縄文時代の地域的特性


三内丸山遺跡

転載元 http://rarememory.justhpbs.jp/jyoumon/


 青森湾の湾奥にある青森市大字三内字丸山の遺跡は、縄文前期の円筒下層a式土器から中期の大木10式期まで、土器形式で12期にわたっている。2,000年のAMS(加速器質量分析)による放射性炭素C14年代測定法の補正年代で、縄文時代前期から中期の約5,900年前~4,300年前の集落跡が、1,500年間にわたって継続して営まれていた事が明らかになった。700軒以上の住居跡から、土器形式の帰属年代とそれに伴う遺跡の規模が時代により大きく変貌していた。また時代により石鏃が多かったり、磨石が多くなったりと石器組成にもダイナミックな変化がみられた。竪穴住居も掘り込んだ床の形や家の構造には、時代によって変移し、縄文中期中葉、住居の数が多い円筒上層d式・e式期では、住居の殆どが長軸4m以下と小さくなり、竪穴の掘りも浅かった。通年の定住集落ではなく、季節的定住、寧ろ積極的な「夏季の交易センター」としての市場の様相を示していた。

 現在まで、三内丸山遺跡で発見された遺構の中で、最も重要視されているのは、竪穴住居跡などで、その柱の大きさもさることながら、その柱の穴の間隔、深さがそれぞれ4.2m、2mで全て一致することだ。当時既に測量に基づく定準化技術などが備わっており、三内丸山の住民達が、高度な文明領域に達していた事をうかがわせた。特に4.2mというのは他の遺跡でも確認されており、広い範囲での技術の共有がみられる。柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がし、腐食を長く防いだ一因となっている。発見された竪穴住居跡は、約700棟以上にのぼり、遺跡全体では1,000棟を越すとみられている。縄文時代の家は、地面を掘り下げて床を作った竪穴住居が普通で、それでも時代により形や構造が変化している。特に炉は、地面を掘ったもの、土器片を敷き詰めたもの、石で囲ったものなどが遺存していた。

 三内丸山は南北2群に分かれた数軒ずつの竪穴住居から始まった。集落として計画的に施設が配置されたのは、前期後半から中期初頭にかけてである。この時期に集落の中心に超大型竪穴住居と掘立柱建物群が建てられた。竪穴住居の平均面積は約30㎡で、この遺跡の1,500年間を通して最も大きい、安定した定住生活がうかがえた。現在では、発掘された遺構をもとに、シンボル的な3層の大型掘立柱建物、大型竪穴住居、竪穴住居などの住居群、倉庫群が復元され、当時の集落の有様が公開されている。大型掘立柱建物は、地面に柱穴を掘り、柱を建てて屋根を支えたものと考えられる。集落の中央、南の盛土の西側などから密集して見つかった。柱穴は直径約2m、深さ約2m、間隔4.2m、柱材は直径約1mのクリの木であった。木柱の周囲と底を焦がしていたため腐らずに遺存した。地下水が豊富で常に水没した状態であった事にもよる。6本柱で長方形の大型高床式建物を支えていた。柱の下の土の分析から、高さ約20m以上の建物であったと推測されている。大型掘立柱建物跡の木柱2本の年輪を計測したところ、太い方は84年の年輪があった。栗材は水湿に耐え、耐朽性が高い。古くから住宅の土台として特に高く評価され、資源が豊富であった時代には鉄道枕木としても活用されていた。
 長さが10m以上は大型住居跡とするが、大型竪穴住居跡例として、長さ約32m、幅約10m程で、床面積は252.38㎡のものもある。その広さから、集会所、共同の作業場、祭祀場、冬の間の共同家屋などの用途が推測されている。

 次の縄文中期前葉期、特に円筒上層a式からc式期の間、三内丸山の住居跡は少なくなり、特にその中間の円筒上層b式期の住居跡は10軒にも満たなくなる。このムラの衰退はこの時代の青森県全域の動向であった。大きな環境変化か、それにより生ずる生業の転換期か、何があったのか。
 その後ムラ関係の再編が起こり中期中葉以降は竪穴住居が最大の数になる。だが住居群は広く拡散し、以前の計画的集落のように中心に大型竪穴住居もみられなくなる。長軸3~5mが多く、竪穴住居の平均面積は約10㎡と小さくなり竪穴も浅くなる。上屋も殆どが簡素な伏屋作りであったようだ。拠点的定住集落としての佇まいがなくなっていた。
 季節的集住が想定される。晩秋から春にかけて三内丸山から離れ、冬はイノシシやシカ狩の季節、春は山採や魚介類の採集に忙しい、秋はドングリ・クリ・クルミなどの植物質食料の確保が優先、小集落に分かれていた人々は、夏は漁労の季節でも夏至前後は収穫量に陰りが出る、その前後に三内丸山に集住し、夏至の祀りとその前後にかけて行われる例年の交易市を盛大に行い、その間、狩猟漁労や植物食材の採集に励み、宴会用にカモやキジなどの焼鳥、鮭・イルカの塩漬けやイノシシの薫製、干し貝などの保存食と果実酒を地元産として交易の場に提供もしていただろう。

