Mesoamerica

アステカの神々

オメテオトル  イラマテクトリ  ウイシュトシワトル  ウィツィロポチトリ  ケツァルコアトル  コアトリクエ  コヨルシャウキ  シウコアトル  シウテクトリ  シペ・トテック  ショチケツァル  ショチピリ  ショロトル  シロネン  シンテオトル  チコメコアトル  チャルチウィトリクエ  ツィツィミメ  テクシステカトル  テスカトリポカ  トシ  トナティウ  トラマツィンカトル  トラロック  ナナワツィン  マクイルショチトル  ミクトランテクトリ  ミシュコアトル  ヤカテクトリ  おおぐま座イータ星  神 K  鷲の戦士  マカナ  花戦争

神々
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%AB%E7%A5%9E%E8%A9%B1
「神の一覧#アステカ神話の神々」も参照
アステカ神話の神々はさまざまな由来を持ち、その数は非常に多い。1971年に人類学者ヘンリー・ニコルソン (H. B. Nicholson) は129の神々をまとめて14の群に分類し、それぞれ代表的な神によって名づけた[24][25]。その分類によると、

天上の創造神、父なる神
オメテオトル群 - 原初の神。神々を創造した。オメテクトリとオメシワトル、あるいはトナカテクトリとトナカシワトルが含まれる。
テスカトリポカ群 - 万能の神で王の守護神。イツトリ、チャルチウトトリン、テクシステカトル、テペヨロトルなどがここに属する。
シウテクトリ群 - 健康と火の神。ウェウェテオトル、女神チャンティコおよびコヨルシャウキもここに属する。

雨、水蒸気、豊穣の神
トラロック群 - 雨と豊穣の神。
センテオトル群 - トウモロコシの神。ショチピリマクイルショチトルなどがここに属する。トウモロコシの神にはほかにチコメコアトルシロネンがある。
オメトチトリ(英語版)群 - プルケ、リュウゼツラン、豊穣の神。400匹のウサギ(センツォン・トトチティン)のひとり。マヤウェルもここに属する。
テテオ・インナン群 - 大地と豊穣、癒し、妊婦の女神。ショチケツァル、トラソルテオトル、シワコアトルコアトリクエツィツィミメなどの女神もここに属する。
シペ・トテック群 - 豊穣神、金細工職人の守護神。

戦争、犠牲、血、死の神
トナティウ群 - 太陽神。
ウィツィロポチトリ群 - 戦争、犠牲、太陽の神。メシカの守護神。
ミシュコアトル群 - 戦争、犠牲、狩猟の神。
ミクトランテクトリ群 - 死、地下世界、闇の神。
その他
ケツァルコアトル群 - 創造、豊穣、金星、風の神。神官の守護神。風神エエカトルはケツァルコアトルのひとつの姿とされる。
ヤカテクトリ群 - 商業神。商人(ポチテカ)の守護神。


トラロック:トラロック (Tlaloc) は、メソアメリカ文明の宗教で広く信仰された雨と雷(稲妻)の神。ナワルピリ (Nuhualpilli) とも呼ばれる。トラロックは山の中の洞窟に住むと考えられ、大地に含まれる水とも関係が深いと考える見方もある。
トラロックが干魃と雨を司っていると信じたアステカ人が、子どもを生け贄として捧げていたことから、アステカ文明で信仰されていた雨の神として有名である。
その起源は先古典期終末期、紀元前1世紀のトラパコヤ遺跡(メキシコ州のエルエレファンテの丘にあるイストパルカの自治体にある考古学地帯……)出土の土器にヘビのような稲妻を伴った姿で描かれているのが最古とされるが、さらに古くオルメカ時代までさかのぼる可能性を主張する研究者もいる。テオティワカンで主神、雨神としての信仰は隆盛をきわめた。
テオティワカンにおいてトラロックは、他の神々と混同されてきたが、大きな目玉と上唇、大きな歯を特徴としていることのほかに、最近の研究によって口の中にジャガーの犬歯と睡蓮を表す文様を伴うトラロックAと、大きさがほぼ同じ円錐形の歯をもちサポテカの雨神コシーホに似た二又に分かれた舌を持つトラロックBと呼ばれる姿に描かれていることが解明されてきた。
テオティワカンの衰退とともにその信仰は一時弱体化した。一方で、テオティワカン人と交易をしていたマヤ文明でも引き継がれた雨の神はチャックと呼ばれる。チャックの長い鼻に対し、トラロックは大きな両眼と牙が特徴的である。
トラロックは花の女神であるショチケツァルと結婚したが、テスカトリポカが女神を連れ去ったため、マトラルクエイェと再婚。ウィシュトシワトル (Huixtocihuatl)と呼ばれる姉がいる。 トラロックは「トラリ」 (Tlalli) から派生したとされる。Tlalliは「大地」、ocは「彼は座る」の意であることから、文字通りに訳せば「大地に座るもの」という意味である。トラロックは天からの恵まれた水の神であり、川のような「すでに大地に存在する水」の神は別に存在する(チャルチウィトリクエ

ショチケツァル:アステカ神話の女神。
文字通りには「花(xochitl)のケツァール(quetzalli)」を意味し、若い娘の性的な力、花、喜びなどの女神であるが、また機織りなど工芸の守護神でもあり、妊娠と出産を司る[1]。
ショチケツァルはショチピリおよびマクイルショチトル(「5の花」)と対応する女神である[2]。
図像上は通常華やかな盛装をして黄金の飾りをつけている[1]。
ショチケツァルはアステカ暦の1の鷲のトレセーナを司る[3]。またシウポワリのウェイパチトリ(テペウィトル、第13月)に金属細工師、彫刻家、画家、機織り職人、羽毛職人、刺繍職人らによって祭られる。このときにショチケツァルに扮した女性が生贄にされ、皮をはがれる。
トシカトル(第5月)の祭では、ウィツィロポチトリ(←テスカトリポカでは?)に扮した人物が犠牲にされるが、その4人の妻のひとりがショチケツァルに扮する[1]。
ショチケツァルの司るトレセーナに生まれた女子は、行儀よく育てばショチケツァルの力を得て優れた機織りの能力を得るが、そうでなければ不品行になるとされる[4]。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%81%E3%82%B1%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB

ショチピリ:ナワトル語で「花(xochitl)の貴公子(pilli)」を意味し、放縦の神々のひとりであるマクイルショチトル(「5の花」)と近い関係にある[1]。
ベルナルディーノ・デ・サアグンによればショチピリは精進期間を守らずに性交を行った者に痔、性病、でき物などの病気を罰としてもたらすとされるが、その一方で花、踊り、宴会、絵画、ゲームなどの守護神でもある。豊穣神としての性格もあり、若いトウモロコシの神であるシンテオトルと近い関係にある[1]。
15世紀末から16世紀はじめのものと推定されるショチピリの石像が残っている。この像はメソアメリカのものには珍しく、本来の石の形を残さずに写実的に作られている[2]。この像の四肢はさまざまな花に飾られているが、これらはいずれも幻覚性植物であるオロリウキ、タバコ、シニクイチ (Heimia salicifolia) 、マジックマッシュルーム (Psilocybe aztecorum) などと解釈されている[3]。
アステカ暦ではリュウゼツランの女神であるマヤウェルとともに1の草のトレセーナを司る[4]。またシウポワリのテクイルウィトントリ(第7月、グレゴリオ暦の6月ごろ)にショチピリの祭があり、そこでショチピリに扮した人物が生贄にされる[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%81%E3%83%94%E3%83%AA

マクイルショチトル:「マクイルショチトル」とはアステカ暦の260日周期の暦であるトナルポワリの日付にもとづく名前で、ナワトル語で「5(m?cu?lli)の花(x?chitl)」を意味する[1]。
トナルポワリのうち5ではじまる日付は20種類あるが、そのうち南の方角に配当されるマクイルクェツパリン(5のトカゲ)、マクイルコスカクァウトリ(5のコンドル)、マクイルトチトリ(5のウサギ)、マクイルショチトル(5の花)、マクイルマリナリ(5の草)の5つの日付はアウィアテテオと呼ばれる神々とされる。アウィアテテオは飲酒・ギャンブル・セックスなどをやりすぎた人物に病気をもたらす。バチカン絵文書Bとボルジア絵文書では、アウィアテテオはテスカトリポカの特徴を示し、また、西に配当されたやはり5つの日付からなるシワテテオたちを配偶とする。図像上これらの神々は口の周りに指を伸ばした手の印(5を意味する)が描かれているところに特徴がある[2]。
マクイルショチトルは宮廷人の守護神であり、またゲームと賭博、とくにパトリの神である[1]。ディエゴ・ドゥランによると、パトリの競技者はサイコロを振るときに大声でマクイルショチトルか、あるいはプルケ(酒)の神であるオメトチトリ(2のウサギ)の名を叫んだ[3]。
マクイルショチトルはショチピリと近い関係にあり、しばしば同一視される[1]。ショチピリおよびマクイルショチトルに対応する女神にはショチケツァルがある[4]。
アステカ暦において、マクイルショチトルはアステカ暦の1の花のトレセーナを司る[5]。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%81%E3%83%88%E3%83%AB

