなどを採り、マダイやブリを釣りあげまた。縄文人としては、恵まれた環境下にあって、丘に戻れば、生でも食べられ実がなるシイの山があり、食料源の山野草を採集しながら、猪や鹿を追いかけ、秋になると、無花果(いちじく)など山野の実を、見つけ次第食べながら、懸命に栗やドングリを採集し貯蔵して、厳しい冬に備えたようだ。
 縄文早期前半(10,000年前~8000年前)、夏島・平坂・吉井の縄文人は、家族単位の小さな集団で暮らしていた。縄文海進の前後の時代(7000年前~4000年前)になると、集落をつくり数十人の集団で暮らすようになっていった。集落では、土器や石鑓、石斧などを共同で作っている。古久里浜湾から採れる海の恵みは、貴重な食糧源で、集団で網漁を行い、魚を浅瀬に追い込んだりした。
 この時代の集落は、過酷な自然を相手にしては抗するすべのない、ただ懸命に耐えぬく生存ための共同体でもあった。血縁関係による集団で、定住し、何世代にもわたり営々と文化を守っていく集落とは違うのではないかと想像される。生存が容易ではなく入れ替わりが頻繁で、自然淘汰を免れるため、相互の情報の交換が必要不可欠で、そうした職能的な集落であった。
 縄文人たちは、日常的に他の地域と行き来をして、広範囲に物や人の交流を行っている。生活物資としての、黒曜石製石器、石器文化の必要材料としてのアスファルト、装飾用としてのヒスイ、縄文晩期の製塩など種々ある。
 鹿、猪等を食べていたが、せいぜい一年に一家族で、1頭から2頭くらいだったようだ。 焚き火で骨付き肉を焼いてそのままかぶり付くのとは違い、実際遺跡から出る骨を調べると、焼けているものはほとんどなく、また、骨は意図的に打ち砕かれたようになっていた。それは骨髄を取るために割ったと考えられるす。それを、生のまま食べたとしても、骨には肉片や軟骨などが残るから、それを有効に利用するために、茹でて食べた可能性もある。 また、骨髄は塩分、ビタミン・タンパク質・脂肪等の栄養に富んでいるし、味わいも豊かである。その汁を、ドングリで団子を作る際、入れたりしていただろうと思われる。
 縄文人は、成人するまで生きられるのは、4人に1人の割合だった。成人しても毎日が命がけで、無事に冬を越した若者は、春になる頃に、新天地をめざして集落を出ていったのではないかと想像される。狐・狼・熊などの生態と一緒だ。
 それでも、縄文海進前後の時代に人口が増え、東日本各地に多くの遺跡を残した。縄文人が最も輝いていた時代かもしれない。狩猟採集に生活の基礎を置く縄文人の活動範囲は、想像以上に広大だ。犬を使って猪や鹿の巻き狩りをする。集落の協力作業の必要性が、一段と高まる。
 夏島式土器を含む縄文時代最古の貝塚の一つに数えられる第1貝層からは、縄文時代最古の犬骨も検出されている。それ以降の各貝層からは、各年代形式の土器を包含する中より,礫器・局部磨製石斧・石皿が多く発見された。鹿の骨や角で作った釣針・ヤス(魚を突くモリの先に付ける)などの骨角器も発見され、漁労活動の一端をうかがうことができる。
 9千年前の夏島周辺は、マガキが付着する岩礁地帯だったことが分かっている。魚類は、マダイが多く、ボラ、クロダイ、ブリ、スズキ、マイワシ、サバ、と続く。 この頃、三浦半島の縄文人は、丸木舟を東京湾(浦賀水道)に漕ぎ出して、大物を釣り上げていた。出土した魚の顎の骨からマダイやブリは、体長が60cm以上と推定される。温暖化によって、気候や海流は現在と異なり、近海にも大型魚が群れていたようだ。
 縄文早期の三浦半島には、コナラ、クルミなどの温帯性の落葉広葉樹林が広がっていた。暖帯性照葉樹林が残る現在の三浦半島より多少寒かったようだ。
