諏訪地方の縄文時代


縄文時代の風景

転載元http://rarememory.justhpbs.jp/suwajyou1/suwa.htm



 縄文時代が始まる1万数千年前は、一時代前の地質時代、第4紀更新世(こうしんせい)であった。それからヴュルム氷期の終わる今から1万年ほど前、現世の完新世が始まる頃まで、日本では雪線(せっせん)の高さが今よりおよそ1,000m(=100㎝=1m)低く、北海道の日高山脈や東北地方の高山、北アルプスには氷河があったと推定されている。氷河期になると海や湖沼や川が氷りついて水蒸気が減少し、雨が降らない乾いた凍土となる。高地では樹木や草が生えにくくなり、海面が下がる海退現象が生じた。
 日本列島は島でなく、中国大陸の外縁部となり、日本海は荒涼とした内海であった。中国大陸の黄土地帯は凍原化し、その過酷な乾き切った寒気に耐えられなくなって、比較的温暖で湿潤な日本の太平洋沿岸部へ逃れてきたのが、ナウマンゾウ・オオツノシカや蒙古馬や野牛等でした。
 当時、霧ケ峰はツンドラで、樹木はハイマツとナナカマド・笹ぐらいであったが、今から約1万3千年前に最後の氷河期が終わり、その後約1万年前には、温暖な間氷期への過渡期といえる比較的温暖な晩氷期が始まった。これが縄文時代草創期の風景で、八ヶ岳の活発だった火山活動は、3万年前から4万年前の間に、一応休止しいた。
 草創期、諏訪地方周辺の木曽御岳・乗鞍岳の火山活動は、依然として活発で、噴火を繰り返してはその火山灰を、降り積もらせ、現在の諏訪地方の赤土層を形成した。この時代、諏訪湖を通して見る富士山は、常に噴煙を高く噴き上げていて、大噴火を連続的に繰り返して火山弾を放出していた。太平洋の海底火山から誕生して、噴煙が3,000m位の高さになる、1万年前の前後からの大爆裂を繰り返し、大量の液体状溶岩を高速で広く流出するようになり、今の美しい富士山の形を造っていた。


 上川・宮川・横河川の氾濫は、今より格段に激しく広範囲であった。それでも、諏訪湖盆周辺の大地は、森と林に覆われ、豊富な水辺には多くの動物集まり、時にはヘラジカなどの大型獣の姿も見られた。


 縄文時代早期は、約1万年前に始まるが、その頃に氷河期は終わり、次第に温暖化して現代に至る後氷期時代に入った。日本各地の噴火活動も次第に減少し、温暖化の進行は、同時に針葉樹林帯を広げ、低地から中高地へ、やがて高地までも覆われるようになった。この樹林帯の中で、動植物・魚・鳥類は繁殖しした。それを獲物とする人類も徐々に増加した。
 6,500年前は、現代より3度位高い温度となり、温暖化がピークに達した。縄文時代前期(6,000~5,000年前)になると、諏訪湖周辺では、春の山菜・栗・あけび・団栗・秋の茸等が格段に増え、その上、複雑な入り江で広がる諏訪湖の湖魚と、縦横に流れる30以上の河川の川魚等と、その生活資源は極めて豊かであった。
 八ヶ岳西南麓は、食料資源豊富な落葉樹林帯の高原に変移する。八ケ岳山麓の上川流域の北西側・車山霧ケ峰東南麓の山裾の「山浦」地域は、多数の小河川による小扇状地と丘陵地を展開し、猪・鹿・狸・狐・兎等動物資源と岩魚・蛙その他の魚介類の供給地となった。狩猟の獲物と川魚と木の実(栗・胡桃・どんぐり・山葡萄・あけび)等に恵まれ、その集落は、いくつも分立して発展していった。
 上川流域の東側には、大小入り組んだ川筋が流れ、西に緩やかに傾斜する広い山麓を構成して、諏訪湖盆にまで達し、上川の沖積地へと伸びていく。その台地は平坦で、日照時間も長く、湧き水はいたる所で流れ、ミズナラなどの落葉樹林帯に覆われ、それが縄文中期前後に、人口が縄文時代を通じて、最も多くなった要因となった。災害の少ない事、動物・植物の食料資源の豊富な事、その当時最高の石器素材・黒曜石の産地が近かった事、そうした恵まれた環境の中で、その集落は「ムラ」へと発展し、芸術性の高い土偶・土器を創作するための生活基盤・集落を営むようになった。








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