コアトリクエ:アステカ神話における地母神。その名は「蛇の淑女」、あるいは「蛇(c??tl)のスカート(?cu? ( cu?itl)をはく者」を意味する。
コアトリクエは、「全ての天の者を生む地球の大母神」、 「炎と肥沃の女神」、「生と死、および再生の女神」、 あるいは「南の星の生みの親」などの肩書きを持つとされる。
コアトリクエのスカートはとぐろを巻いた蛇で出来ており、人間の心臓と手首をつなぎ頭蓋骨をつった首飾りをしている。 そして手足に鉤爪がある。 そしてその食べ物は、人間を含むあらゆる生き物の生肉である。 コアトリクエは、同時に子宮でも墓場でもあるような、「子供を飲み込む母親」を体現している。
ウィツィロポチトリとコヨルシャウキを産み出した神としても知られている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%A8



コヨルシャウキ
アステカ神話に登場する女神。ウィツィロポチトリの姉にあたり、ウィツィロポチトリに殺されて肢体をバラバラにされた。
ウィツィロポチトリの誕生伝説
コヨルシャウキのもっとも有名な話はウィツィロポチトリの誕生に関する伝説である。女神コアトリクエがコアテペク(蛇の山)の上で掃除をしているときに空から羽根が落ちてきた。それを腰につけていたところ、掃除の後に羽根は消えていた。その後コアトリクエは妊娠した。コアトリクエの娘であるコヨルシャウキとその400人の弟は母が謎の妊娠をしたことを聞いて不品行であるとし、怒って殺そうとした。そのとき胎内の子はコアトリクエに向けて心配しないようにと言った。コヨルシャウキらがやってきたとき、コアトリクエの胎内からウィツィロポチトリが武装した姿で生まれ、シウコアトル(火の蛇)を武器として戦った。シウコアトルはコヨルシャウキの体を貫通した。コヨルシャウキは首をはねられ、手足をばらばらにされて、コアテペクの下までころがり落ちた[1][2][3]。
1978年、テンプロ・マヨールのウィツィロポチトリ神殿の基部から、五体をバラバラにされたコヨルシャウキを描いた、直径3.25メートルの巨大な円板状の石板が発見された。コヨルシャウキは帯以外は裸で、頬にコヨリ(coyolli)という金属の鈴をつけている(これがコヨルシャウキの名前の由来にもなっている)。耳からは年を表す記号の形をした金属製の飾りを下げ、帯の背中部分にはコアトリクエと同様に頭蓋骨をつけている。図像学的にはかまど神のチャンティコに通じる[1][4]。
テンプロ・マヨールからは、少なくとも3つのコヨルシャウキを描いた遺物が発見されている。上記の石板のすぐ下には漆喰で作られたコヨルシャウキのフリーズが置かれていた。こちらのコヨルシャウキは裸ではないが、シウコアトルがコヨルシャウキの心臓を貫通している様子が描かれている。さらに別な円板の破片が発見されている[1]。
テンプロ・マヨールでウィツィロポチトリに犠牲をささげるときには、伝説を再現するように、生贄の首をはね、手足をバラバラにして、階段の上からコヨルシャウキの石板めがけて落とした[5]。テンプロ・マヨール自身、しばしばコアテペクの名で呼ばれていた[6]。

別の伝説
コヨルシャウキはアストランからメキシコ盆地へのメシカの移住の伝説にも登場する。ここではコヨルシャウキはウィツィロポチトリの姉でなく母とされる。メシカは旅の途中コアテペクという所に到着したが、そこはカエル・魚・水鳥にあふれた理想郷であった。ウィツィロポチトリはそこが目的地ではないとして出発させようとしたが、コヨルシャウキと400人の弟は反対した。その夜、球戯場で騒ぎの音がした。翌朝見ると、ウィツィロポチトリはコヨルシャウキの首をはね、その心臓を食っていた。それからウィツィロポチトリはコアテペクの水を断ち、メシカを無理矢理出発させた[4]。

天体との関係
エドゥアルト・ゼーラーはコヨルシャウキを月の女神としたが、文献上の根拠がない[7]。また銀河の女神と言われることもある[1]。いずれにせよ天体との関係は明らかではない[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%A8%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%A6%E3%82%AD

トナティウ:トナティウ(Tonatiuh)は、アステカ神話における太陽神。その名前は「光り輝く者」「暖める者」を意味する[1]
トナティウはこの世に5番目に誕生した太陽とされている。
図像にみられるトナティウは、体は赤く塗られ、髪は金色であったり鷲の羽根飾りで彩られたりし、太陽を象徴する輝く円盤を備えている[2]。また、トルテカでのトナティウは、明けの明星とみなされる神ケツァルコアトルとしばしば一緒に描かれている[2
トナティウは好戦的な戦神の側面も併せ持ち[1][2]、当時のアステカの民は、捕虜をしばしばこの神への生け贄として捧げていた。
16世紀前半にスペインから来てアステカの人々を虐殺するなどした征服者・アルバラードを、アステカの人々は、戦争を好む神であるトナティウの名で呼んだという
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A6


ウィツィロポチトリ
アステカ神話の太陽神・軍神・狩猟神である。
その名は「蜂鳥(huitzilin)の左(opochtli)」を意味する。女神コアトリクエの息子であり、月神コヨルシャウキの弟である。コアトリクエは、コアテペック山で羽毛の珠を拾ったことにより受胎。それを知ったコアトリクエの子たちは、母の懐妊に面目を潰されたと感じ、コアトリクエを殺害しようとした。しかしコアテペック山で、完全武装したウィツィロポチトリが誕生し、「トルコ石の蛇」を使ってコヨルシャウキを八つ裂きにし、兄弟の大半を滅ぼした。ウィツィロポチトリの兄弟殺しは、アステカの版図の拡大を象徴しているという。
メソアメリカの神話では太陽はしばしば戦士であり、人間の生贄を求めるものであった。そして、蜂鳥は天界の太陽の家(トナティウ・イチャン)で転生した戦士だと言われていた[1]。戦士であり太陽であるとされたウィツィロポチトリには、生贄として人間の心臓が捧げ続けられていた。
蜂鳥をかたどった頭飾りをつけ、左足に蜂鳥の羽飾りをつけ、五つの房の着いた盾と槍を持った戦士の姿で表される。ウィツィロポチトリは図像表現において、同様に戦士の神であるテスカトリポカと関連付けられている。これら2神は共に、煙を吐く鏡、赤い皮ひもで結ばれた白い輪状の胸飾り、蛇または鏡に置き換えられた片足、トルコ石の投槍器(シウアトラトル)、シウコアトルの仮面(シウコアナワリ)[2][3][4]などの特徴を備えて描かれることがある[5]。『マリアベッキアーノ絵文書』ではウィツィロポチトリはテスカトリポカの友と呼ばれている[6]。
アステカの部族神として、最も篤く信仰された。テノチティトラン(現在のメキシコシティ)がアステカの首都となったのもウィツィロポチトリの神託によるものであり、メキシコの国旗、国章にも描かれている。アステカの大神殿テンプロ・マヨールはトラロックとウィツィロポチトリを祀った双子神殿である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%81%E3%83%88%E3%83%AA



ジャガーの戦士:ジャガーの戦士(ジャガーのせんし、ナワトル語ではオセロメー)はアステカのエリート貴族戦士の戦士団の1つ。ジャガーの姿をした神であるテスカトリポカの戦士である。
しばしば「豹の戦士」と呼ばれるが、豹はジャガーと別種であり南北アメリカ大陸には生息していない。メソアメリカでは、ジャガーが最も獰猛な肉食動物だったことから戦士のトーテムにされたと思われる。
戦士は綿を詰めたジャガーの頭の毛皮を被り、ジャガーを示す服をまとって、羽毛製の旗印を付けて戦場に赴いた。戦闘ではマカナと呼ばれる、豊富に産出される黒曜石の刃を挟んだ木剣を使った。アステカでは金銀やトゥンバガ(金と銀・銅あるいは錫の合金)といった貴金属類を除いて金属の精錬技術を持っていなかったために木が用いられた。その他、生贄の確保を目的とした戦いでは、何も付いていない木でできた棍棒が用いられた。
マヤ遺跡ベカンでも、埋納遺構69-2という遺構から、テオティワカン独特の円筒型三足土器のなかに納められた、空洞な土偶の中にジャガーの戦士と思われる土偶が発見されている。そのため、紀元5世紀のテオティワカンにおいて、既にジャガーの戦士の先駆となる戦士団があったと考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%A3%AB

