諏訪地方の縄文時代(草創期)

縄文文化の黎明期 (1万数千年~約1万前)

白樺湖は語る

転載元http://rarememory.justhpbs.jp/suwajyou2/suwa.htm


 火山国日本は、酸性土壌のため骨・角・木材等有機物は、百年も経たずに融解する。人類が活動した痕跡は、一部の例外は別として、ほとんどが石器と土器と土坑祉、そして石組みとに限られている。唯一沖縄のみ石灰岩質のため、縄紋人の祖先、日本列島における後期旧石器時代の人・港川人が、沖縄島の南部、具志頭村港川で、それも石灰岩採石場で少なくとも9個体分発見された。しかし沖縄県内全域で、未だ旧石器時代の遺物が発見されていない。今後の研究成果が待たれる。
 長野県白樺湖周辺は白樺湖が温水溜池として造られる前は、池の平と呼ばれていた。蓼科山・八子ヶ峰・車山の溶岩台地が区切れて形成する盆地状の湿地で、それまでは忘れ去られた峠道であった。だが池の平からは周辺の重々たる山稜からの湧水を集め音無川となり、山間を抉り蛇行し急流をなし渓谷を形成した。それが旧石器時代からの要路となり、諏訪の平から大門峠を境にして、小県・上田に通じ、蓼科山の山麓・雨境峠から迂回し佐久から碓氷峠を越えれば、当時から先進文化を発展させていた北関東の高原台地に通じていた。池の平の豊富な遺跡群の出土品は、旧石器時代から八島ヶ原高原周辺の黒曜石産出地からの石材・石器の搬出ルートであったため、白樺湖周辺の琵琶石遺跡・御座岩遺跡をはじめ音無川沿いの山裾の狭いテラスや岩かげにある栃窪岩陰遺跡(とちくぼいわかげ)などに生活の痕跡を留めている。栃窪岩陰は、現在、唐松林に遮られているが、当時は八子ヶ峰から連なる山裾から八ヶ岳連峰と富士山を眺望する絶好の岩陰で、狩猟・川漁とドングリ採集に最適地であった。
 白樺湖は標高1,416mあり、その南岸上の八子ケ峰の裾野、尾根状地形の中断斜面に、旧石器時代の遺跡群が集中している。その石器組成から考えて、最古の遺跡と思われるのが、標高1,436mの対山館遺跡(たいざんかん)である。出土したナイフ形石器、削器等は、剥片の剥離法も一定の技法を持たない粗雑なものであった。ここから西より100m下った三井山荘の付近に標高1,425mの南岸遺跡(なんがん)があり、対山館遺跡に続く古さとみられている。大形のナイフ形石器、大形の刃器状剥片、槍先形尖頭器、彫器、削器、揉錐器等が出土している。これらの遺跡のナイフ形石器は、大形の剥片を用い、その加工度は低く粗製で完成度は高くはないが、旧石器時代の石器群である。一方、縄文時代早期及び前期の胎土中に植物繊維を混入させる繊維土器や茅野市北山芹ヶ沢の下島遺跡に由来する下島式土器片(しもじましき)や石鏃なども伴出した。狩猟の際のキャンプサイトと思われる。
 この両者共に、石材の黒曜石は、冷山・麦草峠産で、その後代の遺跡になると和田峠産のものになる。和田峠産は純度の高いガラス質が主となる良質な素材だが、冷山・麦草峠産は、内部に気泡や混入物を多量に含んでいるといわれている。
 これら遺跡のある溶岩塊群の前面の台地と渓流を隔てる西側の尾根は、白樺湖の南岸においても遺物が特に濃い場所である。対山館遺跡の西隣りに琵琶石遺跡(びわいし)がある。八子ケ峰(1669m)の南斜面末端の白樺湖に露頭する溶岩塊群の一角、その根元の亀裂の岩陰で遺物が発見された。標高は1,440mである。白樺湖の湖面と比高すると24mある。白樺湖として観光地開発される前から各所で旧石器時代の石器などの遺物が出土していた。その根元の亀裂は自然石の岩陰で高さ2m、入り口の幅2mの三角状で奥行きがある。昭和18年、三井不動産が社員の厚生施設として、茅野市豊平塩之目の茅葺き屋根を移築した。昭和29年、山荘の管理者竹内昭氏が、その敷地の琵琶石の岩陰に椎茸栽培の原木を貯蔵するため黒土を除去した。すると1片の土器片が出土した。これが契機となり昭和30年5月、宮坂英弌氏は諏訪清陵の高校生3人と調査し、石塊に囲まれて遺存する赤褐色の深鉢の土器を発掘した。縄文時代早期の楕円押型文(だえんおしがたもん)土器であった。しかし周辺域からは、生活の痕跡を留める炭化物や石材一つ発見できなかった。
 池の平は旧石器時代から縄文時代にかけて、黒曜石文化を支える枢要な場所であるが、主に、狩猟、漁猟、山菜採取のキャンプ・サイトとして後世までの利用され続けられてきた。先土器時代の多数の石器の多くは、黒曜石製であるが、一部チャート製、頁岩製、サヌカイト製のものもあった。地中に埋もれた他の岩陰にも、この時代を特徴付ける重要な生活の痕跡が隠されている。しかしながら、現代では多くのホテル、旅館等が乱立するため、発掘は困難になっている。

