縄文時代の地域的特性


亀ヶ岡遺跡

転載元 http://rarememory.justhpbs.jp/jyoumon/


 亀ヶ岡遺跡は、青森県つがる市木造亀ケ岡で発掘された。木造亀ケ岡は、最終氷期後半の極寒期(約2万5千年前)まで、うっそうとした針葉樹林帯であり、その後温暖化により針葉樹林は水没し、洋々たる入り江になった。西北からの風波が泥土を堆積させ、三角州ができ砂丘が築かれ七里長浜になった。この地に、今から約3千~2千年前、縄文時代の晩期の文化・亀ヶ岡縄文文化が開花した。
 縄文中期まで、土偶の出土の最西端は滋賀県であった。後期になると石囲炉のある住居・抜歯の風習なども含めて東日本の縄文文化が西日本に伝播した。
 環状集落も血縁集団の帰属意識の高まりを根底にする東日本の文化的特徴とされてきた。縄文中期末から遺跡の形成が始まる宮崎県宮崎郡田野町大字本野原の本野原遺跡(もとのばる)で、それもようやく後期中葉に環状構造が出現する。だが環状に集落の中心を占拠するのは墓坑を含む土坑群であった。当時、東日本では環状集落の中心に、墓地を独立させる形で環状列石などのモニュメントを配置した。それが集落内外に対してのムラ人のアイデンティティとなった。歴史ある古くからのムラである本野原も、先祖祭祀をムラ人のアイデンティティとするため、後期前葉には竪穴遺構が作られた。そこには住居がなく、祭祀儀礼を念頭においた竪穴遺構と、大ぶりな石を用いた配石遺構が作られた。
 東日本では縄文中期末から後期にかけて、伝統ある定住性の高い集落が、その地域から消滅するほどの大規模な気候と社会変動が起きる。一定地域に固執した定住集落を維持できず離脱遊動し、それが結果的に西日本にまで、ムラの人々の紐帯となる先祖の思慕を根底に置く祭祀観念を伝播させたようだ。
 この時代、寒冷化により、中部・関東地方以北の縄文文化が衰退した。その過酷な自然環境の中、当時の亀ケ岡縄文人は、優れた知恵と卓越した技術を駆使し、縄文文化の集大成ともいえる、数々の精巧な石器や、華麗な装飾をほどこした洗練された土器等を作りあげた。

 この遺跡の発掘は、元和8年(1622)年津軽藩主信牧(のぶひら)公が亀ヶ岡築城を計画したことに始まる。信牧は、弘前藩祖・津軽為信の三男である。津軽為信(ためのぶ;1550~1607)は、戦国大名の典型的な道を歩んだ。津軽地方を支配する南部一族の内紛に乗じて、元亀2年(1571)5月、石川城(別称:大仏ヶ鼻城)の津軽郡代・石川高信を急襲(石川城の戦い)して自立し、それより和徳城、天正3年(1575)に大光寺城、天正6年(1578)には浪岡城、天正13年(1585)には油川城・田舎館城・横内城、天正16年(1588)には、飯詰高楯城など南部氏の属城を蚕食して勢力を伸ばし、津軽地方を統一した。
 これに対し南部家当主・南部信直(なんぶ・のぶなお)はこれを奪還しようと企て、配下諸将に津軽氏討滅を命じたが、九戸政実(くのへ・まさざね)以下の諸将は、事前に為信と密約を結んでいたため、これを拒否、一方の為信は小田原討伐に向かう羽柴秀吉に沼津で謁見し、津軽3郡3万石の安堵状を得たことで既成事実を作り、信直の策動を封じた。以降両家の反目の感情は江戸時代に至っても続く。
 こうして、為信は元々は南部氏の家臣であったが、小田原征伐の際、自立せんとして逸早く、豊臣秀吉への働きかけが成功し大名となる。
 信牧公当時の木造地方は、一面不毛の湿地帯であったが、信牧公が、新田開拓事業に乗り出し、その拠点として亀ヶ岡城の築造準備を進めた。その際資材運搬のため、湿地に材木を敷いて街道を造ったことから、「木作村」と称されるようになり「木造」の地名の由来となった。
 その後、築城は幕府令により取り止めになったが、4代津軽藩主信政の時代も引き続き新田開拓は進められた。開拓に障害となる七里長浜からの砂塵を植林により克服し、約4千町歩の田畑を開墾した。また信政は三新田を管轄する代官所、さらにはその中に仮館を設け、新田各地を巡視した。
 以後の藩主も同様に巡見を行ったことから、「木作」は新田地方の中心として栄えた。
 先に述べたように、元和8年(1622)年、信牧公が亀ヶ岡築城を計画、工事を始めたところ、多数の瓶(かめ)や壷等の土器類や石器類が数多く出土した。それが「亀ヶ岡」の地名の由来となった。
 「永禄日記」の元和9年の条に「ここより奇代の瀬戸物を堀し……」とわが考古学上の最初の記録がなされている。「元禄日記」にも、昔から瓶(かめ)が多く出土することによる地名の由来が記載されている。