チャルチウィトリクエ:チャルチウィトリクエまたはチャルチウトリクエ(Chalchiuhtlicue、Chalchihuitlicue)は、アステカ神話に登場する水の女神。 その名前は「翡翠(ch?lchihuitl)のスカート(?cu? cu?itl)」を意味している。
神話によってトラロックの妻、姉、または母とされる。また他の水の神と同様、ケツァルコアトルとともに出現することが多い。トラロックと同様に山の中に住み、時に応じて水をもたらすが、それは人間によい影響をもたらすことも悪い影響をもたらすこともある[1]。トラロックとの間に月神テクシステカトルを生んだとも伝える[2]。 ナワ族の5つの太陽の伝説において、彼女は現在の前の時代(第4の太陽、4の水)において大洪水を起こして世界を滅ぼしたという[3]。また、1500年ごろにアウィツォトルはコヨアカンからテノチティトランに水道を引いたが、コヨアカンの首長をアウィツォトルが殺したためにその守護神のチャルチウィトリクエが怒り、水道は洪水事故を起こしたとも伝えられる[4]。 メシカでは 乾季に水を求めるため、6-8歳の男子をトラロックのために生贄にし、同時に女子をテスココ湖中のパンティトランでチャルチウィトリクエのために生贄にした[1]。 暦の上ではヘビの日の守護神であり、またトレセーナの1の葦の守護神でもある[2][3]。 チャルチウィトリクエは新生児の守護女神でもあり、また病気などから赤ん坊を守るとされた。産婆が新生児を水で清める時にチャルチウィトリクエの名を呼んでその加護を求めた[1][2][3]。 絵文書では、通常チャルチウィトリクエは翡翠で飾られたスカートをはき、また頬に1-2本の縦に描かれた短い黒線が描かれる[3]。ヘビの頭のかぶと、翡翠の首飾り、胸に鏡または円板などを着用していることもある[2]。また、チャルチウィトリクエから流れる水に男女の子供が描かれていることがあり、ここでは明らかに出産の神として扱われている[3]。チャルチウウェウェの名では婚礼を司り、エルサルバドルのピピル人の間でも信仰される[2]。 チャルチウィトリクエは古典期のテオティワカンのフレスコ画に見られる女神に由来するかもしれないが、しばしばトウモロコシの女神であるシロネンないしチコメコアトルとの混同が起きている[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%81%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%A8

テクシステカトル:テクシステカトル(Tecuciztecatl[1][2]、Tecciztecatl[3])は、アステカ神話の月の神。
「テクシステカトル」とはナワトル語で「ホラガイ(tecciztli)の人(-tecatl[4])」を意味する。
単にメツトリ(Metztli、「月」)とも呼ばれる。図像的にはサギの羽根の頭飾りとホラガイをつけており、このことは月と水棲動物の間に関係があると考えられていたことを表している[2]。
テクシステカトルは現在の太陽である第5の太陽の創造説話に登場する。『フィレンツェ絵文書』によると、まだ光のない時にテオティワカンに神々が集まり、テクシステカトルとナナワツィンの2神を生贄にして太陽を創造しようとした。テクシステカトルは裕福で高慢な神で、黄金・宝石・羽毛で祭祀を行った。ナナワツィンは貧しく慎しい神で、紙と草で祭祀を行った。祭祀が終わるとそれらを地面に積みあげ、それが太陽のピラミッドと月のピラミッドになった。それから神々はまずテクシステカトルを火の中に飛びこませようとしたが、テクシステカトルはためらった。ナナワツィンが先に火に飛びこみ、それを見て自らを恥じたテクシステカトルもまた火に飛びこんだ。ナナワツィンは火の中から黒い鷲として現れたが、テクシステカトルの飛びこんだときには火の勢いが落ちていたために黒い斑のあるジャガーになった。それからナナワツィンとテクシステカトルは太陽となって東方に出現したが、太陽が2つあると明るすぎるため、神々はテクシステカトルの方にウサギをぶつけてその光を減らし、月とした。しかし太陽は動かなかった。ほかの神々が生贄になり、ケツァルコアトルの導きによって太陽は動きだし、月もそれにつき従って動くようになった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AB

ナナワツィン:ナナワツィン(Nanahuatzin)またはナナワトル(Nanahuatl)は、アステカ神話の神。太陽の創造説話と食料起源説話に登場する。
太陽の創造 アステカ神話では、世界は創造と破壊を繰り返し、そのたびに新しい太陽が創造された。第5の太陽、すなわち現在の太陽である「4の動き」(ナウィ・オリン)の創造にナナワツィンが登場する。 ベルナルディーノ・デ・サアグンによると、世界がまだ闇のなかにあった時、テオティワカンに神々が集まって、太陽を創造するためにふたりの神を生贄にすることになった。ひとりは裕福だが高慢なテクシステカトルであり、もうひとりはみすぼらしいナナワツィンだった。ふたりはまず4日間にわたって儀式を行ったが、テクシステカトルは儀式にケツァールの羽根や宝石や黄金を使ったのに対し、ナナワツィンは草や彼自身の血を使った。炎の中に身を投じる段になって、テクシステカトルは4回にわたってためらったが、ナナワツィンは勇敢に炎に飛びこみ、太陽に変身して東の空に出現した。自分の臆病さを恥じたテクシステカトルもその後に飛びこんで第2の太陽に変身したが、神々はウサギを投げつけてその光を暗くし、月にした[1][2][3]。
なお鷲とジャガーも太陽と月の創造に関連するが、火のなかに飛びこんだナナワツィンとテクシステカトルがまず鷲とジャガーに変身したとも[1]、ナナワツィンとテクシステカトルの後から鷲とジャガーが飛びこんだとも[4]解釈されている。鷲が太陽を追って火の中から出現したため、太陽は昇り鷲としても知られる[5]。
太陽と月は東の空にあって動こうとしなかったため、神々は自らを生贄として捧げ、エエカトル(風神としてのケツァルコアトルの名前)が風を吹くことで太陽は動きだし、月もそれについて動きだした

ナナワトル(ナナワツィン)という名前の神は、食料起源説話にも登場する[6]。
『チマルポポカ文書』によると、ケツァルコアトルは山の地中に食料が蓄えられているのを発見した。ケツァルコアトルは黒アリに変身して山の地中にはいり、トウモロコシの実を取りだしてタモアンチャンに運んだ。オショモコとシパクトナル(現在の世界の最初の人間の男女)はこのトウモロコシを使って占いをし、ナナワトルが山を開くことができるという答を得た。ナナワトルは山を叩いて開き、トラロックたちがそこから中にはいってすべての食料を運びだした[7]。
現在のプエブラ州ヤオナワク (Yaonahuac) とウィツィラン (Huitzilan) のナワ族の伝承によると、ナナワトルは稲妻で、その頭をぶつけて山を破壊したとされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3

シペ・トテック:シペ・トテック(Xipe Totec)はアステカ神話における穀物の神である。 「皮を剥かれた我らが主」の意。シペ・トテクとも。
死と再生の神の一柱であって、農業、西方、疾病、春、金細工職人、季節の神である。この男神は、自らの皮をはいで人々に食料を与える。トウモロコシが発芽するときに種子の外層を失うことを象徴している。皮を失った状態で、この神は金色の神として描かれた。 毎年、アステカ暦の二月、春分の頃の祭で複数の人々が生贄として選ばれた。これらの人々は人身御供を得るための戦争で捕虜になった人々である。生贄が生きたまま、その皮膚はほとんど全身にわたって慎重に剥かれ、彼らが死んだ後引き続いて行われる豊作を祈る儀式のなかで司祭がその皮膚を着た。いくつかの報告によると、生け贄の遺した大腿部の骨は肉を奇麗にはがされ、儀式の中で司祭がその骨を持ち、参列者に触るのに用いたという。皮膚を剥離する方法や剥離した皮膚を着た司祭の姿が描かれた絵画や土偶が見つかっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%9A%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%AF

テスカトリポカ:アステカ神話における主要な神の一つである。大熊座(参考・イータ星)(…北斗七星…)の神であり、夜空の神であり、アステカ民族の神殿に祀られた。
概要
神々の中で最も大きな力を持つとされ、キリスト教の宣教師たちによって悪魔とされた。Tezcatlipoca は、ナワトル語で tezcatl (鏡)、poca (煙る)という言葉から成り、従ってその名は「煙を吐く鏡」を意味する。鏡とは、メソアメリカ一帯で儀式に使用された黒曜石の鏡のことを示す。
その神性は、夜の空、夜の風、北の方角、大地、黒耀石、敵意、不和、支配、予言、誘惑、魔術、美、戦争や争いといった幅広い概念と関連付けられている。この神の持つ多くの別名は神性の異なる側面を示している。Moyocoyani (モヨコヤニ、全能者)、Titlacauan (ティトラカワン、我らは彼の奴隷)、Ipalnemoani (イパルネモアニ、我らを生かしている者)、Necoc Yaotl (ネコク・ヤオトル、両方の敵)、Tloque Nahuaque (トロケ・ナワケ、近くにいる者傍らにいる者の王)[1]、 Yohualli Ehecatl (ヨワリ・エエカトル、夜の風)[2]、Ome acatl (オメ・アカトル、2の葦)[3]、Ilhuicahua Tlalticpaque (イルウィカワ・トラルティクパケ、天と地の所有者)[4]などである。
赤、青、白、黒の4兄弟神があり、それぞれテスカトリポカと呼ばれるが、黒神が特にこの名で呼ばれている。眼には見えず、夜、猫の姿をかりて徘徊する。また火の発明者、太陽神、強酒の発見者などともいわれ、人間のいけにえを求めたともいわれる。
通常テスカトリポカは、身体は黒く、顔に黒と黄色の縞模様を塗った姿として描かれ、しばしば右足が黒耀石の鏡か蛇に置き換わった姿で表現される。これはアステカの創世神話において大地の怪物と戦い、右足を失ったことを表している。時として胸の上に鏡が置かれ、鏡から煙が生じている様子で描かれる場合もある。
テスカトリポカのナワルはジャガーであり[5]、神性のジャガー的な側面が Tepeyollotl (テペヨロトル、山の心臓)という神とされる[6][7]。
アステカの祭祀暦であるトナルポワリ暦(…アステカ暦の260日周期…)でテスカトリポカはトレセーナ「1のオセロトル(ジャガー)」を司り、またアカトル(葦)の日の支配者である[8] [9]。
テスカトリポカの姿はオルメカ人やマヤ人に信仰された初期のメソアメリカの神々を思い起こさせる。いくつかの類似点が、マヤ神話の『ポポル・ヴフ』に書かれたキチェ族の神に存在する。ポポル・ヴフの中心的な神は、トヒル[10] という黒耀石を意味する名であり、生贄を要求する神であった。また、古典期マヤの統治と雷の神である「神K」は、煙を出す黒耀石のナイフを額につけ、片足が蛇に置き換わった姿で描かれている[11]。