 ヨーロッパでは、旧石器時代から竪穴住居が出現している。pit-house, pit-dwellingと呼ばれ、世界レベルでは、新石器時代に広く伝播した。中国では、仰韶文化(やんしゃおぶんか)の代表的遺跡である西安の半坡遺跡(はんばいせき)で発掘されている。日本でも、後期旧石器時代ごろから、北海道から九州にかけて諸所の遺跡で出土し、主に伏屋式竪穴住居が殆どであった。ただ日本の蒸し暑い夏を、各地で再現されているような竪穴住居で暮らすのは厳しい。樺太アイヌや北アメリカの北西海岸インディアンなどでも、冬は竪穴住居に住むが、夏は転居し柱穴すら掘らない簡易な掘立小屋を建てて過ごしている。三内丸山でもこの時代の交易を目的とした短期間の市場であれば、遺構として遺らないキャンプサイト的住居の方が多数を占めていたのかもしれない。

 三内丸山からは、畳3畳分の場所から植物遺体で固まった厚さ約5~10㎝の堆積層が出土した。ヤマブドウ、サルナシ、ヤマグワ、キイチゴなど「酒造用」植物の種が検出されている。そのうち大部分がエゾニワトコだった。縄文前期の秋田県大館市釈迦内の池内遺跡(いけないいせき)では、植物繊維が絡まったニワトコの果実の種が発見された。縄文人が、植物繊維で果実を絞り発酵させ果実酒造っていた痕跡であろう。池内は内陸深く入った遺跡であるが、ブリ・サバ・サメなどの海産魚が多く含まれ、ブリの椎骨が多数あるのに頭骨が全くない出土状況であった。沿岸部で獲った魚を、腐りやすい頭を除き干物や燻製にして、池内へ運び交易したとみられる。

 三内丸山では秋のクリやドングリの収穫後、越冬に備え、それぞれの集落に引き上げて行く。ただこの地で越冬する集団もあった。この時期にも三内丸山内に貯蔵穴が掘られ、また乳幼児の埋葬のための埋設土器が埋められている。
 定住生活の度合いが下がるが、この時代、列状墓が拡大し、それに伴い道路整備が進められている。祭祀活動も一層盛んになり、南盛土が厚さ2m~2.5mまでになる。この縄文時代一般の特徴として儀礼的な祭祀が終わると、交易上の情報交換の場ともなった祭宴が盛んに行われた。宴の後は使用した品々を盛土に廃棄した。
 大量の遺物がすてられた谷や北盛土は、壊れた土器や貝殻、魚の骨などが発見され生活廃棄物の処分地だった。一方、興味深いのは南盛土(もりど)で、、膨大な量の縄文土器、石器、土偶、石の装身具、木器(掘り棒)、袋状編み物、編布、漆器類、骨角器、他地域から運ばれたヒスイや黒曜石などが出土している。 生活廃棄物場ではありえない、ミニチュア土器類など祀りにかかわる遺物なども多数出土している。貴重なヒスイも、その大半が盛土遺構から発見されている。ヒスイ輝石は日本列島でも数ヵ所、産地が限定している。硬玉として装身具の材料になるのは糸魚川周辺と富山県東部の沿岸でしかない。縄文中期から、盛んに装飾品に用いられるようになる。北は北海道から南は沖縄と広く伝播している。それらを含めて儀礼的祭祀の後、宴会を催し、使用した品々を盛土に廃棄した。竪穴住居や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土、灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物も捨てられ、それが長年月に亘り、繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになっていた。土砂が水平に堆積しているので、整地しながら廃棄作業がなされていたようだ。
 三内丸山遺跡からは、ヒスイ・琥珀・黒曜石・アスファルトが付着した石鏃など遠隔地から持ち込まれた貴重な物資が多く出土した。それはこの地で交易が盛んに行われた証であった。三内丸山は青森湾の奥に位置し、北海道など各地からの丸木舟で物資を運ぶのに適していた。糸魚川付近か富山県東部の沿岸のヒスイ製の玉類、北海道の白滝・佐渡・月山・霧ケ峰などの黒曜石製石鏃・岩手県久慈のコハク原石・秋田県昭和槻ノ木のアスファルト・イモ貝形土製品などが、交易に相応しいとして、かつての拠点集落に集まって来た。交易に運び込まれた物資の大半はそれぞれのムラに持ち帰られただろう。交易に伴い宴を繰り返す度に、使用された品々も盛土に廃棄された。交易に集う人々は、一時的に数百人相当と説く人もいる。ただ4、500人が同時に、通年的に定住した拠点集落ではなかったようだ。

