八島湿原


氷河期代の八島湿原

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/hyouga/h.htm


「丘陵地の畑道を歩きつづけているうちに、山と山のすそが迫っている間のせまい切り通しにさしかかった。両側が2メートルほどの崖となり赤土の肌があらわれていた。そのなかばくずれかかった崖の断面に、ふと私は吸いよせられた。そこに小さな石片が顔をだしているのに気づいたからであった。私は手をのばして、荒れた赤土の地はだから、石片をひろいあげてみた。」(相沢忠洋『岩宿の発見』より)

 稲荷山の赤土の崖でついに完形の槍先形尖頭器(せんとうき)を発見した。相沢忠洋のこの発見が、その後、続々と続く日本の先土器文化遺跡の発掘の契機となりました。

 ところで、車山から霧ヶ峰とビーナスラインを走っていくと、その次が八島ヶ原湿原ですが、昭和27(1952)年にビーナスライン・観光道路開削工事をする際に松沢亜生(つぎお)が調査を行ない、多量の黒曜石の石器と遺物が露出しているのを発見し、はるか3万年を越える以前からの 先土器時代の遺跡が確認されました。「八島遺跡群」発掘の発端です。現在、10数箇所で先土器時代遺跡が発見されています。全体を総称して「八島遺跡群」といいます。さらに多くの旧石器時代の遺跡が埋もれていると考えられますが、遺跡全体の調査が不十分で、未発見の遺跡も多いので、遺跡分布状態は定かでありません。
 昭和30(1955)年に、当時大学生だった戸沢充則(元明治大学学長)・松沢らが調査をしました。 発掘の面積は3×1.5mのピットを4カ所掘ったにすぎなかったが、それにもかかわらず5,000点以上の石器が出土しました。そのことから、遺跡全体に埋蔵されている石器は、きわめて大量であろうと考えらました。出土した石器は、尖頭器(せんとうき)・ナイフ形石器・掻器(そうき)・石刃(せきじん)・彫器などの器種が主で、特に尖頭器の分析が戸沢教授によって行なわれ、尖頭器研究に画期的示唆を与えられました。戸沢教授は調査報告書で「大小の黒曜石片がほとんど敷き詰められるほどに濃い包含状態を示していた」と・・・黒曜石原産地に近く、その豊富な材料の中、石器作りに勤しんでいたといえます。
 黒曜石は、火山の噴火の際の噴出物や溶岩が急激に冷やされて出来ます。 天然ガラスのような黒曜石は、打ち欠きが容易で、割ればナイフのような鋭い割れ口ができることから、人類史の初期の段階から、石器の材料として重用されてきました。時には、金属のナイフより役に立つことがあるらしく、古代エジプトのミイラつくりには鋭く研いだエチオピア石(黒曜石)は欠かせなかったことが伝えられています。
 北海道では黒曜石を「十勝石」とよんでいます。北海道の黒曜石四大産地、白滝、十勝、置戸、赤井川の黒曜石の呼び名は、すべて「十勝石」です。特に北海道の東部、紋別郡白滝村にある赤石山(標高1,147m)は、黒曜石の産出量、質の良さともに世界有数の産出地です。白滝の黒曜石原産地の周辺と湧別川(ゆべつがわ)流域には、大規模な遺跡が集中して分布しています。白滝産黒曜石は、石材の採掘・搬出・製作と分業化され、全道各地の拠点的中継地に運ばれ、南は東北地方まで、北は宗谷海峡を越えてサハリン、大陸のアムール河流域の遺跡にまで、流通していることが知られています。
