江戸期の諏訪 

中山道及びその風俗

農業と余業

転載元hhttp://rarememory.sakura.ne.jp/edo/edo.htm


 諏訪は固い地盤の上にあり、意外にも地震の損害は、赤沼(諏訪湖の南側、四賀の平坦地にあった村。ここにはカッパが住むと言われていた茅葉「ちば」ケ池があったと言い伝えられているように、渋水で赤く濁った湿地があちこちにあったので、赤沼と呼ぶようになった。)・島崎に例外的に記録される。火災も城下町に発生してるが、それほど多くはない。諏訪の災害の最たるものは、河川の洪水と湖水の氾濫であった。四囲の名だたる山岳から流れる各所の河川は、諏訪湖に集まるが流出口は天竜川のみ、少しの長雨でも水害が発生する。まして多年の治水工事よる大規模な新田開発の結果が、水害の規模を益々拡大するという皮肉を生んだ。
 また江戸時代全国的に多発した冷害の被害は、高冷地のため諏訪郡は頻度も程度もはげしかった。蕃は随分郡民思いの対策を講じている。その結果が、江戸時代一揆の発生がなかったという稀有な蕃となりえたのだろう。蕃の施策は、新田の冠水が頻繁な村には、定納を求めず、年々、検見してこれを定めた。小和田村(諏訪市役所の北側・大手辺り)にいたっては村高がなかった。飢饉のときは、粥の炊き出し、富裕者の翌年の苗の支給を求めた。








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