 子どもは亡くなると、埋設土器といわれる、丸い穴を開けたり、口縁部や底を打ち欠いた土器の中に入れられ、住居の近くに埋葬された。土器の中から握り拳大の丸い石が1、2個出土する場合が多く、当時の習慣に関係するものと考えられる。
 大人の土壙墓は集落の中心から海に向かって幅12m・長さ約370m延びる道路に沿って、両側に直角方向に掘られた長さ約2mの円形や楕円形の穴に2列に配置され、手足を伸ばした伸展葬で埋葬された。2列とも道路側が深く、道路より遠いほうが浅い。遺体は互いに頭の方を高くし、道路に足を向けて埋葬されていた。行き交う人々を眺める形であろ。この土坑墓列は約420mにわたっている。人骨は出土していないが、石器やヒスイ製のペンダントが副葬されている例があった。大きな土坑や環状配石のある土坑墓もみられた。南方のやや離れた所にある小牧野遺跡と共通している事から注目されている。また、平成11(1999)年10月6日にこの墓の一つから炭化材が検出した。これは「木棺墓」の跡のようだ。家長的リーダーの墓と指摘されているが、豊かな副葬品は出土していない。人骨が遺存していないため男女の区別もできない。
 約420mと延びる道路はなだらかな斜面を削って平面とし、5m~14mの幅で掘削し、軟弱な場所には地山から掘り出した黄褐色のロームのブロックを貼り付け舗装していた。そのブロック面を掘って円筒上層c式期の埋設土器が出土しているので、縄文中期前葉以前から既に道路はあったようだ。道路の整備は墓が増設されるに従い延長され修繕された。最近の調査では、南北に延びる道路も見つかっている。いずれの道路もムラの中心に立ち並ぶ掘立柱建物群の間から発している。その中心に近い所ほど広く念入りに整備され墓の密度の高い。それから徐々に狭くなり、おそらく墓が途切れれば舗装もされず単なる道として延びていっただろう。ただ三内丸山を訪れる人々は、道に並ぶ土坑墓の盛土群に迎えられた。ムラの人々は日常、生活道路を歩く度に死者に見守られている事を意識していたであろう。
 三内丸山遺跡の東部に縄文中期後半の粘土採掘穴が発見された。第1号粘土採掘穴の規模が非常に大きく、面積は325㎡ある。底面は深さが10~30㎝の円形ないしは不整形の窪みの連続となっている。これは粘土を採取した痕跡のためである。この採掘穴からは粒の細かい、粘土に近い火山灰を利用して土器・土偶を作っていた。

 この地に遺跡が存在することは、江戸時代から知られていたが、本格的な調査は、県営の野球場を建設する事前調査として、平成4(1992)年から行われた。 その結果としてこの遺跡が大規模な集落跡と分かった。
 平成6(1994)年には、大型建物の跡とみられる直径約1mの栗の柱が6本見つかった。これを受け、同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し遺跡の保存を決定した。また、墓の道の遺構が非常に長く延びている事が分かったため都市計画道路の建設も中止された。
 この遺跡は現在の敷地から、当初、広場を囲むように住居が造られた環状集落と見られていたが、現実は、住居が非同心円状に、且つ機能別に配置されていた。通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。平安時代の竪穴住居跡は南側のやや高い平坦部に遺存していた。

 三内丸山遺跡で出土した動物骨の特徴として興味深いのは、イノシシやシカなど中型動物が少ないことで、その出土する動物遺体の7割が、ウサギとムササビのような小型動物であった。動物性の蛋白質は余り多く摂取されず、胡桃や栗などの植物性蛋白質が主体で、通常の縄文人の食料の8割以上が植物性食料だったことは人骨の分析からも明らかになっている。
 貯蔵穴(ちょぞうけつ)は、集落の外側、台地の縁辺部にまとまって造られていた。入り口がせまく底が広い、断面がフラスコ状のものが多く、栗などの木の実、食料がたくわえられたものと考えられいる。中には、幅3m深さが2m近くもある大型のものもあった。遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かり、さらにはヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。縄文時代の畑作が想定された。
 平成16年の調査では、中期末葉・約4,000年前の焼失した住居跡を発見された。長軸が約5mあり、遺存した焼土と炭化材の状況から屋根が土葺きであったとみられている。採取した土の中からクリ・クルミ・クワ・キイチゴ・ヤマブドウなどの植物遺体ほか、炭化材、骨片、石器製作に生じた?片などが共伴した。

