江戸期の諏訪 

中山道及びその風俗

坂本養川の汐(せぎ)

転載元hhttp://rarememory.sakura.ne.jp/edo/edo.htm


 諏訪の新田開発の勢いは元禄のころに一時衰えた。これは開発できる土地がなくなったためではなく、当時、水利の技法がなく、自然の河川の流れに即していくしかなかった。水さえあれば、開田できる空閑地はまだまだあった。八ヶ岳山麓、柳川から立場川の広大な台地は、水利がなく草刈場として放置されていた。このとき新しい用水体系を工夫したのが天明年代の坂本養川(ようせん)(1736~1809)だった。養川は16歳で家督を継ぎ、23歳で名主になるが、18歳の頃から、近畿一帯を旅し、土地開発の実情を見聞し、その後江戸に出て21歳から8年ほどかけて関東7か国の詳細な開田計画を立てている。これは病を得て実現できなかった。
 諏訪に戻った養川は、蓼科山から流れる豊富な水量の利用を考えた。滝の湯川や渋川の余り水や各所の出水を繰越汐(くりこしせぎ)の方法で、農業用水として八ヶ岳山麓に流すことだった。自然の川が、谷に沿って流れ下るのに対して、汐は等高線に沿うかのように、一部では谷を超えて、山肌を横に流していく、滝之湯堰や大河原堰など新しい用水路の開削によって農業用水を作り、水稲の収穫高を飛躍的に増大させようとした。この計画を安永4(1775)年12月、家老・(二之丸家)諏訪大助に願い出た。
 養川の一大水利事業計画は、高島藩の混乱期(二之丸騒動)でもあり、その当時の家老に人材を得ず、一方、藩主・6代忠厚は病弱で帰国することが少なく藩政をかえりみない最悪の状態の中で許可が得られない。養川は山浦地方の模型を作って、柳口の役所に説明に出向いたり、郡奉行・両角外太夫の実地見分を実現したりしたが、計画の採用に至らない。
 そのうえ湯川や芹ケ沢の水元の村々で、自分の水利が侵されると、養川の暗殺計画まで図る者まで出現する。
 蕃の騒動は、天明3(1783)年、二之丸家断絶と蕃主・忠厚の隠居で結末を見た。高島蕃は多年の財政難の上に、この事件の失費と天明3、4年の大凶作で、流石の頑迷固陋な家老・(三之丸家・二之丸騒動の勝者)千野兵庫も養川の計画に期待するしかなかった。天明5年2月大見分、7月18日普請の開始、寛政12(1800)年までに約350町歩の開田を成し遂げた。
 養川の工夫は単純な用水路の開削だけでなく、渋川の流れに魚住まず、その水は稲作に適さない、それで幾度かの繰越汐をへて他の水と混ぜることにより水質の改良を行っている。
 養川は享和元(1801)年、小鷹匠の藩士となり16俵2人扶持と抜高(免祖地)15石を与えられる。大正4年(1915年)11月の御大典に、従5位を追贈される。歴代高島蕃・藩主と同位である。
 養川の汐は山浦地方に膨大な水田を生み、その生産の恩恵は後世に及ぶが、もともとあった旱魃時の水争いはより頻繁になり、農民同士の血の抗争はより激しくより拡大した。これは、諏訪湖辺の開拓につうじるものがあった。時代の限界としか言えない。ただ頼水・養川の功績は大きい








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