 夏島貝塚の発掘後、約11,000年前の遺跡、愛媛県の上黒岩陰遺跡から埋葬された犬の骨が出土した。それにより、犬は縄文時代の当初から日本にいたことが明らかになった。縄文人は犬をとても大事にしたようで、当時の犬の大部分は、人間と同じように埋葬されていた。稀に解体した痕のある骨が検出される。飢饉のおり、やむなく食料とされたようだ。基本的には、狩猟犬で出土した犬骨を調べると、殆ど6歳までで死んだ成犬と、生後半年ほどで死ぬ幼犬が多く、その成犬中には、狩猟中に怪我をするものも多くいたようで、背骨が折れて助骨と癒着していたり、前足が1本折れていたのもあった。特に、成犬の歯の強い磨滅が目を引くという。彼らはヒトの補助役を果し、激しい使役に耐えていた。 それでも、骨折が治癒した犬も多く見られ、狩猟犬として役に立たなくなっても、大切に飼育されていたようだ。
 縄文犬は体高40cmくらいの小型犬で、狐のような顔立ちで、四肢が太く、短く、強靭な骨格で、立ち耳、巻き尾という、柴犬に近い犬とみられている。狼とは、大きさも骨の形態も違う。縄文犬は、東アジアから人と伴に、狩猟用、警護用、なによりも愛玩用として渡来したようだ。
 一方、弥生犬は前頭部にくぼみを持ち、頬骨が張り出している。弥生犬は、モンゴルなど東北アジアから、既に狼から犬に形態的に変異した後、朝鮮半島に移入した犬が、さらに突然変異が起こし、それが朝鮮半島からの渡来人に連れられて、日本列島に渡ってきたようだ。弥生人は、犬を食べるために豚等と一緒に連れてきた。犬を食べる習慣は稲作と同様、この時持ち込まれた。そしてこの時期の犬が、その後の日本犬の基礎になった。
 長崎県の原(はる)の辻遺跡から、殺されて食べられた跡のある、たくさんの犬の骨が発見されている。弥生人は農耕を生業にしており、犬は害獣から農地を守る、番犬だけの役割を果すだけだ。その代りに、食用として手じかな存在でもあった。それが6世紀頃になると、仏教の伝来とともに、犬だけでなく牛、馬、鶏などの肉を食べることが禁じられるようになる。実際にはその後も、わずかながら犬を食べる習慣が残っていた。明治時代以降は欧米の動物愛護思想の影響からか、ほとんど食べなくなった。
 この夏島遺跡から、住居跡は発見されていないが、気候が温暖で魚貝類が豊富な夏島に、縄文人は早くから住み始めたようだ。
 常に自然の恩恵に浴し、活動的な生業を営んでいた縄文人たちにも、自然の非情な力に対抗するだけの技術は、持ち合わせていない。神奈川県横須賀市平坂貝塚出土の縄文早期人の人骨には、何本もの「飢餓線」が形成されていた。一見"縄文ユートピア"のように見られがちの彼らの生活は、想像以上に厳しく、また必死であったに違いない。


 人類は、いまから約4百万年前、アフリカ大陸で誕生した。それから、約1万年前までは狩猟・採集の段階にあったため、「人類にとって有用な自然物」、すなわち資源は、野生の動植物とそれを捕獲・採取するための岩石、骨、調理・暖房用の薪炭などに限られていた。
 食料資源になった野生の動植物は、農産物とは異なり、けっして高密度には分布してはいない。このため、1人の人間の生存に必要な面積は、研究者によってかなりの相違があるが、10平方kmとも推定されている(『クリーンな地球のグリーンな資源-新時代の食糧生産システム』農林統計協会、1988年)。
 地球の「人口支持力」はきわめて限られ、2万5千年前の人口は約3百万人、1万年前の人口も5百万人から1千万人と推定されている。