 出土遺物は土器、石器が中心であるが、最大は32.5㎝ある様々な大型板状土偶などといった土製品や石製品も多く含まれていた。三内丸山遺跡からは、現時点では日本列島で最多を誇る1,500点を超える土偶が出土した。その殆どは縄文前期末から中期中葉までに作られている。土偶が増加する時期と磨石が増加する時期とがほぼ重なるといわれている。土偶を祭具とする文化は、植物質食料を集約的に生業基盤とするムラ社会から発展してきたようだ。土偶の多くは、この時期の特徴である板状・十字型で、乳房・へそなどを単純な凸型で表現している。土偶は人為的に壊されたようで、頭部と胴体部が別々の場所から見つかる事が多い。中には直線距離で約90m離れた場所から出土している。
 三内丸山遺跡の黒曜石は、産地分析の結果、北海道から長野県までの広い地域におよび、北海道白滝(紋別郡遠軽町)・置戸(常呂郡置戸町)・十勝三股・赤井川(余市郡赤井川村)・豊泉(豊浦)、青森県出来島・深浦、山形県月山、新潟県板山、長野県和田峠などの原産地が分かっている。白滝産地の重さ44kgの大型の原石も出土している。この他にも植物の細い蔓が10本使われ、5本編みにされている長さ3cm程度の組み紐・琥珀・翡翠製大珠・骨角器・漆器などが出土している。翡翠は、三内丸山内で加工したようで原石や未完成品が出土している。
 骨角器は錐・釣り針・銛から、ヘアピン・カンザシ・牙玉などの装飾品まで多数出土している。年間を通じてとれる貝類、季節的に押し寄せるサケ、 ニシン、イワシ、アジなどの周年漁労も生業であった。漆塗りの遺物は、皿、くしなどの木製品と土器製などがあり、鮮やかな赤色をとどめ、極めて質が高い丁寧な加工が施されているため、祭祀目的とみられる。ウルシは日本へは縄文時代以前に朝鮮半島から渡来した。出土ウルシ種子のDNA分析の結果、ウルシ属のうちウルシのものであること、日本列島のどこかで栽培された品種であるようだ。イグサ科の植物を使って十字に編まれている籠にはクルミの実が入っていた。その編み方は今日でも使われている。その他、ヒスイ、コハク、動物の歯、貝などには、穴をあけてビーズ状 にして、首飾りや腕飾りにした。

 遺跡は、他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握されていない。これほどの遺跡がなぜ終焉を迎えたのか? 縄文人が大規模な村落を、三内丸山に形成して1,500年もの長い期間、ここで暮らしていた。それに伴い食物残滓や排泄物が蓄積され、自然の浄化能力を超え、それまで定住生活を保障してきた環境を破壊した。一方、気象変動の寒冷化によって栽培していた栗の収穫が激減し、他の採集食糧も欠乏した。また海が後退し、周辺の森林資源が長年月に亘る過度の収奪で、大規模な集落の営みを支えてきた諸々を消滅し尽した。
 その一方、後期・晩期の人口激減は、寒冷化と共に疫病説も唱えられてる。4,500年前から気候は再度寒冷化しはじめ、2500年前には現在より1度以上低くなり(ピーク時より3度低くなり)、日本の人口の中心であった東日本は暖温帯落葉樹林が後退し、人口扶養力が衰えた。そしてまた、栄養不足に陥った東日本人に大陸からの人口流入に伴う疫病の蔓延が襲いかかり、日本の人口は大きく減少したと推測されている。社会実情データ図録より


 縄文前期から中期にかけて拠点的集落を発展させ、遺跡の数・規模・内容ともに東日本が西日本を遥かに凌駕した。西日本は依然として小規模な集団によるムラの生活であった。しかし東日本の縄文社会が大集落から首長制社会に到達することはなかった。一方、西日本は衰退する東日本の縄文文化とは次元を異にする文化力を背景にして、集落社会から部族社会を経て、首長制社会を発展させ『国』造りへと大きく複雑な社会形成に突き進んでいった。
 平安時代の集落跡(約1000年前)、中世末(約400年前)の城館跡の一部もみつかっている。








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