諏訪地方の縄文時代(草創期)

縄文文化の黎明期 (1万数千年~約1万前)

諏訪の曽根遺跡と片羽町遺跡

転載元http://rarememory.justhpbs.jp/suwajyou2/suwa.htm


 諏訪市大和(おわ)区千本木川沖の曽根遺跡 (そねいせき)が、この時代のものだ。 現在は諏訪湖面(海抜759.3m)から約2mの湖底で、大和湖岸から約300m沖にある。湖底の西方に突き出た平坦な台地上であった。曽根遺跡の全容を明らかにした藤森栄一によれば、遺跡を覆う砂礫層は、その湖岸に貫流する千本木川の川床に堆積するものと同一であるという。従って、遺跡は日々泥土で埋没されている。
 発見は明治41(1908)年で、諏訪湖の湖盆形態の調査中であった。諏訪湖の研究を委嘱された、日本の湖沼研究の嚆矢となる田中阿歌麿(たなか あかまろ)の助手橋本副松が、その調査中、湖底に硬い場所がある事に着目したのが発端であった。橋本副松はその辺りの泥土をを幾度も掻き除く作業を厭わず没頭し、終に泥土と水草に混在する多量の石鏃を陸揚げした。それを翌年『東京人類学会誌』に発表した。その後、坪井正五郎と東京帝国大学人類学教室による調査が行われた。その湖底遺跡の特殊性により世間に注目され、多くの研究者が諸説を発表した。日本列島に曽根遺跡を遺した人々は誰だったかといった観念的な人種民族論争や、湖底になぜ遺物があるのか、そして湖上に住居が営まれた理由などに研究が片寄り本質的な解明にいたらなかった。
 多くの研究者にとり上げながら、研究成果も無く忘れ去られていた。昭和11年、八幡一郎が「信州諏訪湖底曽根の石器時代遺跡」を『ミネルヴァ』誌上に発表した。漸く曽根遺跡の遺物を考古学的研究の俎上にのせた。かつて発掘され特徴的遺物として坪井正五郎が発表した爪形文土器が縄文時代草創期のものであり、横幅よりも長く脚部をもつ石鏃が、小形で製作技術が高度であると指摘した。しかも日本の旧石器時代末期の細石器文化も視野に入れていた。しかし学界は反論し、その学説を封殺した。
 昭和29年、芹沢長介の論文「関東及び中部地方に於ける無土器文化の終末と縄文文化の発生とに関する予察」が.『駿台史学』に発表された。芹沢は曽根遺跡の爪形文土器は近畿地方に類例がみられ、ほぼ縄文前期と比定した。しかも小形石槍は縄文時代以前に属するとした。それは長さ4㎝にも満たない両面調整の木の葉形尖頭器であった。2万年前頃の旧石器時代、日本列島に登場した。
 その後昭和33年、岐阜県中津川市坂下町の椛ノ湖(はなのこ)遺跡で爪形文土器と長く脚部をもつ石鏃が伴出した。群馬県みどり市の西鹿田中島遺跡の同年昭和33年の発掘調査でも爪形文土器が出土した。いずれも草創期にあたる。昭和60(1985)年、土地改良事業に伴う発掘調査で、東金井町の下宿(しもじゅく)遺跡の土坑の中から出土した爪形文土器2点は、草創期(約10000年前)の土器とされている。神奈川県大和市深見諏訪山遺跡出土の爪形文土器も草創期とみられている。芹沢より八幡一郎の方が正確に時代を比定していた。

