江戸期の諏訪 

中山道及びその風俗

入会論争

転載元hhttp://rarememory.sakura.ne.jp/edo/edo.htm


 諏訪と伊那の境には釜無山系が入笠山・守屋山・真志野山と南北に伸び、諏訪では西山という、急斜面の地形ながら古くから集落が発達していた。その尾根を越えた伊那側は緩斜面で裾野が広いが、集落が点在する状態であった。そして伊那地方は古代にあっては諏訪の国に含めることが多く、中世でも諏訪氏と同族の支配下にあったため境界線ははっきりしていなかった。さらに諏訪の住民は当然のように尾根を越えて、建材として木を伐採し、燃料として薪炭用に、田畑の肥料・牛馬の飼料として草・笹・柴(に使う雑木の小枝など)・萱など採取してきた。天正のころ棚瀬川の峡谷・には鉱山があって、真志野村から盛んに採鉱の人がはいった。同時に真志野村から後山に開拓者が入り天正18(1590)年の「真志野村外山畠帳」には、筆数300、高96石3斗8升の記録が記載されている。しかし椚平鉱山が廃鉱になると放置された。関が原後、徳川家より共に旧領に帰封されて諏訪氏・保科氏が初めて領地を接すると、諏訪の領民が昔からの慣行として、尾根を越えて、後山・椚平・上野・板沢・覗石・などの守屋山西南山麓に入り、草木を採取することが伊那側との境界論争を呼ぶようになった。諏訪の領民は往古からの領有を主張して、江戸の評定所で高遠藩と争うこととなった。 幕府は評定所での解決は無理と知って、飯田藩主小笠原秀政に解決を図らせた。秀政は信濃の諸大名と図り、西山の稜線から伊那よりに大分寄った後山・椚平・上野・板沢・覗石までもの領有を高島藩に認め、諏訪の領民の主張よりの裁決をした。しかし、高遠領民の納得は当然得られず後々までも争いが生じた。それは藩内解決は当然無理で、江戸へ出ての訴訟となり、その莫大な費用負担を領民に課せられた。
 一例として片倉山山論の事件がある。諏訪領民は神宮寺・宮田渡・上金子・中金子・福島・赤沼・飯島・高部・小町屋・安国寺・中河原・新井の12ケ村と高遠領の片倉・の2ケ村との長年の山論であった。当初は草木はさほど問題にならなかったが、諏訪領民の採取が頻繁になるにつれれ大問題となった。
 元禄3(1690)年、真田伊豆守の家臣・久保田義太夫による伊那と諏訪の山野境界の高遠検地の際、双方とも長年の慣行というだけで、確たる証拠なく、片倉村側では「高島領12ケ村から毎年山手米を受け取り、入会場所は4ケ所だけである」と申し立てた。高島領12ケ村は「4ケ所以外に数ヶ所、入会地がある」と反論した。久保田義太夫は実地検分の結果「大海道(杖突海道)から北西は分杭から本沢まで絵図面通り入会、大海道から東南は沢水ないし小道上場通りよけまで、それから東作り道まで見通し、その間の北東の内入会」と、双方立ち会い境界確認して手打ちとなった。これにより双方の名主・長百姓が連署し、取替手形(元禄3年7月「差上申一札之事」)を交換した。この片倉山山論で、諏訪側12ケ村の総費用は143貫178文となり、翌年8月15日に遠近、村高などで各村割り当てが決まり、最高は高部村の75貫文、神宮寺村は15貫40文であった。同年諏訪側12ケ村は、それぞれ山手米を納めている。一方は、諏訪高部・福島の両村から山手米1石2斗5升3合と口米3升8合を受けている。  その他、他領との境界論争では、塩尻境界論争がある、70年も争い寛文5(1665)年に採決された。佐久境界論争では、蓼科山麓で慶安年間(1648から1652)から始まり、鉄砲を撃ちかける事件まで生じたが、延宝(1677)5年に裁許状が下りた。八ヶ岳論争は、甲州との国境問題で、寛永(1624~1644))年間から争い正保(1645)2年3月に裁許状が下された。但し、一応、裁許を下されたものの、依然ととして後々まで入会地闘争は続いた。
 山野は人類が原初的に存続するための糧であったが、一切の生活資源であることは今日も変わりない。それが古代か中世へと文明の発展と共に利用価値が増すと同時に、地域々々の権力者の領有が進み、自由に採取できる環境が狭まれてきた。その一方、江戸時代、次第に開拓が進み農地が増え、その結果、文化の発展がすすむと城下町・宿場町・門前町の建設が促進され、その建材として日常の燃料、田畑の増大に伴う肥料としての苅敷(山野の草または樹木の茎葉を緑のまま田畑に敷きこむことをいうが、かつて地力維持の重要な手段であった。)、家畜の飼料などの需要が急速に増した。その上、初代藩主・頼水、2代・忠恒、3代・忠晴と新田開発が盛んになされた。結果、諏訪湖周辺のみならず、広大な八ヶ岳山麓一帯にも、多くの新田村が出現した。供給源の原野は開墾され、山野も乱獲が進み、荒廃していった。また中洲やも開拓され草地が減少した。慣習的に共同利用されていた(自村が権利をもつ山野)ではまかなえきれず、他村・他領の山野にまで侵さざるをえなくなった。
 山手米(山野使用料)を納めて、境界線・採取物・採取道具・時期・順番・入山道等を細かく誓約させられて、地元村との入会権の確保がなされたが、それも需要の増大と伴に守りきれず、新たな紛争へとつながった。
 高島藩領内の入会紛争は、藩の奉行所で扱われ裁許されたが、長引きがちで費用がかさむ上、奉行所まで幾度も出かけなければならず、その労力も大変であった。元禄のころになると仲裁人としてが現れ、内済で解決して扱い人共にの連署で誓約されるようにもなった。
 だが隣接する高遠藩・伊那領・松本藩などの他領との入会紛争となると、江戸の評定所の裁定となり、江戸へ出掛けての訴訟のため農民の費用・労力の負担は大変なものであった。高遠藩との争いで、そのとき生じた借金の返済ができず神宮寺名主・与次右衛門は家屋敷を失っている。








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