 縄文時代に漆製品があり、それも高度な技術を伴う事は、今や考古学上では常識である。かつて青森県八戸市是川字仲居の是川中居遺跡(これかわなかい)の出土品が高く評価されなかったは、縄文時代晩期を主体とした籃胎漆器・木胎漆器・弓・櫛などの漆製品が、余りにも精緻で装飾的であり過ぎて、江戸時代のものだという説があった事などによる。漆の木は日本には自生していないという植物学界の見解が、正確な判断の妨げにもなった。その上、漆液採取から製品仕上げまでの複雑な工程が、日本で突如誕生したとは思えなかったからのようだ。漆製品文化は日本には、奈良時代以前、中国経由で渡来したという説が有力であった。しかし採取法の違いなどから、日本の漆器を独自のものとする説も有力となった。
 1984年に福井県若狭町の鳥浜貝塚で出土した木片を、2011年に東北大学が調査したところ、およそ1万2600年前の漆であることが判った。日本には、既に縄文時代以前に、朝鮮半島経由で渡来していたようだ。ヤマウルシが北海道から九州、千島列島南部など広く分布しているので、日本国内に元々自生していた可能性も考えられる。  漆は元々接着剤として使用されていた。埼玉県大宮市の寿能遺跡(じゅのう)では、シノダケ類の矢柄に石鏃を装着する際に使われている。木屎漆(こくそうるし)は、弱火で加熱しながら生漆(きうるし)に木屎をねり合わせたもので、布や木の接着剤、塗り物などの割れ目の充填剤などにする。神奈川県小田原市の羽根尾遺跡(はねお)で出土した結歯式の櫛は、一本ずつ作った歯を糸で縛り、根元を薄い板で挟んで漆で固め、黒漆を重ね塗りして、仕上げに赤漆で彩色したものであった。
 塗料として使用する場合、その素地により木なら木胎漆器、竹・蔓・茎なら藍胎漆器(らんたいしっき)、土器なら陶胎漆器という。亀ヶ岡遺跡の出土品は縄文後期から晩期のもので、特に、黒漆の地に赤漆で紋様を描いた藍胎漆器が美しく、竹・樹皮等を編み、麻布を貼り付け黒漆を塗り重ね皿状にし、赤漆で模様が描かれている。櫛などの漆塗、漆やベンガラを塗った土器や装身具、ヒスイの勾玉、丸玉、ガラス玉など、その形状、紋様、塗飾などは精巧で完成度が高く、卓越した芸術性がうかがわれる。そのため、江戸時代から既に「亀ヶ岡もの」として好事家の手により江戸、長崎ばかりか、オランダあたりまで輸出され、乱掘がくり返えされた。
 出土品が散逸することをふせぐため、昭和19年文化財保護委員会が「亀ヶ岡石器時代遺跡」、および近くの縄文前期~中期の土器が、出土している「田小屋野貝塚(たごやの)」も史跡として指定した。
 明治20年に亀ヶ岡遺跡から出土した高さ34.5㎝の土偶は、胴体からすぐ頭部で、顔面を覆う目がエスキモーが使う真ん中にスリットが入っている雪眼鏡(ゆきめがね)に似ているため遮光器土偶(重要文化財)と名付けられた。その特徴は上述の遮光器のような目に加え、体は左右対称の文様で全面に亘って覆われ、肩が張り、腕は短く逆円錐形で、指は3本しかなく、胸には半球形の乳房が貼り付けられ、大きな臀部と太ももで女性をデフォルメした。遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期の特色となっている。昭和32年国指定重要文化財に指定され文化庁が所有している。
 その斬新な形、驚くほどの精緻さ、赤く彩色されていた事、その文化力の高さに圧倒される。遮光器土偶をはじめ、縄文晩期の亀ケ岡の土器は黒漆の地に赤漆で描いた文様などが特徴で「亀ケ岡文化」「亀ケ岡式土器」と呼ばれている。
 ただ、遮光器土偶は、他にも旧都南村(現在の盛岡市)の手代森遺跡からも発見されている。現在では、黒っぽく見えるが、当時は朱(しゅ)が塗られていたようだ。今はきちんと復元されているが、発見当時は、ほかの土偶と同じようにバラバラになっていた。それ以外にも岩手町豊岡遺跡・宮城県恵比寿田遺跡・宮城県尾田峯貝塚・宮城県北上町泉沢貝塚でも出土している。いずれも、念入りに作られて、大きいものが多い。ほかの土偶には無い深い思想が込められていたのかもしれない。
 亀ヶ岡遺跡では、完全な形の土器が1万個以上も出土したといわれている。その中でも、精製土器は、薄い器壁に文様を描き、朱色に塗色され装飾されたものが一般的で、浅鉢、壷形、台付き浅鉢、注口などがあり、縄文時代のなかでも際立った多様な器種分化を遂げている。中でも朱・丹などベンガラ塗飾、漆塗り、独特な入組文様などが施された、赤色顔料塗り壷形土器、漆塗り彩文土器、漆塗り異形土器、彩文藍胎土器片などは、亀ヶ岡縄文人の高度な技巧に驚嘆させられる。
 全体が、赤色ベンガラで彩色された"藍胎漆器"は、竹・樹皮などを編み、麻布を貼り付けて漆を塗り、それに模様を描くという漆文化の知恵、及び卓越した芸術完成度には目を見張るばかりだ。香炉形土器は、上部2ヶ所に窓状の穴を開け、周囲に緻密な透かしを彫り、下半部には流麗な雲形文が施されており、装飾効果を高めている。それは、呪術的文様を超えて、意欲的な美的構想にもとづいて文様を施した創作とみられる。
 さらに、鯨骨に塗飾した皿らしき器・玉類用の砥石・朱塗り耳飾り・ペンダントなど身体装飾品・作業工具に秘められた知恵・彫刻風の多様な文様・工夫を施した形状など、多才な芸術感覚が示されている。