ケツァルコアトルとテスカトリポカ
テスカトリポカはしばしば、アステカの文化英雄である神ケツァルコアトルのライバルとされる。創世神話の一つ「5つの太陽」において[12]、
・ 最初の世界はテスカトリポカが太陽として支配していたが、52年周期が13回経過した(676年)後、ケツァルコアトルによってテスカトリポカは大きな棒で殴られ水の中に放り込まれ、太陽の座を交代した。そこで彼はジャガーに変身して水から飛び出し、世界に住んでいた巨人を皆殺しにしてしまった。
・ 2番目の世界はケツァルコアトルが太陽として支配したが、52年周期が13回経過した(676年)後、ジャガーに変身したテスカトリポカが現れケツァルコアトルを蹴り、太陽の座から追い落とした。この世界に住んでいた者たちを強い風が運び去り、一部の残った者も猿に変身させられた。
・ 3番目の世界はトラロックが太陽として支配したが、52年周期が7回経過した(364年)後、ケツァルコアトルが天から火の雨を降らせ、トラロックを太陽の座から引き摺り下ろした。
・ 4番目の世界チャルチウィトリクエが太陽として支配したが、大洪水によりこの世界に住む者は流され魚に姿を変えられた。今の世界は第5の世界に当たる。

別の創世神話においては、テスカトリポカ、ケツァルコアトル、ウィツィロポチトリシペ・トテックの4人の神が世界を創世したとされた。彼らはそれぞれ黒、白、青、赤のテスカトリポカと言われた。4人のテスカトリポカは、男女の二元性を表す始原神オメテクトリとオメシワトルの息子であり、世界と人と同様に、他の全ての神の創造者である[13]。
ケツァルコアトルとテスカトリポカの対立関係は、テスカトリポカがケツァルコアトルを騙し、トゥーラの支配者の地位から追いやったトピルツィン・ケツァルコアトルの伝説においても語られている。しかし、興味深いことはケツァルコアトルとテスカトリポカは共同で異なるものを創造し、両者とも生命の創造に関与したと見られることである。メソアメリカ地域宗教の専門家カール・タウベとメアリ・ミラーは、「何よりもテスカトリポカは衝突を通じての変化を具現化した存在である」と説明している[8]。
テスカトリポカはボルジア絵文書』(en)の最初のページにトナルポワリ暦における20日の象徴を身につけた姿で表されている。コスピ絵文書では闇の精霊とされ、ラウド絵文書でも同様である[14]。テスカトリポカ信仰は王権と関連付けられる。王の儀式において最も長く最も敬虔な祈りの対象であり、即位の演説の際にしばしば言及されたほどである。テスカトリポカの神殿はテノチティトランの祭祀区域のなかにあったとされる。

テスカトリポカの祭祀
テスカトリポカの祭祀は、アステカ太陽暦の5番目の月である Toxcatl (トシュカトル、乾燥)の期間に行われた。祭りの準備は1年前から行われ、神官によってテスカトリポカによく似た若い男性が選ばれた。祭りまでの一年間、男性は宝石を身につけ8人の従者をつけられ、神のような生活を送った。最後の1週間に歌い踊り大いに食べ、4人の若い女性と結婚した[15]。祭り当日、男性は神本人の如く崇められ、自ら神殿の階段を昇り、神官はその胸を切り裂き心臓を取り出し太陽への生贄とした。生贄の死の直後、翌年の祭りのために新しい犠牲者が選ばれた。9番目の月の祭りである Miccailhuitontli (ミッカイルウィトントリ、死の小祝宴) 、15番目の月の祭りである Panquetzaliztli (パンケツァリストリ、旗の掲揚)においても祭られた[16]。
大英博物館に、テスカトリポカを表したと考えられる人間の頭蓋骨を基材にした黒曜石と翡翠のモザイクのマスクが所蔵されている。マスクは1400年から1521年の間に製作されたと見られる。メキシコで発見され、1860年代にヘンリー・クリスティによって大英博物館に寄付された。モザイクのはめ石はターコイズと亜炭で作られ、その目は貝のリングと黄鉄鉱でできている。それらは30歳代と見られる人間の頭蓋骨の上に直接配置された。歯は頭蓋骨そのままのものだが、上前歯4本が無くなっている。頭蓋骨の後ろの部分は切断され、革が張られていた。頭蓋骨と顎の部分は革でつながれており、動かすことができる。大きさは高さ19.5センチメートル、幅12.5センチメートルである。おそらく着用者の腰の部分につけられたと思われる。マスクの発見場所は知られていないが、高位の神官か皇帝自身が使用したと考えられている。

神話におけるテスカトリポカ
アステカ創造神話の一つに、テスカトリポカとケツァルコアトルが力をあわせて世界を創造したという伝説がある。創世が行われる前には、2神の前には海しかなく、Cipactli (シパクトリ、ワニの女神)と呼ばれる大地の怪物がいた。怪物をひきつけるためにテスカトリポカは自らの足を餌にし、怪物はその足を食らった。2神は怪物を捕らえ、その身体から大地を作った。その後、人間が創造され、人々はシパクトリの苦痛を慰めるため生贄を捧げることになった。この伝説によって、テスカトリポカは片足がない姿で表される。
一方で他の創世神話において、テスカトリポカが太陽として世界を支配することになったが、ケツァルコアトルは宇宙を敵に支配されることに我慢ができず、テスカトリポカを打ちのめし空から追いやった。怒ったテスカトリポカはジャガーに姿を変え、世界を滅ぼした。ケツァルコアトルは太陽の座をテスカトリポカと替わり、世界の2番目の時代を開始する。 テスカトリポカはケツァルコアトルを打ち倒し、テスカトリポカの送った強風は世界を荒廃させ、生き残った人間は猿に変身させられた。雨の神トラロックが3番目の時代の世界の太陽となったが、ケツァルコアトルが世界を再び滅ぼす火を送り、生き残った人間は鳥に変身させられた。4番目の時代の世界は水の女神チャルチウィトリクエが太陽となったが、大洪水に破壊され、生き残った人間は魚に姿を変えられた[17]。

ヨナルデパズトーリ
ヨナルデパズトーリ(Youaltepuztli)は、テスカトリポカの化身の一つであるとされる。1928年に出版されたカトリック神父でありオカルト研究家モンタギュー・サマーズの吸血鬼を扱った著書[18]によると、その名は「夜の斧」という意味であり、皆が寝静まった夜中に木の根元に斧を振り下ろすような音が聞こえ、騒音の原因を調べようとした者の前に、首の無い朽ち果てた死体の姿として現れるとされる。
木を切る音の正体は死体の胸にある小さな二つのドアが開け閉めされる音であり、勇敢な者は死体の胸の穴に手をいれ黒い心臓をつかみ、脅すことでこの魔物を退散させる。しかし、ほとんどの者は恐ろしい亡霊を見た恐怖で命を落す。
この本の中で、テスカトリポカは地獄の王でメキシコ人の魂を集め、その姿は蛇の尻尾を持った小さな悪魔であると紹介されている。
Yaotzin(敵)として知られ、千の恐ろしい化身をもち、手にした魔術の楽器で不吉な音を出すとされる。そして、しばしばジャガーの雄たけびや不吉な鳥の鳴き声をあげ、聞いたものを死に至らしめる。その化身の一つとして、ヨナルデパズトーリがあげられている。
本来のナワトル語では、yohualli (夜)、tepoztli (斧)であり、yohualtepoztli (ヨワルテポストリ)が正しい表記であるが[19]、日本語文献ではヨナルデパズトーリと読み、そのスペルは Youaltepuztli と書くのが一般的である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%9D%E3%82%AB

オメテオトルの4柱の息子たち
赤のテスカトリポカことシペ・トテク、
黒のテスカトリポカ、
白のテスカトリポカことケツァルコアトル、
青のテスカトリポカことウィツィロポチトリ

これはアルフォンソ・カソが提唱した解釈「オメテクトリとオメシワトルにはシペやカマシュトリとも呼ばれる赤のテスカトリポカ、黒のテスカトリポカ、ケツァルコアトル、ウィツィロポチトリこと青のテスカトリポカの4柱の息子達がいた」に由来する説です。カソは出典を明言していませんが、基になったのは植民地期初期の文献『絵によるメキシコ人の歴史』でしょう。この文献によれば、正確には「トナカテクトリとトナカシワトルの4柱の息子たちは赤のテスカトリポカ(トラトラウキ・テスカトリポカ)ことカマシュトリ(ミシュコアトルとも)、黒のテスカトリポカ(ヤヤウキ・テスカトリポカ)、ケツァルコアトル、ウィツィロポチトリ」です。テスカトリポカは赤と黒のみで白や青は登場せず、また「白のテスカトリポカ=ケツァルコアトル、青のテスカトリポカ・ウィツィロポチトリ」でもありません。テスカトリポカは4色いると言われるのにトラトラウキ・テスカトリポカとヤヤウキ・テスカトリポカしかナワトル語名が書かれずイスタク・テスカトリポカとかショショウキ・テスカトリポカとかは滅多に見かけないのはそのためです。ネットの記事ではまれに白と青のナワトル語名が書かれていることもありますが、それは「赤と黒しかないのはおかしい」と考えた人が書き足したものでしょう。『絵によるメキシコ人の歴史』には白と青には言及がありません。