 本州最大の黒曜石の原産地・和田峠周辺地域と北海道の大産地以外にも、 本州から九州の各地に中小の産地があります。関東には箱根・伊豆諸島などの産地があります。一般に黒曜石と呼ばれても、それぞれ溶岩成分に違いがあります。その化学的分析で産地の特定が出来ます。それで、和田峠周辺地域の黒曜石が、3万年前から関東地方で既に使われていて、1万5千年前になると中部地方の長良川・木曽川流域にまで及んでいることが判明しています。発掘が進めば、今後、さらに時代を遡り、使用領域の拡大が想定されます。このことから、道自体の整備が全くない旧石器時代に、石材の採掘・搬出・製作と流通の組織的な生業があったと考えられます。
「八島遺跡群」では、今から3万年前頃から、定形的石器としてナイフ形石器が主となる時期が続きます。およそ1万5千年頃になって、新たに尖頭器という石器が加わります。八島遺跡には粗い作りの尖頭器が多く見られます。尖頭器とは、広義では先がとがって、ものを突き刺す役割を果たしたと思われる道具をいい、その形状から骨角器にも、この用語を用いています。狭義では、先の尖った石器、もしくはこれに類似した形の石器をさします。日本では、先土器時代のものを「尖頭器」と呼び、縄文時代のものを「石槍」と呼んだりしましたが、近年では時代を超えて「尖頭器」が、広く用いられるようになってきています。
 八島遺跡の尖頭器は、この石器の作り始めの時代のものと考えられます。「八島遺跡群」の形成は、近くに本州最大の黒曜石の原産地・和田峠周辺地域に近いことに関連しています。和田峠・和田山・東餅屋 (ひがしもちや)・男女倉(おめぐら)・鷹山、そして和田峠周辺地一番の原産地「星ケ塔」「星ケ台」と呼ばれる山の存在です。旧石器時代人は、星糞遺跡のように直接鉱脈を採掘する一方、鉱脈から崩れ落ちた黒曜石を沢で拾い集めたと考えられています。
「八島遺跡群」辺りは、その地域一帯の黒曜石の採取・加工場として、豊富な水場と食料原としての狩場のある一時的なキャンプ場として、最適だったようです。現在でも、雪知らずという名水場があります。ただ旧石器時代には、現代とは気候や植生にも大きな相違があって、高燥(標高が高く湿気が少ない)台地でした。八島湿原は氷河期が終わる1万2千2百年前から急速に形成されました。 ところが、「八島遺跡群」は、標高1,600mを超えています。その上、3万年前を越える人類の足跡です。霧ヶ峰のジャコッパラ12遺跡の年代は約3万8千から3万2千年前とされ、台形様石器・ナイフ形石器・ハンマーストーンが出土しています。ハンマーストーンとは、斧形石器製作で、ハンマーの機能を持つ石です。黒曜石原石を叩いて石核を作り、さらに剥片を剥がしたり、剥片の部分をさらに叩いて2次加工したりします。直接打撃法による石器製作です。鹿角などの軟らかい材質のハンマーもあり、獣皮を剥いだようです。
 そして、2万年前頃は ヴュルム氷河期の最寒冷期で、最も地球の気温が低下した時期です。宗谷海峡・間宮海峡等が樺太・シベリアと陸続きとなりました。雪線の高さが今よりおよそ120メートル低く、北海道の日高山脈や東北地方の高山、北アルプスには氷河があったと推定されています。これらの氷河の存在は、氷河の浸食作用によって形成されたと考えられるU字谷の頭部にカール(圏谷)があることなどで分かります。カールは氷河期に氷河によってえぐり取られ出来た大壁面をさします。カールは標高2,600m周辺に広がり、夏は高山植物の宝庫となります。現在は北半球で、氷河が見られますが、これらは陸地の10%をおおっているに過ぎません。ところが今から1万年ほど前の最後の氷河期には全陸地の27%が氷河におおわれていたと言われています。

