Mesoamerica

テオティワカン

テオティワカン-ケツァルコアトルの神殿 テオティワカン-考察


テオティワカン(ナワトル語: Te?t?huac?n、スペイン語: Teotihuacan)とは、メキシコの首都メキシコシティ北東約50キロの地点にあり、紀元前2世紀から6世紀まで繁栄した、テオティワカン文明の中心となった巨大な宗教都市遺跡[1][2]。当時のアメリカ大陸では最大規模を誇り、メソアメリカの中心的都市として機能していた

概要
テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり各施設が配置されている。この都市で祀られた神々は、農業・文化と関係深いケツァルコアトルや水神トラロック、チャルチウィトリクエ、植物の再生と関係あるシペ・トテックなどである。
社会についてはあまり知られていないが、規模から考えると神権的な権威が存在し、高度に階層が分化し、発達した統治組織があったものと推測されている。市内には職人の地区が設けられ、盛んな商業と交易の中心地であり、農民たちの巡礼となって集まる信仰の中心地でもあった[3][2]。
テオティワカンとは、ナワトル語で「神々の都市」という意味で、これは12世紀頃にこの地にやってきて、すでに廃墟となっていた都市を発見した、メシカ人(アステカ人)が命名した。アステカ人はテオティワカンを後々まで崇拝の対象とした
古代都市テオティワカンとして、1987年に世界遺産(文化遺産)に登録されている。

歴史
この地は形成期後期にすでに集落があったが、紀元前50年にテスココ湖の南方に立地したクィクィルコ(ナワトル語: Cuicuilco)がシトレ火山(英語版)(ナワトル語: Xitle)の噴火によって埋まり、またポポカテペトル山も噴火した。このために人々がテオティワカンの地に移住し[4]、テオティワカンは都市として急速に発展した。テオティワカンは西暦紀元前後から7世紀なかばまで都市として使用され、その時期は4期に分けられる[5]。
ツァクアリ相(1年 - 150年):この時期にテオティワカンははじめて都市として成立し、太陽と月のピラミッドが作られた。
ミカトリ相(150年 - 200年):南北を結ぶ道路(死者の大通り)が建設された。
トラミモルパ相(200年 - 350年):交通・水利・祭祀・住宅・産業などのシステムが整備された。
ショロパン相(350年 - 650年):この時期に人口がもっとも増えた。
テオティワカンは国際的に大きな勢力を持っており、1000キロメートル離れたマヤ地域にも影響は及んだ。378年にはテオティワカン系のシヤフ・カックエル・ペルー(ワカ)ティカルに侵入し、ティカルの古い石碑を破壊して新しい王朝を建てた[6]。426年にコパンとその衛星都市のキリグアを建設したのもテオティワカン系の人間だったらしい[7]。テオティワカン様式の芸術は古典期マヤ文明に大きな影響を及ぼした。
都市の面積は約20平方キロメートルで、最盛期には、10万から20万人が生活を営み下水網も完備されていた。しかしながら人口の集中に伴い7世紀にはいると急激に衰退し、やがて滅びを迎えた。衰退の主要な原因としては、火事の発生、漆喰の生産のために木材を大量に燃やして森林破壊が起きた、旱魃による農業の衰退、およびそれらに伴う内乱の発生とメスキタル(イダルゴ州)の狩猟採集民の侵入などがあげられる[8]。

主な遺構及び建造物
太陽のピラミッド(高さ65m、底辺222m×225m)
月のピラミッド(高さ47m、底辺140m×150m)
死者の大通り(南北に貫く都市のメインストリート 長さ4km、幅45m)
ケツァルコアトルの神殿
ケツァルパパロトルの宮殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AF%E3%82%AB%E3%83%B3