 昭和35(1960)年、藤森栄一は『信濃』に「諏訪湖底曽根の調査」を発表した。ここに漸く、曽根遺跡の特殊性ゆえに紆余曲折した論点が、考古学的に研究され全容が明らかにされた。これ以前に山形県高畠町で昭和33年に、蛭沢湖の北東、標高400mの山腹に一の沢岩陰遺跡が発見され、土器や石器が縄文早期後半と草創期と層位的に出土され、その変移が明確となった。その後も類例の遺跡が多く出土し、曽根遺跡が縄文時代草創期から、それ以前へと遡る遺跡として明白になった。藤森栄一は現在の諏訪湖の湖面下から発見された多くの遺跡を分析し、その垂直分布による調査から、諏訪湖は調査の範囲内でも4回の増水と、5回の減水を経ている事、依然として沈降が続いている事が分かった。諏訪湖の湖底は400m以上の厚さで20万年前以降の比較的軟らかい地層が堆積している。第一回の減水期は旧石器時代晩期から縄文時代早期初頭のようだ。遺跡は約1万坪の沈下地域に含まれていた。その後の理化学調査からも、曽根遺跡は当時、沼か低湿地であった事が分った。藤森栄一の綿密な研究により、従来論争の対象であった石鏃や土器以外にも、多様で豊富な遺物が考古学研究の俎上へあげられた。曽根遺跡の面積は、23,000㎡の広さがあり、我が国の水中考古学研究の嚆矢(こうし:物事の始まり)となった。
 諏訪湖は本州中央部を横断するフォッサマグナの地溝部にあって、断層の陥没によって出来た断層湖であった。 諏訪湖の最南端から西側を走る比較的直線的な湖岸は、糸魚川-静岡構造線である。湖の西側は、安山岩や集塊岩石、東側は石英閃緑岩というふうに地質が異なっている。ちょうど諏訪湖のあたりが、断層で陥没したというわけだ。 そして諏訪盆地は、フォッサマグナの海が造った糸魚川-静岡構造線と、諏訪から発し九州まで続く中央構造線が交わる、地質的に極めて複雑な所といわれている。
 地表の大部分は塩嶺累層や霧ヶ峰・八ヶ岳などの火山噴出物でおおわれているが、断層にそって湧き出る温泉、底なしと呼ばれ沈降をする活断層など、その下には大小多くの断層が交錯し、今でも大地は活動を続けている。砂泥層が深く、400m掘ったが岩盤に達しなかったという記録が、上諏訪に残っている。
 それに北側の上諏訪、下諏訪には、温泉が湧き、南側は、天然ガスが湧出している。諏訪湖は、古墳時代から平安時代にかけて最大になり、その後は減水縮小して現在に至ったと考えられている。一方、人為的働きも加わって、その沈降作用は、一段と促進されている。 近年の諏訪盆地の地下の人工地震探査により、諏訪湖の湖面の下500mに硬い岩があることが分かった。この岩盤が湖面より数100m高い周囲の山々の「塩嶺溶岩」と同じならば、諏訪湖は、約1,000m沈降したことになる。しかし30を超える周囲の河川から流れ込む泥土で埋められ、現在の諏訪湖の水深は7mしかない。
 曽根遺跡当初の縄文草創期、旧石器時代からの細石器その他の石槍の技術を承継した。その一方、オオツノシカなどの大型獣の絶滅による動植物相の変化が、新たな狩猟採集活動を登場させた。氷期終末期、徐々に進む温暖化に伴い大量に果実を結ぶ落葉広葉樹林に依存するイノシシ・ニホンシカ・タヌキなど中小獣が増殖し、それを標的とする石鏃に代表される弓矢が広く伝播した。画期的な発明であるがため、世界に広く瞬く間に展開した。それに伴い旧石器時代に確立した犬を使う狩猟法が、ここに至って定着した。
 東京都秋川市(現あきる野市)にある前田耕地遺跡は、多摩川とその支流である秋川の合流点にあたる秋川左岸の河岸段丘上に遺存する。この遺跡の草創期の竪穴住居址から多量のサケの骨が出土した。旧石器時代の狩猟技術を生かし、環境変化に適応した漁労活動が本格的に始まっていた。