 亀ヶ岡縄文人が、どのような物を食べていたかを知るためには、貝塚を調べてみるとよく分かる。大浦貝塚は、青森市野内字浦島の海岸線に立地し、昭和43年の発掘調査の結果、亀ヶ岡文化を有する縄文晩期の貝塚遺跡であることが判明した。
 青森県内の縄文貝塚は、八戸市・三沢市など太平洋沿岸に集中し、50ヶ所以上確認されているが、亀ヶ岡文化期の貝塚は極めて少なく、陸奥湾岸では大浦貝塚1ヶ所だけと云われている。貝塚は、陸奥湾を望む鼻繰崎の西側で、汀から50mの畑で、丘陵裾に道らしいアクセスもなく、隔離された海岸線に、ひっそりとある。
 貝塚は、貝殻やごみ類などを捨てた場所で、貝殻に含まれるカルシウム分が酸性の土壌を中和するため、普通腐ってしまうような貝類・骨類・木材・布などの有機質が良好な状態で保存された。漁労用具として網や土錘、骨角製の釣針とモリなど、この貝塚から出土した。特に、鹿の角で作った各種釣針は、返しがあり、糸を巻く溝も付けられている。
 鹿の角の先端を2股にして、その間に石鏃を挟み、それをアスファルトを使って矢柄の先端に装着する、異色な骨角器も出土している。鹿角製のヤス、猪の犬歯の装身具もあった。
 骨角器のほか、食料源のアワビ・レイシ・イボニシ・イガイなどの岩礁性貝類、ボラ・マグロ・サバ・マダイ・メバルなどの魚類、ウミガラス・アホウドリなどの鳥類、狸・鹿・猪・イルカ・クジラなどの哺乳類なども検出された。
 大浦貝塚の南へ、汀から150mm離れた平坦な畑で、製塩址が発見された。海水を煮詰めるための製塩土器片が、火熱を受けて赤や灰色に焼け、細かく割れ、バケツのように上向きに口が広がった状態で出土し、それ以外にも、製塩土器の破片が多数発見されている。塩作りも盛んに行なわれていたが分かった。
 塩作りによって、海産食料の塩漬け保存が可能になり、内陸部のムラとの交易も容易になり、この地域に住む人びとの生業を格段に向上させた。塩作り遺跡は陸奥湾岸に集中しているが、作られた塩は、生活に欠かせない大切な食料保存材として、山間部の集落などとの交易物資にもなっていた。
 亀ヶ岡遺跡は、東に岩木川と広大な沖積地・津軽平野を眺望する台地の先端部にある。史跡は、亀山・近江野沢・沢根の3地区に亘り、2万5千m2ある。台地上の亀山地区は、居住地と墓地群がある。台地下の近江野沢・沢根の泥炭層が、天然の冷蔵庫となり多数の植物性遺物、漆器、植物の種子、花粉を遺存させた。炭化米・籾殻・粟ときびの雑穀・栃の木の種実などが出土し、イネやソバの花粉が検出された。