 池の平に温水溜池を造る計画が昭和13年に立てられ、昭和15年に工事が開始され、戦後昭和21年に完成した。
 戦後の深刻な食糧不足は食糧増産の必要性に迫まられ、池の平の高冷地にも農業開拓事業の進展が試みられた。厳しい自然条件に挫折する者が多く困難を極めた。一転して、30年代高度経済成長時代になると、世界的に食糧過剰となり農林業に成長が見られず、増産意欲 が減退し、結果、不安定で苦労の多い開拓事業から転業する者が増え、拓村の人口は順次減少した。一方、第2次、第3次の産業部門が成長して、白樺湖畔を一大観光地へと変貌させていった。
 この地が実に、数千年間、高地交通の要衝であったこと、即ち池の平の頂上、大門峠を堺に、北流する大門川は千曲川の支流で、松代・佐久へと通じ、南流する音無川は諏訪から甲府と伊那へと通じる自然の通路であったこと、八島ヶ原高原周辺と和田峠の黒曜石の大産地から、他地域へその原料、製品を運ぶ人々の重要な拠点であったこと、それが今甦った。
 チャートは、主にケイ酸質の殻をもった0.1mm程度の放散虫という海産浮遊性原生動物が堆積してできた2億年前の中生代ジュラ紀のガラス質の化石である。硬い岩石で層状をなし粘りのある鋭利な剥片を得ることが可能となる。近畿南部や四国南部、東九州周辺域ではチャートが多く産出する。
 サヌカイトは、火成岩である古銅輝石安山岩の一種で、北海道・関東・九州地方で石器に多く利用されている。割れると鋭い縁をもつサヌカイトは石器に適しており、黒曜石同様盛んに使われていた。サヌカイトが石器に多く利用される傾向は、次の縄文時代や弥生時代になっても変わらない。香川県坂出市に位置する金山(かなやま)は、一大産出地として知られている。和名は讃岐石。
 頁岩(けつがん)は堆積岩の一種で、1mm以下の粒子粘土・泥が水中で水平に堆積したものが脱水・固結してできた岩石で、堆積された石理面に沿って薄く層状に割れやすい性質がある。愛媛県僧都川産頁岩・下関市安岡産赤色頁岩が知られている。
 頁の字は本のページを意味し、この薄く割れる性質から命名された。
 粘土・泥が堆積してできた岩石のうち、薄く割れる性質を持たないものを泥岩と呼ぶが、泥岩と頁岩の間に本質的な違いは無い。頁岩は泥岩の一種とする考え方もある。 また、弱い変成作用を受けて硬くなり、やや厚い板状に割れるものを粘板岩と呼び区別している。








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