資料あれこれ

神話・伝説・信仰 50音順

足長神社


諏訪大社上社の摂社で、本宮の北東2K程にある。 桑原郷は、上下に分かれており、上桑原に当社・足長神社、下桑原に手長神社が祀られている。
祭神の脚摩乳神(あしなづちのかみ)は、奇稲田姫神(くしなだひめ)の父神で、足名椎命とも書かれ、手摩乳神(てなづちのかみ)と夫婦神である。八俣大蛇による、娘(奇稲田姫神)の危機を素盞嗚尊(すさのをのみこと)に救われた。素盞嗚尊の子(あるいは子孫)が、大己貴命(おおなむちのみこと/おおくにぬしのかみ)であり、上社祭神、建御名方命の祖にあたる。
社記によれば、当初、ここに足長・手長両神が祀られていたが、手長神は、下桑原へ分祭され、荻で屋根を葺いていたので、「荻の宮」と呼ばれていたという。
足長の社名により、旅の安全を守る神。当社にも御柱があり、御柱祭では、引き上げ競争が行われる。
足長神社は桑原城跡の山腹に鎮座する。境内は古松・老杉に囲まれ、諏訪湖とその周辺を樹間に眺望 できる秀景の地である。祭神は足摩乳神で、諏訪上社の末社の一つとして、また、上桑原郷の産土神と して古くから崇敬されてきた。社記によれば、当社は初め足長・手長の両神を合祭し(手長の神はのちに 下桑郷に分祭)、荻をもって社宇の屋上を葺いたことがら「荻の宮」とも呼ばれたという。嘉禎四年(一二 三八)の『諏訪上社物忌令』にも「荻宮明神文珠 足長」とある。また、社記の由緒の項には、大同年間、諏 訪神社大祝有員(上社大祝の始祖)が当社を崇敬し、広大な社殿を建築して自らも近接地に居住したため、 その地を御曾儀平(みそぎだいら)と呼ぴ、有員の廟墓もあると記されている。
 例祭は、古くは十月二十七日、現在は十一月二十七日で、当日、参拝者にみかんを配る。
 当社の口頭伝承によれば、足長神は手長神を背負って諏訪湖で貝や魚をとったといい、また大きな長 いわらじを奉納すれば足長神が旅の安全を守ってくれるという。かつて人々は当社にわらじを奉納して 旅の安全を祈った。
 なお、江戸時代、地元の上桑原村では、諏訪上社の御柱祭に「高島藩家老騎馬行列」を奉納していた が、明治四年の廃藩後、同五年からは足長神社に奉納するようになり、今日に至っている。旧村社。
-『日本の神々』-

転載元 https://genbu.net/data/sinano/asinaga_title.htm




安曇野


語源は古代にこの地に移住してきた海人族安曇氏に由来するという説がある。安曇氏はもともと北九州の志賀島周辺を本拠地としていたが全国に散らばっていった。穂高神社は信濃の安曇郡に定住した安曇氏が祖神を祀った古社であり、志賀島から全国に散った後の一族の本拠地はここだとされる。
仁科濫觴記によれば、成務天皇の代に諸国の郡の境界を定めた際、「保高見熱躬(ほたかみのあつみ)」が郡司であったため「熱躬郡」となった。天智天皇7年(668年)に「熱躬」の名を除こうと考えた「皇極ノ太子」(天武天皇に比定される)によって「安曇」に改称された、とある。一方、二十巻本の和名抄(巻5)では、安曇を「阿都之(あつし)」と訓じてある。この「あつし」という訓は、「熱躬川」が改称された梓川(あずさがわ)の「あずさ」に近い。
「安曇野」が指し示す範囲としては、明確に画定された線引きは無いが、概ね安曇野市、池田町、松川村の3市町の他、さらに松本市梓川地区(旧・梓川村)、大町市の南部(常盤・社地区)まで含まれることもある。古くは安曇平(あづみだいら)と呼ばれていたが、臼井吉見の小説『安曇野』によって有名になり、この名称が定着した。
なお、「安曇」の平仮名表記については明確な基準は無いが、安曇氏が「アマツミ」に由来していることから「あづみ」と読む場合が多いが、現代仮名遣いでは一般的に「づ」は「ず」と表記するように定められていることから、「あずみ」と表記している例もある。 例:「あづみ」⇒安曇野市、JAあづみなど 「あずみ」⇒安曇追分駅など

信府統記という古い書物には「信濃国有明の里は景行[けいこう]天皇12年まで湖であった」という意味の記述がある。
景行天皇といえば日本武尊[やまとたけるのみこと]の父。
その昔、安曇野一帯は四方を山々で囲まれた大きな湖であり、泉小太郎[いずみこたろう]という男が生坂[いくさか]村の山清路[さんせいじ]というところを切り崩して今の犀[さい]川に流し、安曇野の大地が誕生したという伝説も語り継がれている。
※『信府統記』(しんぷとうき)は、信濃国(長野県)松本藩主の命によって編纂され、1724年(享保9年)12月に完成した、同藩内および信濃国内の地理・歴史を記述した書籍(地誌)である。