1974年、ヒュー・ハレストンという男性が、テオティワカンで、そこにある全ての建築物を計量できる単位を見つけたといいました。コンピュータ計算によると、その単位の長さは1.059mとなっています。
例えば、ケツァルコアトルの神殿や、太陽・月のピラミッドの高さの単位はそれぞれ、21、42、63となっており、その比例は1:2:3となっています。ハレストンはこの単位を用いて、「死者の大通り」両側の各建築物の間の距離を測ったところ、ちょうど太陽系の惑星の軌道の比例と一致していることが分かりました。
偶然という言葉で説明するには、納得のいかない人が多いでしょう。「死者の大通り」は明らかに太陽系をもとに建設されたものであり、この古代都市の設計者は太陽系の惑星と軌道の運行状況を知っていたのかもしれません。
しかし、天王星が発見されたのは1781年であり、海王星は1846年、そして、冥王星は1930年にようやく発見されました。超古代文明の時期に生きていたテオティワカン人がどのようにこの天文学知識を知ったのでしょうか?
https://www.epochtimes.jp/p/2022/01/85624.html


「古代都市テオティワカン」は、メキシコ中部のアナワク高原にある古代宗教都市で、メキシコで最初に文明が誕生した地といわれています。
テオティワカンの遺跡はほとんど、マヤ文明まで使われていたタルー・タブレロ式で建てられています。この建築様式は、タルーと呼ばれる傾斜壁とタブレロと呼ばれる垂直の土台を交互に積み上げたもの。太陽のピラミッドは、エジプトのクフ王とカフラ王のピラミッドに次いで、世界3番目の大きさです。ピラミッドが作られた理由は、お墓ではなく、宇宙や生命のシンボルとしてでした。
テオティワカン遺跡は、きちんと区画整理された計画都市だったようです。中心部にある太陽のプラミッドは、「登れるピラミッド」としては世界で最高の高さを誇っています。アステカ歴の新年とされる「春分の日」は、メキシコ人を始め100万もの人が訪れ賑わいます。














太陽のピラミッド
200年ごろに作られた高さ65m、底辺222m×225mもあるピラミッド。当時1万人もの人が携わり10年かけて作られた、テオティワカン最大の建造物です。
夏至の日は、真向かいに太陽が沈むように設計されたといわれ、テオティワカン人は高度な天文知識を持っていたといわれています。また、年に2回太陽が真上に昇る日があり、この日はまるで後光がさしているような神秘に包まれるとか。
248段を登った頂上からは、爽快な景色が広がっています。世界有数のスケールの大きなピラミッドからは、この地の壮大な歴史スペクタルを感じられます。



月のピラミッド
テオティワカンの中で、2番目に大きなピラミッド。高さ47m、底辺140m×150mあり、350年ごろに作られました。太陽のピラミッドより遺跡自体の高さは低いですが、地面が隆起しておりほぼ同じ高さ






死者の道
テオティワカンの真ん中を貫く、南北3km、幅50mの大通り。最近の調査で、左右に佇む遺跡をつなぐこの大通りに対して直角に東西に交わる道が通っていたことが明らかになっています。この2つの道は、星との関わりがあるとの説も唱えられています。






ケツァルコアトルの神殿
中南米の文明では重要な神として崇められるケツァルコアトル神など神々の像で埋め尽くされた神殿です。四方を城壁に囲まれており、装飾の美しさが秀逸なのが特徴です。前面にはケツァルコアトル(羽毛の蛇、水と農耕の守)とトラロック(雨の女神)などの彫刻が見られます。また、赤や緑の色が残っており、エジプトのような赤色塗料を塗ったものとは違い、極彩色で彩られていたことも分かっています。






ケツァルパパロトルの宮殿
月のピラミッドで行われた祭事に携わった神官たちの住居とされる宮殿です。遺跡群の中で、最も完全な状態に修復された建造物のひとつとされています。特に、中庭の石柱に施された、鮮明に残された鳥をモチーフにした浮彫は必見です。







また、この宮殿の南西には階段があり、ジャガーの宮殿へといくことができます。ジャガーの宮殿の中庭は半地下になっており、3つの部屋に残る色彩豊かな壁画を見ることができます。