 亀ヶ岡では農耕が始められていた。縄文時代の生業の有様から鑑みて、植物質食料の採集と加工が、主として女性の仕事と想像するに難くない。その女性の営みから畑作へ自然に流れていった。農耕は女性によって始められたようだ。男が担う狩猟・漁労の収穫は安定しない。それを補うにあり余る成果を上げれば、自ずと女性の地位は向上する。女性は出産の直前まで採集活動や畑作に従事する。出産後は数週間の産褥期を経て、乳飲み子を背負い再び生業に戻る。農作物の豊穣と家族を「生み育てる力」をデフォルメ化すれば、たくましい女性を象(かたど)る土偶となった。亀ヶ岡の遮光器土偶の分厚い胸と肩の筋肉の盛り上がりは、当時憧憬された女性の理想像であった。雪原の照り返しを防ぐスリットが入っている雪眼鏡も、雪深い青森の冬季、かつて体験されていない最寒冷期の猛威に晒されながら、縄文晩期ならではの照り返しのきつい雪原での、野外における生業の営みの必需品と素直に理解したい。藤森栄一が縄文中期の中部地方で既に農耕が営まれていたと説くとき、女性の土偶がその農耕社会にとって重要な豊穣観念を具現化したと唱えた。そうした土偶はヨーロッパ南東部の新石器時代の遺跡からも数多く出土している。初期農耕社会では女性の地位が高く、やがて女神信仰に繋がり、終には「ミロのヴィーナス」を創作する迄に至ったといえようか。
 土偶が出土する縄文時代、それが出土する遺跡は少数で、さらに土偶が盛んに製作する時期と地域がある一方、全く遺存しない地域もある。土偶は畑作が営まれる中部地方以東の東日本の縄文中期に多く、前期以前は少ない。西日本でも、縄文後期・晩期の九州や晩期の近畿地方へ広がっている。この出土実績が語る女性を象る時期と、西日本地域の水田稲作農耕文化の初源と重なる。
 縄文晩期を代表するこの「亀ヶ岡文化」は、北海道では函館を中心とした西南部が、青森県の影響を受け、同じような変遷をたどり、共通の文化圏を形成したと思われている。縄文晩期後半には、その分布はほぼ全道的な広がりを示す。本州でも青森県・岩手県を中心として、更に新潟・富山の北陸や、東海・近畿地方の一部に影響を与えた。東日本で亀ヶ岡文化が栄えたようだ。
 「亀ヶ岡文化」が、隆盛期を迎える約3,000年前から約600年の間に、西日本は、大陸からの渡来人による稲作文化によって、縄文後期以降の荒廃から弥生時代へと復興していった。一方、関東や中部地方の1万年を超える縄文時代は、退潮期を迎えた。亀ヶ岡文化も、気温低下→動植物資源の枯渇→森林資源の荒廃→海岸線の後退→貝塚減少→人口減少→縄文時代の終焉といった、東日本の宿命からは逃れられなかった。
 現在、亀ヶ岡遺跡に行って見ると、小さな神社と、昔、遺跡があった事を示す看板があるだけで、なにもない。ただの住宅地になっている。出土品のいくつかは、少し離れた所にある公民館の一室で展示されている。肝心の遮光器土偶は東京国立博物館が所蔵している。壁に遮光器土偶の大きな写真が張ってあり、文化庁に召し上げられてしまったというような事が書いてある。出土資料の一部は、県立郷土館・木造町縄文館等で公開されている。








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