大平山元遺跡
転載元 http://rarememory.justhpbs.jp/jyoumon/
信州旅ネット・歴史高覧(20240706追記)
青森県の津軽半島の中程に、太宰治の「津軽」にも登場する蟹田町がある。この町の西外れに、旧石器時代(約 16,000年前)から縄文時代草創期(約13,000年前)にかけての大平山元遺跡群が発掘された。それは、東北の縄文文化の幕開けとなる遺跡とみられている。昭和46(1971)年、青森県立郷土館に寄贈された一本の磨製石斧がその発見のきっかけとなりった。刃部のみを磨いた大形な石斧で、それまでも、関東中部地方や青森県長者久保遺跡など、旧石器時代初期からの遺跡から当たり前のように出土する磨製石器である。
当時、この時期の遺跡に関して、東北地方では未だ本格的な調査例がなかった。そのため、郷土館は早速に学術調査を開始、その結果、磨製石斧と石製ナイフなどの石器と一緒に、同じ層から新しいタイプの石鏃(ぞく)とともに、予想さえしなかった土器が出土した。石製ナイフなどの石器は旧石器時代の物、後者の石鏃 (矢尻)と、土器は縄文を代表する遺物というのが、当時の常識であった。土器片は、文様の全くない親指大がほとんどで、30点ほど出土した。それは非常に脆い細片だったが、無文で隅丸方形の平たい底部をもつ鉢形土器であることが判明、それまで土器の伴わない段階と見られていたこの時代に、既に土器がつくられていたことが、初めて明確になった。これまで北海道以外の日本列島各地に分布していた、口縁部にみみずばれ状の装飾のある「隆起線文」を持つ縄文草創期の土器とは異なり、むしろ隆起線文付土器に先行する祖源的土器と見られ、同一地層から出土した石器類から旧石器時代末期の土器と認められた。
当時、茨城県後野(うしろの)遺跡から、旧石器時代終末期の大陸起源の石器・細石刃に伴う無文の平底土器が発見されたばかりであった。九州北部が縄文時代の起源で、次第に日本列島を東進したというそれまでの考えに、再考を促された矢先でもあった。
大平山元遺跡から出土した土器は、縄文土器の祖源を示すものであると同時に、土器の起源が、かつて山内清男の主張したように、樺太・北海道経由の北方ルートを通って、遠くシベリアに求められる可能性を再び示すものでもあった。大陸では、広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡など長江中流域の南部で最終氷期最寒冷期の2万~1万8000年前の土器が、広範囲で発掘されている。
日本最古段階の土器が、津軽半島から出土している事実は、その地で創造したのか、あるいは他の地より伝承したのか、未だ判明しない。縄文文化黎明期の東北地方に、それを十分受け入れるだけの文化力が備わっていたことが重要だ。異なった時代に属するとおもわれてきた石器と土器が同時に、しかも同じ地層から出土するというケースはもちろん青森県内では初めてで、土器を除けば、石器群の構成は青森県東北町の長者久保遺跡から出土したそれと、かなりの共通点をもっている。
土器を伴わずに、新旧タイプの石器が混在している文化を御子柴(長野県上伊那郡南箕輪町)・長者久保文化と呼ぶ。それに共通する特徴から「大平山元1遺跡」の問題の土器片は、旧石器から縄文時代に移行する際の「草創期」のものと推定された。それから25年後、新たな調査に伴って同遺跡から出土した、炭化物が付着した土器(無文)片五個について「放射性炭素C14年代測定法」で、年代測定を行ったところ、何と1万4千―1万3千年前という結果が出た。それまで国内で一番古いとされていた隆起線文土器より、さらに古い無文土器の存在が浮上してきた。
縄文草創期の諏訪湖底の曽根遺跡からは、爪形文土器が多いが沈線文土器や無文土器も出土している。無文土器には器面をきれいに撫でて、なめらかに仕上げられているものが多い。指で撫でた痕を遺している土器片もあった。無文土器は片羽町(かたはちょう)遺跡でも見られ、草創期から不可欠な土器であったようだ。