テオティワカンはメキシコ中央高原に出現した、アメリカ大陸最大規模の古代都市遺跡である。その起源は前2世紀中頃と考えられており、最盛期の紀元5世紀頃には15万~20万人の人口を擁し、その文化的社会的影響ははるかマヤ地域にまで及んだとされる。しかし1884年から開始され現在なお進行中の遺跡発掘調査も、目下のところこの壮大な遺跡のわずか8分の1程度にすぎず、これほどの都市を築きながら王の墓も文字記録も見つかっておらず、この壮大な都市を築いた民族の詳細や、また7世紀後半頃から急速に衰退したその理由など、未だ多くが謎に包まれている。
この古代都市は整然とした都市デザインを有している。まず最北端には「月のピラミッド」と呼ばれる巨大モニュメントがある。そこから南方向に向かって幅40m長さ5㎞ほどの「死者の大通り」が延び、その途中の東側には「太陽のピラミッド」、西側には宮殿、そしてその最南端には「ケツァルコアトルの神殿」を含む「シウダデーラ(城塞)」と呼ばれる儀礼場区域があり、その他、往時には大小合わせれば約600基ものピラミッドが整然と立ち並んでいたと考えられている。
「月のピラミッド」は、一辺が150m、高さ47mの巨大ピラミッド型建築物である。それは「太陽のピラミッド」よりも起源が古く、およそ紀元前100年頃に建築が開始された。月のピラミッドを正面から見ると、その背後には「セルロ・ゴルド」という大きな山がそびえ立っている。月のピラミッドは、この山のミニチュアである。メソアメリカには古くから「聖なる山」への信仰がある。天へとそびえる山の内部には、大地と水と豊穣の神であるトラロクが治める楽園「トラロカン」があると考えられており、現代でも周辺の農民たちは、近くの山の洞窟や泉で豊穣を祈る儀礼を、毎年行っている。月のピラミッドの内部からはたくさんの奉納物が発見されているが、それは豊穣の力を秘めた「聖なる山」への信仰を意味している。
テオティワカンのもう一つの「聖なる山」である「太陽のピラミッド」は、一辺が225m、高さ65mのテオティワカン最大の建築物である。その完成は、およそ紀元150年頃とされている。興味深いことにこのピラミッドの真下には、長い地下洞窟が延びており、その先には「四つの花びら」の形をした小空間が存在する。テオティワカンでは「四つの花びら」は、東西南北からなる世界の姿を表現する重要な宗教的象徴である。一説ではこの洞窟こそが、聖地としてのテオティワカンの始まりの場所であったという。人々は古くからここを巡礼に訪れ、「トラロカン」の神々に祈りを捧げたのであろう。
二つのピラミッドが「聖なる山」であるということは、それらは天空への階段、天空世界と地上世界がつながる場所であることを意味している。テオティワカンの南北軸である「死者の大通り」は時計方向に15度30分ほど意図的にずらして建設されており、、都市の東西軸も同じだけ傾いていて、格子状に道路が配された都市全体が15度30分傾いている。なぜこうした軸の傾きをしているのだろうか。一説では、メソアメリカの神話でこの世界が始まったとされる8月12日とそこから約260日後の4月29日に太陽のピラミッドの真向かいに太陽が沈むように設計されたと言われている。つまり都市デザインは、メソアメリカの宇宙論の根幹をなす「260日祭祀暦」(1年を260日とするメソアメリカ独自の暦)に対応しているのである。
テオティワカンは聖なる地下世界への入り口であり、また地上世界と天空世界をつなぐ階段である。天空世界と地下世界の力が交わる場所、それがテオティワカンだった。
14世紀にこの遺跡をはじめに発見したアステカ族(メシーカ人)は、そこを「神々の集う場所(=テオティワカン)」と名づけた。
笹尾典代(宗教学・ラテンアメリカ宗教文化)
https://www.keisen.ac.jp/blog/heritage/2014/03/post-64.html


テオティワカン、太陽のピラミッド、太陽の広場出土
メキシコ国立人類学博物館蔵



























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