Mesoamerica

マヤ-3

メソアメリカの編年  ドレスデン絵文書
マヤ文明の栄えたマヤ地域は北から順に
マヤ低地北部
マヤ低地北部は現在のユカタン半島北部に当たり、乾燥したサバナ気候であり、またほとんど河川が存在しないため、生活用水は主にセノーテと呼ばれる泉に頼っている。マヤ低地北部は800年ごろから繁栄期に入り、ウシュマルやチチェン・イッツァ(聖なる泉のほとりの水の魔法使い)、マヤパンなどの都市が繁栄した。なかでももっとも乾燥している北西部においては塩が塩田によって大量に生産され、この地域の主要交易品

主な遺跡
ウシュマル 古典期後期 -後古典期前半
フン=ウィツィル=トゥトゥル=シウによって紀元500年に建てられた町であるという。ウシュマルは何代にもわたってシウ家によって支配され、ユカタン西部でもっとも強力な都市であった。そしてチチェン・イッツアと同盟を結んで北部ユカタン全域を支配していた。紀元1200年以降は主要な建築物を新たに建築することは行われなくなる
チチェン・イッツァ 古典期後期 -後古典期前半
ユカタン半島のユカタン州州都メリダの東、約120キロメートルにある後古典期マヤの遺跡で総面積は約1.5平方マイル。半島のつけ根の密林にある。現在、高速道路により分断されているが、北部はトルテカ期、南部にはプウク期の建物が残っており、南北での町の構成がはっきりと違いを見せている
マヤパン
1220年代から1440年ころまで栄えた、マヤ文明の古代都市の中でも新しい時代に属する都市。それ以前のユカタン地方北部は強大な勢力を持ったチチェン・イッツアの支配下にあったが、この支配者に対する反乱が起きてチチェン・イッツアは衰退、放棄された。
ペカン
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カラクムル 形成期 -古典期
5世紀の初め頃の日付けを示す石碑や彩色土器が見つかっていることからカラクムルの王朝が始まるのはこの時期と考えられるが、王の即位日が長期暦で記されていないため時期が確定できない
ジビルチャルトゥン 先古典期からスペイン人の到来までの長い歴史を持つ

アグアダ・フェニックス マヤ文明の最盛期は「古典期(西暦250年?900年)」とされるが、近年の研究では、その1000年以上前により大きな構造物が造られていたとする見方が広がりつつある


マヤ低地南部
現在のチアパス州北部からグアテマラ北部のペテン盆地、ベリーズ周辺にあたるマヤ低地南部はもっとも古くから栄えた地域で、紀元前900年ごろからいくつもの大都市が盛衰を繰り返した。気候としては熱帯雨林気候に属し、いくつかの大河川が存在したものの、都市は河川のあまり存在しない場所にも建設されていた。交易品としてはカカオ豆などの熱帯雨林の産物を主としていた。この地域は古典期までマヤ文明の中心地域として栄え、8世紀には絶頂を迎えたものの、9世紀に入ると急速に衰退し、繁栄はマヤ低地北部やマヤ高地へと

主な遺跡
パレンケ 古典期
ユカタン半島の付根にあたる[要出典]メキシコ南東部のチアパス州に位置し、7世紀に最盛期を迎えた[1]都市の遺構としての宮殿を中心とする、「マヤ遺跡の典型」といわれる[2]建物群を密林のなかに配置している
トニナ 古典期前期の建築の上に古典期後期の建築が建てられているため、今のところ6世紀より前の歴史についてはわからない
エルミラドール エル・ミラドールが繁栄し始めたのは、およそ紀元前10世紀からであり、全盛期は、紀元前3世紀から紀元後2世紀にかけての時期で、人口は8万人に達したと考えられる。その後は建設活動が行われず、幾世代にわたっていったん放棄された形になったが、再び古典期後期になって人が住み始め、最終的に放棄されたのは9世紀の終わりごろである
ナクベ 紀元前1000-800年に定住が始まり、紀元前800-400年に早くも石造建造物が発達した。
セイバル ペテン県のパシオン川西岸の急峻な断崖の丘陵上に位置するマヤ遺跡である。先古典期中期初頭から古典期終末まで、盛衰を繰り返した。
ティカル 形成期 -古典期
ペテン低地にあった古典期マヤの大都市である[1]。マヤ文明の政治、経済中心都市として紀元4世紀から9世紀ごろにかけて繁栄を極めた
エル・ペルー 形成期後期(紀元前300-200年)に定住がはじまり、古典期前期に急速に発達した
ティカルの西72キロメートルほどの場所にあり、ティカルおよびカラクムルの二大国と複雑な歴史的関係を持った

マヤ高地
現在のチアパス州南部からグアテマラ高地、ホンジュラス西部、エルサルバドル西部にあたるマヤ高地は標高が高く冷涼で、起伏は多いが火山灰土壌による肥沃な土地に恵まれ、多くの都市が建設された。マヤ文明においてもっとも重要な資材である黒曜石はマヤ内ではこの地方にしか産出せず、この地方の主力交易品となっていた。低地と異なり、建築物は火山からの噴出物(軽石など)と粘土を練り合わせた材料で作っていた。カミナルフユのように先古典期から発達した都市があったが、古典期の低地マヤの諸都市に見られるような石の建造物や石碑が発達しなかったため、この地域の歴史には今も不明な点が多い

主な遺跡
ウタトラン キチェ県にある高地マヤ西部の遺跡。後古典期後期のキチェ王国の首都だった。ナワトル語で「葦の場所」、トゥランと同義。ウタトランの町の構造はキチェの宇宙観、宗教、社会構造を反映していた
カミナルフユ 先古典期前期の終わり(紀元前1200-1000年ごろ)から人が住みはじめ、先古典期中期から建造物が作られるようになった。集落は湖を囲むように作られた。湖からはいくつかの運河がのび、中でも南に伸びるミラフローレス運河は紀元前600-400年ごろのもので、メソアメリカ最古の運河。
コパン 古典期
モタグア川支流のコパン川に沿ったコパン谷では、B.C.1400年ごろから人類が集落を形成して居住していたことがわかっている。また、最近の研究では、このころに居住した人々はマヤ語系の言語を使用しない民族ではなかったなかったかとの説もある
キリグア 古典期
キリグアに人が住み始めたのは紀元200年ごろだと考えられているが、本格的に王朝が築かれたのは5世紀にはいってからである
ホヤ・デ・セレン 古典期
セレンはマヤ文化圏の南東端に当たっていた。この地域では、紀元前1200年頃に農業を営む小さな集落が成立していた



マヤ時代区分





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