縄文土器には様々な形が工夫され、巧みな装飾文様が施されている。縄文時代を通して各地方で製作量と形体は異なるが、深鉢の煮沸機能を専らにする無文の土器の方が大量に生産されていたようだ。前者を「精製土器」、後者を「粗製土器」と呼ぶ。「粗製土器」には、湧水・厚い堆積の灰層・多量の堅果類が遺っている物が多い。木の実を調理加工する前処理として、土器で加熱し中に灰を入れてアク抜きをしていた。多量の木の実を短時間で仕上げる無文の粗製土器が、生産性を重視した土器、機能を目的とした土器として主流となっていた。
「大平山元1遺跡」の無文土器片は、さらに炭素年代判定の精度を高めるため、今度は「暦年代較正」という新手法を加えて分析したところ、問題の土器片の較正暦年代は、最も古い値で「約1万6千年」前、平均値で「約1万5千年」前、という数値が得られた。
縄文時代はざっと5千年ぐらい前というのが、ひところの常識であった。最近は1万2千―1万3千年前が一般的な見方であった。較正暦年代はそれをさらに数千年も押し上げるデータで、土器の出現時期が旧石器時代、それも最終氷河期の最中となった。
炭素年代と較正暦年代の出現は、大きな宿題を突き付けることになりる。いずれにしても、縄文の年代観そのものが再検討されて、縄文時代の起源は1万6千年以前にまで遡る。
発掘された土器などの遺物には炭化物が付着しているケースが多いので、放射性炭素C14年代測定法は、放射壊変の性質を利用して、遺物に含まれるC14の減り具合を調べることで、土器などの炭素年代(BPで表記)を特定するす。近年はこれが考古学に導入され、年代判定の分野で効果を上げている。
C14年代は、スタンダードのC14濃度と、試料がCO2の供給を絶たれた時のC14濃度が同じであるということを条件に計算されている。ところが実際には、銀河宇宙線の強度変化、地球磁場の変動、太陽活動の変動、海洋に蓄積された CO2供給量の変動、化石燃料からのCO2の供給、核実験の影響などにより、それらのC14濃度に違いが生じ、C14年代と暦年代の間で計測結果が異なった。厳密に言えば、この炭素年代も実年代とは必ずしも一致しない。
大気中のC14濃度が常に一定でなく、経年変化しているので、その誤差を補正する手法として登場してきたのが「暦年代較正」である。現在では年輪年代測定との照合により、およそ1万年を少し遡る時点まで放射性炭素年代値 (BP) と実際の年代の対応表が作られている。
年代の分かっている木年輪のC14年代測定(約10000yBPまで)、サンゴのC14年代測定とウラントリウム年代の比較(約10000yBPから約19000yBP)により作られた補正曲線が用いられる。年輪年代の及ばない古い年代は、およそ24,000年前までは、サンゴのU/Th(ウラン/トリウム)年代と照合されている。較正された年代値は、calBPで表され、較正年代は、暦年代 (Calendar Age) とも呼ばれている。しかし、約1万5千年前は較正暦年代(calBP)で、未だ、研究途上の段階であり、信頼性の確立が今後の課題となっている。
他方、大平山元Ⅱ遺跡は八幡宮境内にあり、地層・石器形態から約16,000年前のモノと見られる数多くの石器類のほか、人々の生活の様子が残されている。石で囲った炉跡・石蒸し料理に使った焼け石などで、出土した旧石器時代の石器類は、槍先形尖頭器・削器(さっき)・石刃・両面調整石器等がある。
大平山元Ⅱ遺跡のこれらの石器類は、遺跡現場付近から採取できる頁岩(けつがん)製で、今日でも境内の地表面から、当時の石器片が顔を出しているといわれている。石器工房跡かもしれない。また、付近から、今でも石器の材料として良好な、頁岩が採取される。