江戸期の諏訪 

中山道及びその風俗

八ヶ岳山麓新田開発

転載元hhttp://rarememory.sakura.ne.jp/edo/edo.htm


 八ヶ岳の西斜面は中腹から緩やかで、南の釜無山系まで、広大な裾野を形成していて、その一帯を総称して「原山」と呼んでいた。「旧蹟年代記」には、「総名原山の地、大堺は嶽山(八ヶ岳)迄、南は高(立)場川迄、この川中に堺塚あり、原山地柳川の川中堺、西は宮川を堺、下は新井村赤田新田三本松迄、夫より上原村のより見通し、北は中道、槻木沢、東うけのと鬼場川堺」云々と記されている。
 頼水は諏訪湖の新田開発と同時に、八ヶ岳山麓の干拓も始めている。当時、原村一帯は広い荒野であった。古くから諏訪神社上社の神野(こうや)として、諏訪明神の御狩場として神聖視され、御狩の神事(5/2)、御狩の神事(6/27)、御射山御狩の神事(7/27から)、御狩の神事(9月下旬)などがあり、3月には神使御頭祭(酉の祭)の御贄の鹿も原山神野で求められていた。古代より鍬を入れてはならないとされていた。また水源が少なく農耕に適さなかったことも事実であった。ただ採草だけは許されていたようであった。
 それでも、鎌倉時代の承久元(1219)年の「諏訪十郷日記」によって、田沢・青柳など神野周辺に村ができ始めたことが知られる。室町時代の「諏訪大明神画詞」には、粟沢・神乃原・中沢(なかつさわ)などの村名が見られる。それでも御射山社周辺の神野は手付かずだった。
 頼水は藩の重要政策の新田開発に、原山に目をつけ神野の開拓を命じた。慶長15(1610)年正月、遂に原山新田(中新田)が誕生した。青柳の金鶏金山の抗夫が、金山閉鎖後、生活の糧を得るために成功させた事業だった。
 原山新田に与えた頼水自筆の定書(さだめがき)等が現存する。
 慶長15年正月
 原山新田の儀は四カ年の内つくりとり致すべく候事
 役永く免許せしめ候事
3月6日付け定
 地は四カ年荒野たるべきこと(4年間無税)
 役免許のこと(お伝馬、川除け、道普請の課役免除)
 走者一切停止のこと
 方五十町の間草木わき郷の者にとらせまじきこと(薪、草などの採取地の保証)
 次通り新町通るべく候、上道はきりふさぎ、人通らざるとうに仕るべきこと
と、実に細やかな内容から、頼水の新田開発の意気込みが知れる。
この新田開発を実地に指導し援助したのが、弟・二ノ丸家老・頼雄であった。現在も、中新田の人々は、頼水・頼雄を氏神様として祀っている。
 寛永8(1631)年、11月21日、山田新田(茅野市玉川)が藩から新田完成の認定を受けている。つづいて元和元(1615)年の八ッ手新田を始め、払沢・柏木・大久保・菖蒲沢・室内など、80余りの新田が成功している。慶長から寛永・正保・慶安(1648~1651)の頃迄である。
 当時、肥料を自給するため、水田はその3倍、畑には2倍の草地が必要であった。採草地を開墾すれば、益々自給が困難になってきた。
 原山に入会権を持つ村は、北山浦を始め宮川沿いの古村や、大熊・神宮寺・宮田渡・赤沼・神戸・飯島・上金子・下金子・福島など63ケ村に及んでいた。
原山草論の始めは、5(1688)年の立場川東広原の草場論で、立沢村が中新田の入会を排除しようとした。郡奉行の吟味で「先規の通り」と裁許されている。  中筋の田部・飯島・上金子・中金子・下金子・福島・新井の7ケ村は古来持山がなく、原山、富士見方面に入会をしていた。2代藩主・忠恒のころには、田作りのため早草刈を願い出ていた。結果、高部からうえの新井・粟沢から、木之間・から高森まで、御林の外はかまい無く刈り取りを許された。
 それが正徳元(1711)年6月、郡奉行へ提出した口上書によれば、御射山神戸山居くね(屋敷林)は、前々から刈敷用に夏草を刈り取りしていたが、当春、急に制限された。それに中筋の者には御憐れみをもって茅野の御林刈敷を下されたが、これも茅野・金沢の内林として拒まれ、木之間の入会は、神戸村に限り、中筋の者には刈らせないといわれたと訴え出ている。この結末は不明だが、原山は広いが、多くの入会村が入り組み、文政・天保・と草論が絶えず、そのつどの訴願状や裁許状が残されている。さらに原山草論を複雑にしたのが、中筋の飯島・上金子・中金子の村々が、柏木・菖蒲沢・木船周辺に山畑・林畑・下田など開墾をし検地を受け、それぞれ津高も決められていた。享和3(1803)年、新田が畑を狭めるとして、「新開畑潰し願い」が出されている。








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