江戸期の諏訪 

中山道及びその風俗

諏訪湖辺新田開発

転載元hhttp://rarememory.sakura.ne.jp/edo/edo.htm


満水堀
 頼水が諏訪に戻って最初に着手した1つに諏訪湖の開拓であった。水深の浅い諏訪湖は、少し水位を下げただけで、中筋方面にも、下筋方面にもたくさんの水田ができる。また湖面をさげることは、従来の水田の水害予防にもなる。頼水は高島城の水城としての要害を犠牲にしても、干拓を進めた。まず釜口の北側にもう一つの排水溝を作り、天竜川に2筋の湖水の出口を作った。これが元和元(1615)年完成の満水堀である。
この時、釜口に島が残った。弁天社があったので、弁天島と名づけられた。これにより湖岸にたくさんの葦原の湿地ができた。盛り土をして水田とし、いままでの湿田が良田に変わった。


新堀
 満水堀のお蔭でできた新田も、地形状、夏季の洪水時期になると水没の被害が続出した。さらに水位を下げようと、弁天島の中央を穿ち排水溝を増設した。天竜川への排水は3筋となった。弁天島は2つの島に割れた。北側を浜中島、南側を弁天島とした。このころには、高島城の天守閣の石垣に寄せていた諏訪湖の波も遠く退いて、辺りは広大な水田となっていた。水田が広がれば、洪水の被害も拡大した。平成の現代でも、水田あとに広がった市街地が、大雨が続くと冠水することは稀でない。
また、その当時、八ケ岳山麓の高原台地・山浦地方にも新田開拓が活発に進んでいた。そのためかっての広大な山林が消滅して、益々下流の諏訪湖畔の洪水の被害が広がった。被害をこうむる天竜14ケ村は、釜口の薮刈、川浚い、流水ゴミの始末に結束した働いた。天明・文化には大規模な天竜川浚い(さらい)の工事が行われた。


浜中島の撤去
 文政14年(※1・編者注)、史上類のない大洪水が発生、大凶作となった。藩は有賀村の伊藤五六郎(1809~1868)に来年中を条件に、浜中島の撤去を請け負わせた。時に、五六郎22歳。藩の許可を得て、長さ15m、幅3mの大船を作った。乞食その他の浮浪者を集めて、浜中島を崩した土を大船に乗せ、有賀村近くの湖畔の湿地を埋めた。そこに6町歩の田圃ができた。今日の中曽根の一部「五六郎田んぼ」と語りつがれている。延べ1万6千人と1年を要して天保元(1830)年12月(※2・編者注)に完成した。
 この完成後も、水害は広がるばかりであった。新たに広がる湿地をみれば、人々はそこを埋め、新田を作り部落ができる。地形状の欠点はそのままであった。

 ※1、※2…文政13(1830)年の12月に天保に改元されている。ということは、※2が正しいのであって、※1は、五六郎の年齢と『来年中』という条件からして、文政12年の間違いではなかろうかと思われます。

弁天島撤去
 弁天島は葛飾北斎が描く富士36景の1つ、名勝の地であり、その弁天社は家老・千野家の篤い信仰を受けていた。明治元年9月、藩主・忠誠は、14ケ村の弁天島撤去の願いを受けて、14ケ村請負で許可した。半月で完成した。
 この結果、頼水の頃、527.2k㎡の流域があった諏訪湖の面積は、14.322k㎡しかなくなった。しかし短期の氾濫は終らない……








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