 八島湿原の生成は、今から1万2,200年前から始まったといわれています。その地層の花粉分析から
    現在~  700年前   750年間 アカマツ期
    700~ 2,000年前  1,250年間 ミズナラ期
   2,000~ 3,000年前  1,000年間 トウヒ期
   3,000~ 7,500年前  4,500年間 ミズナラ期
   7,500~ 9,000年前  1,500年間 トウヒ期
   9,000~ 10,200年前  1,200年間 ミズナラ期
   10,200~ 12,200年前  2,000年間 トウヒ期
 八島湿原の地層の花粉分析によれば、大きく言えば気候の変動は、単純ではなく、氷河期でも、近代でも様々な様相を、時々に現出していた事が知られます。既に、氷河期の最寒冷期に当る1万2千2百年前以降にも、寒暖の変動が激しかったことが分かります。氷河期でも、長期のツンドラだけを想定するのは誤りで、トウヒ属の高木が茂る時期もあったのです。時には温帯性の落葉広葉樹ミズナラが繁茂していたかもしれません。
 短い夏の間に地面の表層が融解し、コケ類や地衣類が張り付く岩だらけの環境・凍土帯と亜高山帯針葉樹林特有の樅・トウヒ・コメツガに覆われた時期が繰り返されたようです。
 人類の起源ホモ・サピエンスが、比較的早期にアフリカからシベリア南部に分流していた事は、遺跡の発掘で証明されています。バイカル湖近くのマリタ遺跡、ウスチ・コバー遺跡からは、後に縄文時代人の遺跡の中核となる竪穴式住居が発見されています。
 岩手県宮守村(遠野市)の金取遺跡は、昭和59(1984)年に発掘調査が行われ、年代の違う4つの地層から石器が出土しました。金取遺跡の最も古いとみられる地層では、石斧や剥片削器など石器9点が確認され、その出土した地層が、9万から8万年前に堆積した火山灰であることが日本考古学協会の調査で分かりました。18万年前にもシベリアと陸続きになり、シベリアの旧人がマンモスを追い石器を振り回しながら日本列島に達していたのです。
  思うに移動生活が基本の狩猟生活者・旧石器時代人は、高冷地でも比較的居住が可能な夏の一時だけ、当時、生活必需の工具原材料・黒曜石の採取を主に行っていたと考えられていましたが、旧石器時代の日本列島の人口は、推定で2万人程度(…こちらの研究では2、3千人。2万人は縄文早期の数字みたい。)です。2万人程度しか住めなかったこの時代に、高冷地で生きていく事が、どれほど困難であったのか推測されます。冬季の発掘・加工の生業は、雪深く不可能でしたが、43万年前の氷河期にも大陸と日本列島が地続きとなり中国北部系ナウマンゾウ・オオツノシカ動物群を追い中国の北部から移入した集団もあったようです。旧石器時代人は、想像以上に、居住内の暖の取り方、食料の保存に「雪に埋めておく」という方法など寒気に耐えられる生活工夫がなされていたかもしれません。
 氷期の更新世(約170万年前から約1万年前までの期間)の後期旧石器時代の日本列島は、寒暖が突然繰り返される非常に不安定な気候環境の時期もあり、まして高冷地であれば、八島湿原や霧ヶ峰周辺の植生帯から植物質食料の採集に相当困難を極めたとみられます。
 たとえば信州でも、豪雪地帯の飯山地方には、その雪を利用して保存するスノーキャロットがあります。秋に育ったニンジンを食さず、雪の下で約6ヶ月間越冬させて、雪解けを待って収穫すると独特の臭みがなく、ミネラル分の多い大変甘いニンジンになるのです。生産量も少なく、消費者にはあまり知られていない雪国飯山ならではの特産品となっています。諏訪地方でも、現在、地中深く掘り室とし、冬期間の大根・ジャガイモ・白菜・キャベツなど、甘味が増すとして保存しています。おそらくは当時日本列島南岸部に細長く分布していた暖温帯広葉樹林・常緑広葉樹林帯にある静岡県東部などから、交換流通を経て植物質食料を入手し保存していたかもしれません。また鹿・猪の捕獲も春・秋の寒冷期ほど草木に邪魔されず集団狩猟が容易になります。
 シベリア系のマンモス動物群と中国北東部系のナウマンゾウ・オオツノシカ動物群など大型種の多くは、本州島では2万年前頃に、北海道では1万6千年前頃までに絶滅したようです。環状集落も、大型獣狩猟の終焉と軌を一にします。以後の狩猟対象の主体は猪・鹿等の中型獣となります。野兎等の小型獣はくくり罠等の罠猟で狩猟します。
 旧石器時代の終わり頃、今から1万年前、氷河期の終末とよばれ、地球全体の温暖化が進み、日本列島の気候も変わりました。日本海が形成され日本列島はアジア大陸から離れ、多雪となり降水量の増大で植生に大きな変化が生じました。日本特有の生物が分化したりしました。
 しかし、1万年前に「氷河期」が終わったのではなく、現在を「氷期と氷期の間の間氷期」、言わば「後氷河期」と考える科学者も多いのです。 いずれにしろ、やっと約1万年前に晩氷期が終わり、気候が温暖化する間氷期が訪れました。ブナ・コナラなどの温帯広葉樹林が急速に拡大し、森の豊富な採集資源を主な生活基盤とした縄文文化が、日本列島に花開いていきます。
 地球の温暖期の最中の縄文前期(6千年~5千年前)には、生活圏が高原上にまで及び、狩猟時代の美ヶ原に、その生活の痕跡を遺しています。日本最大の黒曜石産地・和田峠へは三城から徒歩で3~4時間の距離で、縄文時代、美ヶ原の山麓の入山辺の大和合に黒曜石を運び入れ加工した遺構が発見されています。縄文中期(5千年~4千年前)までこの周辺山麓が繁栄し、糸魚川流域から日本海まで縄文文化が栄え、松本周辺はその中心であったとみられています。
 縄文後期(4千年~3千年前)には地球の冷涼化が進行し、逐次低地へ移住しました。しかし、弥生時代以降、水田稲作文化が松本平にも伝播しますが、美ヶ原台地の恵まれた自然の恩恵の受容は続き、狩猟・漁労や植物採集の生業の場であったことには変わりません。また、化学肥料のなかった時代は、「カリシキ」といって草や粗朶を田畑に入れて肥料としました。美ヶ原山麓の耕地からカリシキ材料を山地に求めて、多くの人々が往来した事でしょう。








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