 なお、カソは「白のテスカトリポカ=ケツァルコアトル」とは言っていません。彼の著書『アステカ人の宗教』には「4柱の神々、原初神夫婦の息子達は赤のテスカトリポカことシペとカマシュトリ、一般にテスカトリポカと呼ばれる黒のテスカトリポカ、生命と風の神ケツァルコアトル、青のテスカトリポカことウィツィロポチトリであった」「ケツァルコアトルは、原始的な神話では白のテスカトリポカの領域であったかもしれない持ち場を占めていた」と書かれています。それなのに、話が広まっていくうちに内容が変化し、「ケツァルコアトル=白のテスカトリポカ」ということにされてしまったようです。カソの『アステカ人の宗教』を参考に書かれたジョージ・C.ヴェイラント『メキシコのアステカ人』では「ケツァルコアトルは時として白のテスカトリポカとして描かれる」とされました。この本は広く読まれたため、多くの人に影響を与えたのでしょう。

 それにしても、何故カソはケツァルコアトルは白のテスカトリポカではないと考えたのでしょうか? 
それはきっと、ケツァルコアトルのフェイスペイントが黄色と白の横縞ではなく、頭に煙を吐く鏡をつけて描かれることもないからです。黄色の横縞フェイスペイントと煙を吐く鏡はいずれもテスカトリポカの特徴で、シペ・トテクは黄色と赤、ウィツィロポチトリは黄色と青の横縞フェイスペイントで表されることがあり、また頭に煙を吐く鏡をつけていることもあります。カソの著書『太陽の民』には「夜の神として、テスカトリポカもまた黒く塗られたが、彼の顔は黄色と黒の横棒で縞模様にされていた。この装飾はイシュトラン・トラトラアンの名で知られ、全てのテスカトリポカを特徴付けていたが、シペではその色は赤と黄色に変わり、ウィツィロポチトリでは青と黄色だった」という記述があります。しかし、このイシュトラン・トラトラアンと呼ばれる横縞模様はオトミ人の火と死せる戦士の神オトンテクトリの顔にも描かれていますが(オトンテクトリのは白と黒)、彼は兄弟には含まれないし、テスカトリポカと同一視されている訳でもありません。カソはこの件については無視しています。

 また、カソがケツァルコアトルは白のテスカトリポカに置き換わったのであり、白のテスカトリポカそのものではないとした理由としてもう1つ考えられるのは、彼が善神ケツァルコアトルと悪神テスカトリポカの対立を重視していたことです。
『アステカ人の宗教』には「繰り返される人類の出現は2柱の神々が交互に創造者の地位で行動したためだった。ケツァルコアトルは恵み深い神、農業と産業を始めた英雄で、黒のテスカトリポカは全能の神、多くの姿を持ち至るところに存在し、夜の神で、邪悪な者と魔法使いの守護者だった。ケツァルコアトルとテスカトリポカは互いに争い、交互に起こる勝利は代わる代わる興隆する創造をもたらし、そして彼らの闘争の物語は宇宙の歴史であった」とあります。
赤のテスカトリポカやウィツィロポチトリ(カソによれば青のテスカトリポカ)は過去に存在した太陽には関与していないこともあって、ケツァルコアトルとテスカトリポカの闘争に注目し、そこに善悪の対立をも見たのでしょう。
ただし、カソは『アステカ人の宗教』で、トラロックの第3の太陽をケツァルコアトルが火の雨で滅ぼしたことを述べた後、第4の太陽について「ケツァルコアトルはトラロックの姉チャルチウトリクエ(翡翠色のスカートの女)を太陽となるよう選んだ。地上を水浸しにするために洪水のような雨を引き起こしたのは恐らくテスカトリポカだった」と書いていますが、実際の史料には雨の原因は明言されていません。テスカトリポカが雨を降らせたというのはあくまでカソの推測だということに注意しましょう。
 カソは、 4兄弟の親オメテクトリとオメシワトルが中央を表し、赤のテスカトリポカ、黒のテスカトリポカ、ケツァルコアトル、青のテスカトリポカはそれぞれ東、北、西、南に割り当てられているともしていますが、これもまた仮説であり、実際の神話にそういう記述がある訳ではありません。『絵によるメキシコ人の歴史』では黒のテスカトリポカは「真ん中に生まれたから」最も優れかつ悪く、他の兄弟を圧倒していたといいます。
 カソ及びヴェイラントによる解釈は「解りやすく」、研究者や一般の読者達に広く受け入れられた結果いつしか実際の神話の記述のように信じられることになってしまったのです。
https://note.com/johannes_c7/n/n2bf825b8c1a2

(東の青竜(せいりゅう)、西の白虎(びゃっこ)、南の朱雀(すざく)、北の玄武(げんぶ)という四つの神獣の名が挙げられる)


テスカトリポカは人々に不和の種を蒔いたので「双方の敵」と呼ばれた。この神はあらゆるものを創造し、あらゆるものをもたらした。人を自分の影の中に入れて保護し、一方で人に降りかかる災いを一つ残らず人に見舞いもした。人をからかい、弄んだ。
だが時には、富、財産、勲功、勇気、高い位、君主の身分、貴族の身分、名誉などを人に授けることもあった。


神K:カウィール(K?awiil[1]、Kauil)は、古代マヤの神。稲妻の神であり、また王家の守護神でもあった[2]。
1904年にパウル・シェルハスはマヤ絵文書に現れる神々の画像を分類してアルファベット1文字で識別したが、そのうちの「神K」が古代にはカウィールと呼ばれたことがわかっている。カウィールの名は植民地時代初期のユカタン半島の文書にも記されている[3]。
マヤ文字では数字の9(ボロン)が接頭字としてつくことがあり、おそらくディエゴ・デ・ランダの『ユカタン事物記』(第35章)にも見える「ボロン・ツァカブ」(Bolon Tz'akab)と同一である[4]。
図像的にカウィールは長い鼻、鱗のある腹、蛇の脚を特徴とする[5]。また目が大きく、額に鏡の図柄があり、そこから煙を出す管、または斧の刃が突きだしている[4]。
パワフトゥン(バカブ)、チャクと同様に、カウィールも4人に分かれると考えられ、4つの方位を司った[2][5]。
カウィールはマヤの王族の主神であり[4]、古代マヤの支配者の名前にも「カウィール」がつくものが多い(ティカルのシヤフ・チャン・カウィール2世、イキン・チャン・カウィールなど)。
暦の期間終了の儀式において、支配者の手にはカウィールの形をした人体型の王笏が握られる[4]。多くの都市の図像において、カウィールを表す王笏を手に持つ王が見られる[6]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB

おおぐま座イータ星:おおぐま座η星は、おおぐま座の恒星で2等星。北斗七星を形成する恒星の1つでもあり、ひしゃくの柄の先に位置する。
特徴
地球からは北斗七星の他の星と近い位置にあるように見える。しかし、この恒星とα星は、他の北斗七星の星が属しているおおぐま座運動星団に属していない[6]。
青白い主系列星であり、比較的若い星である。肉眼で見ることのできる星としては高温の部類に入る。恒星風による強いX線による温度上昇もあるとみられている。
名称
Eta Ursae Majoris、略称は η UMa。固有名のアルカイド[2](Alkaid[3][4]) は「先頭(の娘)」という意味をもつアラビア語の al-q??id が語源である[3]。2016年6月30日に国際天文学連合の恒星の命名に関するワーキンググループ(Working Group on Star Names, WGSN)は、Alkaid をおおぐま座η星の固有名として正式に承認した[4]。
別名のベネトナシュ(Benetnasch)は「大きい棺台の娘達の長」を意味するアラビア語の K.a_'id Bana_t al Na'ash(カイド・バナト・アル・ナアシュ)を語源とする。これも北斗七星のうち、α星、β星、γ星、δ星が形作る四角形を棺台に見立て、ε星、ζ星、η星を、棺台を引く娘たちと見立てたことに由来する[3]。リチャード・ヒンクリー・アレンは、ポラリス(現在の北極星)の近くを取り囲む星々はベネトナシュの娘たちであり、北極星の周りを周回する星は、厳かな動きをしていると考えられているとしている[8]。
また、中国では『淮南子』本経訓に瑤光として見え、唐の密教経典『仏説北斗七星延命経』では破軍(はぐん)とされている。この星の守護を得ると、戦に勝てると信じられていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%8A%E3%81%90%E3%81%BE%E5%BA%A7%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%BF%E6%98%9F

