諏訪地方の縄文時代(草創期)

縄文文化の黎明期 (1万数千年~約1万前)

池の平の自然の変化

転載元http://rarememory.justhpbs.jp/suwajyou2/suwa.htm


 池の平は日本列島の尾根、中部高地地方の中央部に位置し、約1,410mから1,450mの標高範囲とみられる。白樺湖ができるまでは諏訪側からも小県側からも、急峻な山道を登りつめると、忽然と開ける盆地状の地形であった。地元の柏原の両角万仁武老が営む山小屋が一軒だけあった。中央を音無川の清流が蛇行して、岩魚・山女(やまめ)・鰍(かじか)等がたくさん棲息していて、地元の川干漁の絶好の場所であった。山菜採り、秣(まぐさ)刈りの村人、峠越えの杣人(そまびと)と、たまさか出合うハイカーとキャンプの若者、その人影は少ない。
 気候は高冷地型の内陸性で雨量は比較的少なく、冬の乾燥した寒さは厳しい。昭和59年度の平均気温は、4.3℃の記録が残っている。
 池の平も今から2万年前をピークにする、第4紀更新世最後の氷河期の洗礼をうけた。その時に先土器時代という日本最初の人類文化の最盛期を迎えた。諏訪湖盆地区、八ヶ岳や蓼科山の山ふところ、そして八島ケ原を中心にした高原台地上と周辺の沢沿いと、人々の懸命な生活の痕跡が刻まれていく。当時と現代の気候差は、現在地より標高で400m超の高さを足した上で、推定されるとしていう。実際の各地のデータではもう少し気温が低い結果が出ている。日本列島全体の年平均で7℃~8℃も低い、すると池の平の当時の平均気温は、-4℃位になる。それでは草木も生えないツンドラ状態ではないか考えるのは、間違いで、現在八ヶ岳、蓼科山の2,000mの高山地帯には、北海道東北部に多い亜寒帯針葉樹林で覆われている。白檜曾(しらびそ)・樅(もみ)・ぶな・岳樺(だけかんば)の樹木が繁茂し、山肌の比較的太陽のあたる所は一面熊笹で、高木に遮られて日の差さない岩場には、厚い苔が敷き詰められている。これが2万年前~1万年前の池の平の風景と推測される。氷河期を通して、常に厳しい寒気が続いたわけではない。氷河期であっても、寒い時期の氷期、暖かい時期の間氷期が繰返されていた。
 氷河期の池の平も樹木で覆われ、その木々の間に鹿・かもしか・野兎が多棲していたようだ。そこには大角鹿(おおつのしか)・ナウマンゾウ等の氷河期時代の大形動物もいたであろうか。
 鹿には樅・ブナ・岳樺等の果実・芽・樹皮等が、1年を通しての良好な食糧で、たっぷり食べると鹿は、見通しのきく平坦な熊笹の休息地で反芻を始める。鹿の交尾期は初冬だ。その時期、池の平の音無川の水辺には、多くの鹿が集まって来た。こうした場所こそ鹿などの動物の絶好の狩場となった。先土器時代から縄文時代にかけて、人々はその厳しい自然環境の中、獲物の生態を十分理解をして、生業に励んでいた。








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