 曽根遺跡は旧石器時代末(1万5千年前)から縄文時代草創期にかけての遺跡と推定され、出土品は数万点を遥かに超えている。依然として旧石器時代の石器文化が継承され、石槍としての細石器の技術も日常的に活用されていたが、石鏃にその使用が認められる弓矢が出現する。曽根遺跡はその多量な黒曜石の石鏃の出土から、石鏃製作場を主とした址と考えられている。旧石器時代や縄文時代を通して剥片石器の代表的素材に黒曜石とサヌカイトがある。ともに産出地は限られていて、希少な石材・石器製品として交易の対象になっていた。長野県小県郡長和町の鷹山遺跡群では、主に関東地方の平野部へ石器を運び出すため、旧石器時代より盛んに黒曜石が採取され、縄文草創期には採掘のための鉱山活動も大規模になされていた。一方鷹山川沿いに広く展開する石器製作工業団地であったといっても過言ではない。周辺の各地にも黒曜石の貯蔵例が多く存在し、諏訪湖東岸遺跡群などにみられるように黒曜石石器の大規模な製作もなされていた。曽根遺跡に集中する大量で精巧な石鏃も、交易品として広く流通していた証である。
 出土土器の型式は、草創期の土器としては爪形文土器だけであった。爪形文は半截竹管(はんせつちくかんもん)を器面に押圧し、横や斜めに密接施文する単純な文様である。爪痕に似ているため、その呼称となった。
 曽根遺跡で採集された土器には、沈線文土器と無文土器が含まれていた。沈線文は半截竹管の内側で器面に平行する線を描くか、細い棒の先やへらで一本づつ線刻する。出土例では爪形文土器よりも後期になる。
 近年、1万年前を遡る土器がシベリアを中心とする極東各地で発掘され、縄文土器が日本列島だけに単独に存在するものでないことが知られた。中国南部でもこれに匹敵する年代の土器が多く見られるようになった。その器形には椀や壺形があり、深鉢形土器主体の東北アジアとは明らかに異なっている。土器文化はそれぞれの道具立ても違い、単純な伝播交流論だけでは解けない、それぞれが環境に適応して発展させてきた側面が大きいのだ。
 無文土器は青森県外ヶ浜町の大平山元I遺跡で、16,500年前の文様のない土器のかけらが発掘され、現段階で日本最古の土器といわれている。曽根遺跡の無文土器には器面をきれいに撫でて、なめらかに仕上げられているものが多い。指で撫でた痕を遺している土器片もあった。無文土器は上諏訪駅前のデパート周辺の片羽町遺跡(かたはちょうー)でも見られ、草創期から不可欠な土器であったようだ。神奈川県大和市深見諏訪山遺跡では、縄文草創期層から出土したのが、無文土器・爪形文土器・撚糸圧痕文土器であった。無文であれば、日常消耗される土器である事が殆どで、草創期のみならず、縄文後期から晩期にあたる長野県篠ノ井信更町(しんこうまち)の大清水遺跡で大量の無文土器が発見されている。信更町には聖川が流れ、遺跡は豊富な湧水帯の湿原の中にある。器形と大きさにおいて斉一性があり、大きさは口径が25cm~40cmのものが中心である。内面は丁寧に仕上げられているが、実用重視で短時間に粗製仕上げされたようで、器面には継ぎ目が残り粗略であった。縄文時代を通して各地方で製作量と形体は異なるが、深鉢の煮沸機能を専らにする無文の土器の方が大量に生産されていた。多量の木の実を短時間で調理する無文の粗製土器が、生産性と機能を重視した土器として主流となっていた。

 かつて曽根遺跡は陸続きの岬で、野辺山高原矢出川遺跡の後期旧石器時代の細石刃文化、伊那市の御子柴(大型槍先)文化よりも後出の遺跡である。石器の器種は、細刃器・ナイフ形石器・台形様石器・石核・掻器・石錐・木の葉形尖頭器などの尖頭器・石鏃などと、その仕掛品などが諏訪湖から混在した状態で引き上げられた。藤森栄一は剥片(はくへん)を利用した石鏃を、根元が二つに割れた長脚鏃・三角鏃・細長い長身鏃・円脚鏃などに分類した。だが縄文時代の矢尻の大半が打製で、縄文草創期から早期にかけてと、晩期の一部地域で部分磨製石鏃がみられる。消耗品であれば矢柄に装着する茎が無いものが一般的で、茎がある石鏃はそれでも東日本に広く分布している。石鏃と矢柄を固定するアスファルトが付着するものもある。この他左右非対称で2cm前後の片脚が欠けているものを、諏訪湖とその周辺河川で使われた漁労用のモリなどの細刃器とみた。特に石鏃は、極めて多様、多量に出土した。燧石(すいせき;火打石)、骨角器、鹿の角等も採集されいた。曽根遺跡には多量な石鏃・用途不明な石器や石屑が出土した割には、縄文早期の局部磨製石鏃がわずかであることから、この時期を境にして、既にこの地は住める状況ではなくなっていたようだ。