ミクトランテクトリ:アステカ神話においてミクトランテクートリ[1](ミクトランテクトリ[2]とも。Mictlantecuhtli[2][1], “ミクトランの主”という意味[3])は、最下層の冥府ミクトランの王である[3][4]にして死の神である[4]。「頭から落ちるもの」を意味する[3]ツォンテモックの別名もある
ミクトランテクートリは蜘蛛、梟、蝙蝠、間際、北の方角に関連付けられ[要出典]、点々と鮮血が着いた頭蓋骨や骸骨[4]、または眼球を突き出した人として描かれる[3]。彼の頭飾りは梟の羽と紙の旗で飾られており、人の目玉の首飾りを着けている[4]。時には蝙蝠の姿で表されることもある。
神話
ミクトランテクートリは、妻のミクトランシワトルと共に窓のない家に住んで死者を支配している。また、ずる賢い性格をしている。
双子の神ケツァルコアトルとショロトルは新しく人間を再生させるために、ミクトランテクートリの挑発をかわし、前の時代の人間の骨を盗み出した。ミクトランテクートリは彼らを追いかけたが逃した。途中で彼らが骨を落として折ってしまったため、創造された人間達の背格好がバラバラとなった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA#%E5%A4%96%E9%83%A8%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF

ケツァルコアトル:アステカ神話の文化神・農耕神である。また、風の神とも考えられた。ケツアルカトル、ケツァールコウアトルとも呼ばれる。マヤ文明ではククルカンという名で崇拝されていた。
概要
古くは水や農耕に関わる蛇神であったが、後に文明一般を人類に授けた文化神と考られるようになり、ギリシア神話におけるプロメテウスのように、人類に火をもたらした神ともされた。
特にトルテカ族の祖神として篤く崇拝されていたが、アステカ族の神話に取り入れられてからは、原初神トナカテクトリとトナカシワトルの4人の息子の1人として、ウィツィロポチトリらとともに、創造神の地位にまで高められた。「五つの太陽の神話」の中では太陽神としてのケツァルコアトルの逸話も残されている。岩に手を当てると岩がへこみ、その岩を持ち上げて投げると森が平地になるような怪力を誇る。
神話では平和の神とされ、人々に人身供犠をやめさせたという。それ故に、人身供犠を好むテスカトリポカの恨みを買い、呪いのかけられた酒・プルケをそうとは知らずに勧められるまま飲み、気分が荒んだ挙句自分の妹・ケツァルペトラトルと肉体関係を結んでしまい、トゥーラ(又はアステカ)の地を追われた。この際、自分の宮殿を焼き払って財宝を埋めた後自ら生贄となり、火葬された灰が何羽もの美しい鳥となって空へ舞い上がったとも、虹の彼方に消えていったとも、金星に姿を変えて天に逃れたとも言われ、ケツァルコアトルは金星の神ともされるようになった。これは10世紀ごろ、ケツァルコアトルを名乗っていたトルテカの王が、人身供犠に反対してトルテカの首都を追い出された事件からつくられた神話だとされている。アステカにはケツァルコアトルへの人身供犠についての記録や遺跡などが多数あり(ソチカルコやチチェン・イッツァ参照)、人身供犠に反対する神話が書かれたのはコルテスによる征服後だと推定されている(クアウティトラン年代記)。
その名は古代ナワトル語で「羽毛ある蛇」(ケツァルが鳥の名前、コアトルが蛇の意)を意味し、宗教画などでもしばしばその様な姿で描かれる。また、白い顔の男性とも考えられている。ケツァルコアトルは「セーアカトル(一の葦の年)に復活する」と宣言してアステカを立ち去ったといわれており、16世紀初頭にコンキスタドールが侵略してきた際、コルテスがメキシコに来た1519年が偶然にも「一の葦の年」と一致したため、アステカ人達は、白人である彼らをケツァルコアトルの再来かと錯覚し、対応を遅らせたともいわれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AB

この神は風であり、雨の神々、水を司る神々、雨を降らせる神々を先導し、その通る道を掃き清めた。風が強くなると、埃が巻きあがり、風が吠え、風がうなり、空は暗くなり、風が四方八方から吹き、雷鳴がとどろき、天気は荒れるといわれた。


ショロトル:ショロトル(Xolotl)は、アステカ神話の神。ケツァルコアトルの双子とされる。 双子、怪物、奇形などを表わし、球戯[1]とも関係がある。「動き(ollin)」の日の印および16番目のトレセーナ「1のハゲワシ(ce cozcacuauhtli)」の守護者だが、このトレセーナに生まれた者は悪党になりやすいと言われた[2]
解説
ケツァルコアトルの双子[3]またはナワル(分身)とされる[4]。装身具はしばしばエエカトル=ケツァルコアトルと同じものだとされ、巻き貝[5]や星の飾りを身につけ、頭部は犬の形状をしている[3]。
古い時代の人々は、双子を一種の奇形として恐れていた。このことからショロトルは、神と双子であると同時に、人体の奇形や、2本のトウモロコシが一緒に生えるなどの植物の異常を象徴することにもなった[5]。
ショロトルが冥界に旅して持ち帰った前時代の人間の骨の断片に神々が流した血を掛けて生まれた男女はアザミの乳汁で育てられ、新しい人間の祖となった[10]。彼は犬の頭を持つ神で、冥界で死者の魂を導くと信じられていた犬と関連があった。エドゥアルト・ゼーラーによれば、金星でもあるショロトルは冥界に赴く太陽の供をした[11]と考えられる

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%AB

ミシュコアトル
ミシュコアトル(Mixcoatl)は、アステカ神話の狩猟と戦争の神。
「ミシュコアトル」とはナワトル語で「雲(mixtli)の蛇(c??tl)」を意味する。名前から本来は天の川あるいは天そのものであったかもしれない[1]。
図像的には赤と白の線条で特徴づけられる。黒い仮面をつけて、しばしばその上に星がちりばめられている。これらの点ではトラウィスカルパンテクトリと共通するが、狩猟神としての性格上ミシュコアトルはしばしば狩人の格好をし、弓矢や獲物を運ぶための網の袋などを手にしている[1]。絵文書中では狩猟道具ではなく武器を手にしている[2]。
狩人および戦士の神であったが、この機能はメシカのウィツィロポチトリにとってかわられた。しかし、ウィツィロポチトリが太陽と関係するのに対し、ミシュコアトルは星と関係する[1]。ウィツィロポチトリとミシュコアトルが同一視されることもある[2]。
『絵によるメキシコ人の歴史』ではトナカテクトリの生んだ4神のひとりである赤いテスカトリポカとミシュコアトルが同一視され、またテスカトリポカがミシュコアトルに変身したともいう。弓ぎりの発明者であり、はじめて火打石を使い、人類に火をもたらしたとされる[1]。
ミシュコアトルはオトミ族、チチメカ族、およびチチメカの子孫を自称する多くの共同体の守護神であった。別名をカマシュトリ(Camaxtli)といい、トラスカラ人やウェショツィンカなど、アステカと敵対する集団の最高神として崇拝された[1][2][3]。
ケツァルコアトルの誕生について、資料によって違いがあるが、ミシュコアトルが父とされることが多い。ケツァルコアトルの母の名はさまざまに伝えられ、もっとも普通にはチマルマン(チマルマとも)であるが、シワコアトルやその他の地母神があてられることもある[4]。また、ミシュコアトルは400人の息子と5人の娘を太陽のための生贄に捧げ、その生き残りがケツァルコアトルの母になったという伝説もある[1]。さらに混乱することに、チョルーラではミシュコアトル自身を最高神であるケツァルコアトルの位格とする[2]。
アステカ暦ではシウポワリのケチョリ(第14月、グレゴリオ暦の11月ごろ)にミシュコアトルの祭があった。狩人は捕えた動物を火の神に供え、その後に食べた。またミシュコアトルとその配偶であるヤサトラミヤワルに扮した人物などが生贄にされた[2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AB


シウテクトリ(Xiuhtecuhtli)は、アステカ神話の火の神
名前は「トルコ石(xihuitl)の主(teuctli/tecuhtli)」を意味する。その名のとおりトルコ石のモザイクで飾られており、トルコ石の冠(xiuhuitzolli)や、しばしばチョウの形をした胸飾りをつけている。額の上にはメキシコルリカザリドリ(xiuhtototl)、背中にはシウコアトルを身につける[1]。
シウテクトリは老いた火の神であるウェウェテオトルと共通点が多く、『フィレンツェ絵文書』ではシウテクトリをウェウェテオトルの別名としている。しかしながらウェウェテオトルと異なってシウテクトリは老いておらず、若く力強い戦士で支配者とされる[1]。
アステカ暦においてシウテクトリは重要な役割を果たす。シウテクトリは「1のヘビ」および「1のウサギ」のトレセーナを支配する神である[2]。シウテクトリは夜の九王のひとりでもある[3]。またカレンダー・ラウンドの終わりに行われる新しい火の祭り(英語版)では生贄がシウテクトリに捧げられる[4]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%B3%E7%9F%B3:トルコ石




シウコアトル
シウコアトルは文字どおりにはナワトル語で「トルコ石(xihuitl、合成語では xiuh- に変化する)の蛇(c??tl)」を意味する。ナワトル語の xihuitl は多義語で「トルコ石、草、年」などを意味する[1]。
ボルジア絵文書にはショロトルがシウコアトルを連れている様子が描かれている。46ページでは4匹のシウコアトルがトルコ石の鏡を取りまいている。同様の文様をもつ鏡はチチェン・イッツァやトゥーラから出土している[1]。
シウコアトルは火の神シウテクトリを象徴する動物として使用される[1]。
シウコアトルの登場するもっとも有名な話はウィツィロポチトリの誕生説話である。女神コアトリクエが謎の妊娠をしたことを聞いて怒ったその娘のコヨルシャウキと400人の弟(センツォン・ウィツナワ)はコアトリクエを殺すためにコアテペクの山に登った。その時ウィツィロポチトリが武装した姿でコアトリクエから誕生し、盾・投げ矢・シウコアトルで戦った。シウコアトルはコヨルシャウキの体を貫通した[2]。
稲妻は、しばしばウィツィロポチトリがコヨルシャウキを倒したときのシウコアトルと同一視される[3]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AB