鬼ヶ泉水


 湿原信仰
諏訪市史編纂委員会『諏訪市史 上巻』の「山の信仰・湖の信仰」から、関係する部分を抜粋。
山奥の池沼の信仰に、奥霧ヶ峰の八島湿原を七島八島と呼称し、湿原祭祀のあったことが考えられる。初夏になると奥山の池にみられる、スゲ・ヨシ類の芽生えは、田植をした田に見える。神の作った田と信じて、水稲・水源の信仰が生まれたと考えられる。池端には国常立命が祀られ、のち虚空蔵信仰として御射山の祭場となった。上社御射山も同じ類型の信仰とみられる

画像は昭和50年撮影の古い航空写真

転載元 https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/simosya/yasima.htm




諏訪


長野県の諏訪地方が著名。古事記では州羽。和名抄では須波と表記された。
地名の由来については古事記より建御雷神に敗れた建御名方神が逃げてきてこの地で道絶え、万事窮(すわ)まったため。とも言われるがそれは後付であり、実際はさわ(=沢)がすわに転訛したものであると言われる(長野県は山地であるため、宮沢、北沢など、沢のつく苗字が多い)。
諏訪信仰の影響のため、全国に諏訪神社が広まったこともあり、現在諏訪の地名は日本各地に存在する。苗字としては全国で見られるが、特に関東地方に多い。
信濃国諏訪地方の領主、諏訪大社大祝(おおほうり)の家系、諏訪氏が著名

転載元 https://dic.nicovideo.jp/a/%E8%AB%8F%E8%A8%AAニコニコ大百科




諏訪湖


古代と現代の諏訪湖
数10万年前の諏訪湖
古代の諏訪湖予想図
現在、諏訪湖湖面の面積は13 .3k㎡で 、諏訪湖の流域面積527,3k㎡の 約2.5%である。中世頃までの諏訪湖は水深も現在の約7mよりも深 く、面積も現在の2倍近くあったと推測されている。つまり、奈良時代(710~784)以 前には、現在の上 ・下諏訪地域を始め湖周辺の低地はほとんど水中に没してお り、鎌倉時代(1185~1333)の1329(嘉暦4)年頃に、わずかに高島城付近の湖中の小島が高島と呼ばれ漁村として生計が営まれていたようである。
(画像はhttp://www.hamanoyu.co.jp/2017/05/21/47921/より引用)
現代の諏訪湖の航空写真



諏訪盆地


諏訪盆地(標高が760m近く)には、峠を挟んで諏訪側が反対側に比べて急勾配である、という地形が見られるが、諏訪市も例外ではなく、同様の地形が、例えば諏訪市と上伊那郡辰野町を結ぶ県道50号(有賀峠)などに見られる。これは、諏訪地方に中央構造線と糸魚川静岡構造線が通ることに起因する断層地形である。なお、この2つの構造線は諏訪市付近で交差(接触)しているとされている。東側の山地のふもとは、いくつかの小さな扇状地を成しており、ここには住宅や田畑などが広がっている。
市内平地を見てみると、諏訪湖へ向かう幾本かの河川の間に田畑、住宅地が広がっている。赤沼(あかぬま)、中洲(なかす)といった地名が表すように、古くは沼だったり、もしくは諏訪湖が最大面積であったときに水中だった場所も多く、地盤は全体的にゆるい。そのためか、地震が観測されるときも、長野県の近隣地域に比べ震度が大きくなることが多い。

転載元 不詳




諏訪明神


起源としては、二説ある。(以下引用文)
 一、「古事記」「日本書紀」に語られている伝説によると、大国主命と越の国の沼河姫との間に生まれた建御名方命は、大国主命の国譲りの時、容易に承知せず天照大神の遣わされたタケミカヅチの神とアメノトリフネの神と力競べをすることになった。しかし、建御名方命はこの二神に簡単に負けて、逃げ出してしまう。天照大神の遣いの二神はそれを追って信濃の国諏訪の池のほとりに追い詰めて殺そうとした。そこで建御名方命は国を譲ることにして、自身は諏訪湖のほとりに止まった。それが諏訪明神のはじまりであるとされている。
 ニ、昔、近江の国、甲賀に甲賀権守という者がいた。彼には三人の息子がいて、嫡子を甲賀太郎、次男を甲賀次郎、三男を甲賀三郎といった。甲賀三郎が魔物を退治に出掛けると、地面に穴が開いている。三郎が中に入るとそこには魔物に捕われていた姫君がいた。三郎はこの姫君を助けた。しかし、姫君があまりにも美しかったので、兄の甲賀太郎と次郎は姫君をわがものにしようと、三郎を騙して穴の中に落としてしまう。三郎の落ちた所は異国であった。三郎は異国をさまよい、やっとのことで日本に帰ってくるが、出てきた所は信濃の国、浅間山の大沼であった。無事に帰っては来たが、三郎の体は巨大な蛇に変わっていた。道行く人々に恐れられるためにしかたなく蛇身になった三郎は塔の下に隠れていた。するとその塔の前に、僧に身を変えた神が現れた。三郎はその僧の教えにより人身にもどることになる。人間の姿となった三郎は穴に落とされる前に助け出した姫君と巡り会うことができた。そして二人は天竺に赴き、神になって三郎と姫君は日本に帰ってきた。その後二人は信濃の国に諏訪の上社、下社としてそれぞれ示現したという。