 約1万年前、日本以外の地では、新石器時代に入り農耕・牧畜が始まる。農地・牧草地が最重要の資源となった。当時は、利用できた土地は限られ、単位面積当たりの収穫量もきわめて少なかった。また、いまから約5千年前までは、原材料資源も、岩石と森林に限られている。文明間の隔たりは大きいが、人類は、3千年前頃から青銅器時代、2千年前頃から鉄器時代に入る。しかし、産業革命以前は資源化された金属の種類は限られ、生産量もわずかなものであった。
 縄文時代早期の日本人口は、小山修三の推計に依れば全国で約2万人。既にこの段階で、人口密度は、落葉広葉樹帯の東日本に高く、食料源となりにくい常緑広葉樹の多い西日本では低いという、その後の縄文時代1万年間を通して不変の構図ができあがっていたといわれている。
 豊かな縄文時代と時には表現されるが、決して恵まれた環境下にあったわけではなく、ピーク時の人口が26万人、その平均寿命は、30歳位であったと考えられている。これは、100人生まれた乳幼児が15歳になるころには約50人、30歳になる頃には約25人しか生存していないことを意味している。これでは、一夫婦が最低8人の子供を生まなければ人口が維持できない計算になる。
 定住生活による文化の伝承が、集落の形成によって可能になり、同時に、集落は自らの生存とって必要不可欠なものとなった。個々の家族では、継続発展は無理だ。しかも縄文晩期には、寒冷化と環境悪化により8万人ほどに、人口は急減している。
 人類は、常に生存の危機に脅かされてきた。縄文人の人骨には、何本かの「飢餓線」が、確認されているのもそのためだ。
 昭和22(1947)年、神奈川県横須賀市小川町の平坂西貝塚からは9千年前の縄文早期の人骨が一体発見された。発見された縄文人は「平坂人」と呼ばれている。平坂人は身長163cm以上の壮年男性で、当時としては長身で、筋肉は発達していたが、歯はかなりすり減っていた。この事から、縄文人は、硬く砂混じりの食物を食べていたようだ。特に、下顎の切歯部と第一臼歯が、唇側あるいは頬側へ下降するようにすり減っていることから、ものを噛む運動のほかにも、皮をなめすなど、歯を道具として利用していた。
 骨をX線写真でみると、横に走る線が現れている。「飢餓線」だ。成長期の頃に極度の栄養失調や重病にかかったりすると、骨の成長が一時止まり、健康を取り戻すときに、骨に変化が起こり線として残る。平坂人の中足骨(ちゅうそっこつ;足の裏を形成する5本の骨)には、11本の年輪のような「飢餓線」があった。
 この時代、縄文早期の三浦半島にはコナラ、カエデなどの温帯性の落葉広葉樹林が広がっていた。平坂東貝塚からは、マガキが多量にでている。9千年前の深田台周辺はマガキが付着する岩礁地帯だった。それに、ハイガイ、ハマグリ、アサリなどの貝類、魚ではマイワシの骨が大量に見つかっている。サバ、クロダイも多く、マグロやカツオといった外洋性の回遊魚も出土している。動物では鹿や猪の骨もあった。鹿の角で作った釣針も見つかっている。
 以上のことから、その環境は、むしろ恵まれていた方といえる。それでも、11本の「飢餓線」がある。 現在の日本人にも「飢餓線」が見られ事がある。一番多いのが、戦争体験世代のそれである。
 平坂人は、9千5百年前のものといわれる夏島貝塚の「夏島式土器」と同じ土器を携えていた。「夏島」で暮らしていた集団から別れて、「平坂」に移ってきたのかもしれない。丸木舟を使えば1日もかからない距離だ。
 海洋に進出し始めた三浦半島の縄文人が、伊豆諸島に移り住むようになるのは、今から8千年前(縄文早期中葉)のこと。横須賀市平坂貝塚から出土した無文土器(平坂式土器)と同じタイプの土器が、伊豆大島で住居跡とともに大量に伴出した。三浦半島にいた縄文人が外洋に積極的に進出を始めた頃の遺跡だ。








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