チコメコアトル
チコメコアトル(Chicomecoatl)は、チコモロツィン(Chicomolotzin、「7つ(chicome)のトウモロコシの穂(olotl)様(-tzin)」)とも言い、アステカ神話に伝わる栄養及び豊穣(特にトウモロコシ)の女神である。 トウモロコシの神として崇拝されているセンテオトルとも近い関係にある。
その名は中央アメリカで一般に見られる260日の暦(トナルポワリ)に由来し、「七の蛇」を意味する[1]。
別名としてチャルチウシワトル(Chalchiuhcihuatl、ヒスイの女)、およびシロネン(Xilonen)がある。後者は未成熟状態のトウモロコシのやわらかい緑の穂を意味する[2]。
図像学的には水の女神チャルチウトリクエと共通する点が多く、顔に短い線が描かれ、また大きな頭飾りをつけている[1]。巨大な頭飾りはアマカリ(amacalli、紙の家)と呼ばれ、チコメコアトルのもっとも目立つ特徴になっている[3]。主にトウモロコシがチコメコアトルの象徴であり、手か背中にトウモロコシの穂を持った姿で描かれることが多い[1]。
花を運ぶ若い女性、太陽を盾として使用する母、死をもたらす女性としても描かれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%B3%E3%83%A1%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AB


ウィシュトシワトル
アステカ神話においての塩と海水の地母神で、トラロックの娘とされる
解釈によっては、トラロケ(トラロックに従う神々)との争いの際に、持ちうる全ての海水を投げつけられ、その内の一人であり、トラロックの妻もしくは妹とされるチャルチウィトリクエに溺れさせられそうになった過程で海水を司る能力を得たとされる。
伝承によってはテスカトリポカの配偶神とも言われている。
6月に彼女を記念する祭が10日間実施され、女性1名がウィシュトシワトルの化身となり、祭の最後に生贄となった。製塩業を営むものは、この期間中に彼女へ捧げる舞を踊ったとされる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%88%E3%82%B7%E3%83%AF%E3%83%88%E3%83%AB_(%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%AB%E7%A5%9E%E8%A9%B1)


シンテオトル
シンテオトル(Cinteotl)、あるいはセンテオトル(Centeotl)は、アステカ神話に伝わるトウモロコシの神。古代アステカ人にとってトウモロコシは主食であったため、センテオトルは広大な地域で崇拝されていた。
トラロックの庇護下にある神で、頭にトウモロコシの穂を模した派手な冠を被った、若々しい生気に溢れた若者の姿で表される。
シンテオトルはショチピリおよびマクイルショチトルと密接な関係があった[1]。植民地時代初期の『メシカの歴史』(Histoyre du Mechique)によれば、シンテオトルはショチピリの位相のひとつであるピルツィンテクトリとショチケツァルから生まれた。シンテオトルを埋めた地からは、トウモロコシ・チア・ワタなどの重要な植物が生えた[2]。また、女性のトウモロコシの神としてはチコメコアトルがあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%88%E3%83%AB


ツィツィミメ
ツィツィミメ(Tzitzimime、単数形はツィツィミトル Tzitzimitl)は、アステカ神話の闇の悪鬼である。
後古典期中央メキシコでは、星座や惑星は特定の条件下で恐しい人を食う悪鬼と化すと考えられた。とくに恐れられたのが日食で、星の悪鬼が太陽を攻撃していると考えられた。また、アステカでは52年のカレンダー・ラウンドの終わりも恐しい時期であり、もし神官たちが新しい火をおこすことができなければ、ツィツィミメが天から降りてきて世界を破滅させると考えられた。
天の四方を支えるトラウィスカルパンテクトリ、シウテクトリ、エエカトル=ケツァルコアトル、ミクトランテクトリの4神もツィツィミメの役割を果たすと考えられた。しかし、ツィツィミメは一般的に女性と考えられている。『マリアベッキアーノ絵文書』のツィツィミメは骸骨の姿をして貝殻の縁取りのスカートを身につけている[1]。
タモアンチャンの女神であるイツパパロトルはもっとも重要なツィツィミメである。
ツィツィミメはまた、プルケの起源説話にも登場する(マヤウェルを参照)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%9F%E3%83%A1


トシ
トシ(Toci)は、アステカ神話の女神。老いた地母神であり、癒やしの女神でもある。
「トシ」とはナワトル語で「我々の祖母」を意味する[1]。別名・テテオ・インナン(神々の母)、トラリ・イイオロ(大地の中心)
トシはさまざまな形容語句を持つ。『フィレンツェ絵文書』によれば、テテオ・インナン(teteo innan「神々の母」)、トラリ・イヨロ(tlalli iyollo「大地の心臓」)などを別名として持つ[2][3]。
ベルナルディーノ・デ・サアグンによれば、トシはテマスカルテシ、すなわちテマスカル(蒸し風呂小屋)の祖母という別名を持ち、産婆や治療者の守護神であった[2]。トシはしばしば浄化の女神であるトラソルテオトルと同一視され、図像上もトラソルテオトルと同様に顔に黒い印があり、木綿の紡錘を頭飾りにつけている[2]。しかし同時に戦いの神でもあり、盾や弓矢を手にしている[3]。
メシカのメキシコ盆地への移住の伝説では、メシカがコルワカンに住んだとき、ウィツィロポチトリはメシカにコルワカンの主の娘のひとりを自分に仕える生き神として招くように命令した。娘がやってくるとメシカは彼女を生贄にして、その皮をはぎ、メシカの若者に着せてトシの格好をさせてウィツィロポチトリに仕えさせた。メシカに招かれてやってきたコルワカンの主はこれを見て大いに怒り、メシカをテスココ湖の湿地まで追いだした。その結果メシカは湖の中の島に住み、そこにテノチティトランの町を作った[4]。
アステカ暦ではシウポワリのオチパニストリ(第11月、グレゴリオ暦の9月ごろ)にトシの祭があり、これは収穫祭でもあった[2]。この祭では産婆が女性にトシの格好をさせて生贄として捧げた[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%B7_(%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%AB%E7%A5%9E%E8%A9%B1)


ヤカテクトリ
ヤカテクトリ(Yacatecuhtli)は、アステカ神話の商人の守護神。
「ヤカテクトリ」はナワトル語で「鼻(yacatl)の主(t?uctli / tecuhtli)」を意味する[1]。
ヤカテクトリは商人(ポチテカ)が旅行で使用する杖を手にしている。ヤカテクトリ信仰は重要だったが、この神の性格については不明な点が多い[2]。ポチトランというヤカテクトリの神官のための建物があった[3]。
シウポワリのパンケツァリストリ(第15月、グレゴリオ暦の11月ごろ)のテノチティトランのウィツィロポチトリの大祭において、戦士が捕虜を生贄として捧げるのと並んで、商人たちは奴隷を生贄として捧げることが許されていた[2]。祭の前日に奴隷たちはポチトランに連れていかれ、そこでヤカテクトリのための祭が挙行された[4]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA


トラマツィンカトル
永遠に若い神。『フィレンツェ絵文書』第1書補遺によると、テスカトリポカの別名


イラマテクトリ
イラマテクトリ(Ilamatecuhtli)は、アステカ神話の大地、死、および天の川の女神[1]。「イラマテクトリ」とはナワトル語で「老女(ilama)の主(t?uctli / tecuhtli)」を意味する。
図像的には老いた女性で、大きな歯を見せ、白い服を着て貝殻で縁取りした白いスカートをはいている。このスカートはシトラリクエ(星のスカート)と呼ばれ、天の川を象徴している[1]。
アステカ神話に数多くいる地母神のひとりで、シワコアトルあるいはキラストリ(Quilaztli)の別名ともされる[1]。イスタク・ミシュコアトル(白い雲のヘビ)の配偶神とされる[2]。
イラマテクトリの神殿はトリランと呼ばれ、「闇」を意味する[1]。アステカ暦ではシウポワリのティティトル(第17月、グレゴリオ暦の1月ごろ)イラマテクトリの主要な祭が行われる[1]。52年ごとのカレンダー・ラウンドの終わりの祭儀である新しい火の祭り(英語版)においてもイラマテクトリは重要な役割を果たしたらしい[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AA


オメテオトル
オメテオトル(Ometeotl)は、アステカ神話の創造神。 別名オメテクトリ(Ometecutli)またはオメシワトル(Omecihuatl)。
その名は「二面性の神」を意味し、 対立する二つ(男と女、光と闇、秩序と混沌、静と動、是と非など)を兼ね備えた完全なる存在。
「身近なるものの神」、「環の中にいる者」、「我らの肉の男神にして女神」など数多くの異名をもち、神の中の神「万物の主」として崇められた。
ケツァルコアトルやテスカトリポカなどの神々を生み出した後、創造をやめ、 世界を創造する役目を自身の子供(神)達に譲った。 そして天の最上部で、神々と世界と人間が移ろいゆく所を、ただ静かに見守り続けているという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A1%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%88%E3%83%AB