『日本奇説逸話伝説大事典』より引用

諏訪明神の縁起として一般に広く親しまれているのは、ニつ目の方であり、「神道集」巻十に「諏訪縁起事」としてあるのをはじめ、「諏訪の本地」または「諏訪縁起」として伝承されている。 甲賀三郎が巨大な蛇になったのには、諏訪明神の神体が竜蛇であることが関係していると思われる。諏訪明神の神体は竜蛇であると古くから伝えられている。 「諏訪大明神絵詞」にも諏訪明神が竜に化現したことが書かれている。(同書参照)

 明神の使い
天照大神猿を使とし給ひし事あり。春日神は鹿を使ひ給ひ、岩清水八幡神は鳩を使ひ給ひ、諏訪の神は蛇を使ひ給ひ、稲荷山の神は狐をつかひ給ひ、熊野の神は鳥を使ひ給ひ、松尾の神は亀をつかひ給ひ、息吹山の神は猪を使ひ給ひ、気比の神は鷺を使ひ給へり。

『日本随筆大成』「傍廂」より引用

「傍廂」:佐藤彦麻呂著。嘉永六年(1853)、江戸浜町の住居に添えて建てられた小屋に於て、暇々に草したものだったという。

転載元 http://www.arc.ritsumei.ac.jp/artwiki/index.php/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E6%98%8E%E7%A5%9E%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6




建御名方神(たけみなかたのかみ)


日本神話に登場する神。『古事記』の葦原中国平定(国譲り)の段において、大国主神の御子神として登場する。『延喜式神名帳』などには南方刀美神の表記も見られる。長野県諏訪市の諏訪大社に祀られ、そこから勧請された分霊も各地に鎮座する。
神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に残る。妃神は八坂刀売神(やさかとめのかみ)とされている。
建御名方神は神(じん)氏の祖神とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもある。

伝承と信仰
 日本建国神話
建御雷神(たけみかづちのかみ)が大国主神に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主神は御子神(親子関係にある神=息子)である事代主神が答えると言った。事代主神が承諾すると、大国主神は次は建御名方神が答えると言った。建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽(すわ)の海(諏訪湖)まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。この建御雷神と建御名方神の力くらべは古代における神事相撲からイメージされたものだと考えられている。なお、この神話は『古事記』にのみ残されており、『日本書紀』には見えない。
 諏訪大社
『諏訪大明神絵詞』などに残された伝承では、建御名方神は諏訪地方の外から来訪した神であり、土着の洩矢神を降して諏訪の祭神になったとされている。このとき洩矢神は鉄輪を、建御名方神は藤蔓を持って闘ったとされ、これは製鉄技術の対決をあらわしているのではないか、という説がある。
 各地の祭神として
長野県諏訪市の諏訪大社を始め、全国の諏訪神社に祀られている。『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」とあるように軍神として知られ、また農耕神、狩猟神として信仰されている。風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もある。名前の「ミナカタ」は「水潟」の意であり元は水神であったと考えられる。ただし、宗像(むなかた)と関連があるとする説や、冶金、製鉄の神であるとする説もある。
 異説
建御名方神は様々な形で多くの信仰を受けているので、『古事記』に記された敗残する神という姿は、中臣鎌足を家祖とする藤原氏が鹿島神宮の祭祀に関する家の出であり、同神宮の祭神である建御雷神を氏神として篤く信仰していたため、藤原氏が氏神の武威を高めるために、建御名方神を貶めたという説もある。

転載元 不詳




御社宮司(みしゃぐじ)


 資料を転載しようにも大量なので;こちらのWikiを参照















洩矢神(もりやしん、もれやしん)


長野県諏訪地方を中心に信仰を集めた土着神。諏訪信仰の一翼を担う神であり、史料としては『諏訪大明神絵詞』にその存在が確認できる。ミシャグジ神と同一視されることもある。
『諏訪大明神絵詞』などの伝承によれば洩矢神は古来諏訪地方を統べる神であった。しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。また、その名が残る洩矢神社(長野県岡谷市川岸区橋原)はこの戦いの際の洩矢神の本陣があった場所とされる。
中世・近世においては建御名方神の末裔とされる諏訪氏が諏訪大社上社の大祝を務めたのに対し、洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官である神長を務めた。

転載元 不詳




Home