 諏訪湖の東岸には、地表下深く、当地特有の地下水を多量に含むスクモ層や砂層に覆われた遺跡がいくつか出土している。スクモ層は含水比が極めて高い「腐植土層」で、その水分が押し出されることによって生じる諏訪盆地の圧密沈下の最大原因となっている。その東岸地域の遺跡の多くは、旧石器時代末期から弥生時代中期に営まれている。特に縄文草創期の片羽町遺跡が注目される。曽根遺跡の直後に形成された遺跡だが、石鏃はなく石器製作の痕跡すらもない。ただ曽根遺跡の石器群にない石斧などが遺存していた。またその後数千年単位で断続的に地点を変えて、縄文中期と弥生中期の痕跡を遺存させている。
 諏訪湖周辺で断層が原因となる地盤沈下もあって、片羽町遺跡の縄文草創期の原地表面は海抜755m.前後で、諏訪湖の現湖面759mよりも4m低い。デパート駐車場の拡張工事で発見された片羽町B遺跡の縄文中期層からは舟の櫂と2本の杭の列が発掘された。約4,000年前の中期終末期の遺物には磨石(すりいし)などの石器類・椀状の木製容器・クルミなどに混じり土器片錘が伴出した。このB遺跡は、集落遺跡というより諏訪湖の畔の船着き場か漁労用の作業場であったようだ。
 上諏訪駅前に位置する片羽町A遺跡は、絡条体圧痕文土器(らくじょうたいあっこんもんどき)・押圧縄文土器・無文土器など、その出土土器の現存する42点の型式学的分析と包含層の調査から約1万年前の縄文草創期後半のものとされた。これら土器の特徴は胎土に砂を含むものが多く、特に輝きを増す雲母を混入させたものが一定量存在する。絡条体圧痕文の絡条体の条とは、繊維の束や細い軸棒に撚紐(よりいと)を絡(から)めた束をさし、それを器面に押しあてて施文する縄文である。垂直や水平に施文するのが通常で、その方向を変化させれば幾何学的文様を構成できる。押圧縄文(線状縄文)は、撚紐をそのまま土器面に押圧して付ける文様であって、こより状に撚りを与えた一段の撚紐を二本に撚り合わせた撚紐を原体としたものが多い。
 片羽町A遺跡の草創期の文化層から土器の他、僅かばかりの石器が出土した。ここから約1km程の曽根遺跡では、石槍を含め石鏃製造址とおもえる程、多量の石鏃が発見されていた。だが片羽町A遺跡からは石鏃は全く出土していない。若干の石器の中で目立つのが、4点の蛇紋岩製の「局部磨製石斧」である。いずれも縁辺までも整形加工され刃部は入念に磨がれ、その内2点は、重厚な蛤刃(はまぐりば)である。刃物は通常、ナイフ・包丁・日本刀が典型で、刃先から峰に向かって直線にして、その切れ味を重視する。これに対して蛤刃は、合わさった蛤のように、刃先の両断面が広がり、側面から見ればなだらかな曲線を描き、その分厚みが生じる。この構造は切れ味は落ちるが、叩き切る、叩き割るといった、力量溢れる使い方には強靭であり、主に鉈や斧に使われた。大形のものは15㎝あり、最小品は7㎝ある。その外「礫斧(れきふ)」が1点出土しているが局部磨製とまではいえない剥離加工が施されている。他には蛇紋岩製の棒状石器、黒曜石製の掻器と剥片、鉄石英製の削器などが出土した。

  柏原地籍の大門街道沿い、音無川を見下ろす栃窪岩陰遺跡からも、縄文時代草創期の神子柴系の槍先形尖頭器が出土している。ただし石器以外の遺物・遺構は見られず、生活の痕跡は希薄だ。ただ一時的な、キャンプ・サイトと考えられている。それは近年までも続いて、狩猟・漁猟・山菜採集の好適地として時代ごとの遺物も発見されている。
 縄文時代、白樺湖池の平周辺に、遺物散布地が点在しているが、旧石器時代の延長で、主要な生活地とは言いがたいようだ。








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