オメテオトルは宇宙の 4 つの基本的な側面を表しています。・・・出典??
東にあるトラロック(雨と豊穣)と呼ばれる赤い水です。
北に位置する黒い土地はテスカトリポカと呼ばれます。
空気は白い、西にあるケツァルコアトルと呼ばれます。
火は青色で、南にあり、ウィツィロポチトリと呼ばれます。


オメテオトルは、宇宙を創造し、13層から成る天上界の最高位の2層オメヨカンに住んだ。他の神々を産み、ワニの様な怪物の上に地球を創造した。
また天界から女性の胎内に魂を落として、人間の生命を生み出した。
また色分けされた4人のテスカトリポカ、ウィツィロポチトリ(戦争・太陽神)、シベ・トテク(穀物神)、ケツァルコアトル(創造・豊穣・風神・金星)、テスカトリポカ(万能神・王の守護神)を産んだという。

上記は「アルフォンソ・カソが提唱した解釈「オメテクトリとオメシワトルにはシペやカマシュトリとも呼ばれる赤のテスカトリポカ、黒のテスカトリポカ、ケツァルコアトル、ウィツィロポチトリこと青のテスカトリポカの4柱の息子達がいた」に由来すると思われる。
オメテオトルの4柱の息子たち参照


鷲の戦士
鷲の戦士(わしのせんし、ナワトル語ではクァクァウティン)とは、アステカのエリート貴族戦士の戦士団。太陽神ウィツィロポチトリの戦士で、鷲の羽根から作った大きく色とりどりの羽飾りを付け、鷲の頭の形をした被り物をかぶっていた。武器は棍棒に黒曜石の刃を埋めた剣マカナ、同様にして作られた槍ホルカンカ、投矢器アトラアトラなどを用いた。その他、同じエリート貴族戦士の戦士団である、ジャガーの戦士やコヨーテの戦士、髑髏の戦士などと同じく、綿を詰めた戦いの衣装をまとい、彩色した羽毛で飾った盾や旗印も持っていた。
鷲をトーテムにしている事もあり、鷲の戦士は軽装で、機動力に優れた部隊であり、ほかの戦士団が主力戦力として敵に真正面からぶつかって行くのに対して偵察や奇襲、ゲリラ戦などを行っていた。
鷲の戦士は、ジャガーの戦士に比べると戦士としての経験が浅く、身分の低い者で構成された戦士団でもあるために、戦場で捕虜を捕まえるなどして手柄を立てる事によってより精鋭の部隊へと昇進していった。 アステカ帝国の首都だったテノチティトラン、現在のメキシコシティからは鷲の戦士の土偶や新兵を鷲の戦士に育成するための鷲の家と呼ばれる建造物が発掘されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B2%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%A3%AB










マカナ
メソアメリカやカリブ地域で使われていたマカナは、木の板に溝をつけ、黒曜石の刃を挟んだ木剣である。マカナというスペイン語はタイノ語に由来するとされ、ナワトル語ではマクアウィトル(m?cuahuitl)すなわち「手の木」という。製鉄技術がなく、金属器の使用が限定的であったメソアメリカでは、マカナが戦士の武器として広く使われた。また、ナワトル語の「マクアウィトル」は、植民地時代の文献では「剣」一般の訳語として用いられる。
アステカでは、マカナはジャガーの戦士など選ばれた戦士にしか与えられることはなかった。長さは1.0~1.5m、幅は5~10cmで、鉄の剣ほど貫通力はなかったが、鋭く、敵の四肢や首を切り落とすこともできた。落とさないように紐がつけてあり、中には貝や宝石による象嵌や色の鮮やかな鳥の羽毛で飾られたマカナもあり、そうした物はより位の高い戦士が持った。
アステカ時代には、限られた地域にしか産しない黒曜石の分配をテノチティトラントラテロルコが担っており、従ってマカナをはじめとする様々な刃物を生産することができたので、軍事力、生産力で周囲より勝っていた。古代中米文明の宗教では生贄の供養が必要不可欠であり、生贄確保の為に強大な軍事力と幾度もの遠征、衛星国・同盟国などの反乱や隣国との敵対関係が必要であり、この黒曜石とマカナの量産はアステカの栄華を維持していくには必須であったとされる。
マヤ地域以南の新大陸やカリブ海の島々で用いられたマカナは、全椰子製で黒曜石こそ使用していなかったが、刃物のように鋭く削られて作られており、敵を殴打するだけでなく剣のように敵の身体を叩き切ることも可能だったという。棍棒でもあり、金属製の鎧でも十分に効果があった為、こうした地域を探検したヨーロッパ白人は刺し子の鎧を着用してこれに対抗した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AB%E3%83%8A

花戦争
花戦争(ナワトル語: x?chiy??y?tl)(スペイン語: guerra florida)は、アステカ帝国と敵対国が1450年代から1519年にスペインに滅ぼされるまで断続的に行っていた儀式戦争である[1]。 メキシコ中部の都市国家群が敵対国になった[1] 参加国は一連の手続きに従って戦争を行った[2]。 スペイン人が侵入した際、トラスカラ王国はアステカ帝国を倒すためにスペインに味方した[3]。
起源
1450年~1454年にかけて、アステカを不作と深刻な旱魃が襲い、中央メキシコ高地で多くの餓死者が出た[4]。 これに対して神官が「神の怒りを鎮める為に多くの男性を定期的に生贄に捧げなければならない」と述べた。 これを受けてアステカと4つの都市国家が、神への生贄を得るための戦争を行う事に同意した。



慣習
花戦争は通常の戦争と幾つかの点で異なっている。 例えば、花戦争は事前に決めた場所と時間に行われる[5]。 これらの戦場は聖地となり「cuauhtlalli」や「yaotlalli」と呼ばれる[2]。 大量の紙やお香を燃やす事が戦闘開始の合図になる[2]。 アステカは通常の戦争ではアトラトル(小型投槍器)や投石のように遠距離武器を用いるが[6]、花戦争ではマクアフティル(英語版)(黒曜石の刃の付いた棍棒)[7]を用いる。 この武器は接近戦用の上に技術が必要なので、敵に己の技量を見せつけるのに向いている[6]。 通常の戦争は農閑期の晩秋から初春の間しか出来ないが、花戦争は少人数制なのでいつでも出来た[8]。 同人数に揃えて戦うのも特徴である。 花戦争は長く続く事で徐々に深刻なものになっていった。 初期には貴族は捕虜になってもよく解放されたが、後には平民と共に生贄にされるようになり[9]、花戦争のコストは増加した。 アステカでは通常の戦死に比べて花戦争の戦死は高貴なもので、「xochimiquiztli」(花の死、至福の死、幸運な死)と呼ばれた。 花戦争の戦死者はウィツィロポチトリ(太陽と炎と戦争を司る最高神)が住む天国に送られると考えられた[10][11]。

目的
花戦争の目的には生贄獲得以外にも戦闘訓練が有ったと考える歴史家も居る[2]。 エルナン・コルテスの部下のAndres de Tapia Motelchiuhがモクテスマ2世に「何故強大なアステカ帝国は近隣のTlaxcalaを征服しないのか?」と尋ねた所、「我らが望めば征服は出来るが、Tlaxcalaは生贄獲得と戦闘訓練に都合が良いので残している」と答えた[12]。 しかしアステカがTlaxcalaを頻繁に包囲した事を踏まえると、別の理由で征服出来なかったのではないかとFrederic HicksやDiego Munoz Camargo等の歴史家は考えている[13]。
多くの研究者が花戦争は生贄目的である事を疑っているが、Hicksはモクテスマ2世の説明は論理的と述べた[14]。 アステカが生贄と戦闘技術の両方を重んじていたからである[14]。 貴族にとって実際の戦争に備えて戦闘訓練を行う事は義務だったが、平民にとってもそれは強く推奨されていた[13]。 これらの理由から、Hicksはモクテスマ2世が侵略失敗の言い訳に述べたのではないと考えた[13]。
しかし一部の研究者は生贄や戦闘訓練以上の目的[2]、例えばRoss Hassigのように「戦争を続ける事で(アステカの)敵国の戦力を削ぐ仕組み」と考える者もいた[15]。 両軍から同数の兵士が戦いに参加する事は一見平等に見えるが、割合で考えると戦力の少ない国に多くの消耗を強いるものだった。 これによってアステカは敵国の戦力を削ぐ事に成功した[15]。 また、花戦争には少数の兵士しか参加しないので、アステカは残りの大部分の兵士で敵国を威圧出来た[15]。
加えて、同数の兵士が戦う事で、アステカの兵士の優秀さを見せる場でもあったとHassigは述べた[15]。 もしアステカが数に頼って侵略すれば敵国は防御に徹し、戦い辛くなる可能性が有った[15]。 しかし同数ならば開けた場所で戦え、個々の戦闘技術を見せつける機会も大いに得られた[15]。 Hassigは最後に広報活動が最重要だったとも述べた[15]。 定期的に戦闘を行う事で、アステカは敵国に己の強さを見せつけられる[15]。 これによって敵国をアステカ側に寝返らせる事も狙っていた[15]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%88%A6%E4%BA%89




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