江戸期の諏訪 

中山道及びその風俗

綿から生糸へ

転載元hhttp://rarememory.sakura.ne.jp/edo/edo.htm


 諏訪の家内工業は、早くから発達をみた。その大きな理由として、高冷地のために気温が低く、雨量が少なく米作にも適さないばかりか、他の作物の農業生産力が低かったため、副業に依存せざるを得ない状態であった。主な副業に綿打・小倉織(諏訪小倉)などの綿業があった。
 室町時代の末ごろから棉の栽培とともに綿織が盛んになった。戦国時代・16世紀前半、河内・和泉・摂津(大阪周辺)三河・伊勢(名古屋周辺)で木綿栽培の産地化が進む。そのころ,庶民の一般的な衣服は麻であったが,綿織の普及が広がるにつれて,綿を衣服として使用することが多くなった。安土桃山時代・16世紀中頃になると、大阪で実綿(種がついたままの綿)・繰綿(種を取った綿)・織物関係の問屋が出現して分業が始まる。しかし,綿の庶民衣料としての本格化は江戸時代に入ってからのことである。
 諏訪でも多少の栽培があったが、隣の甲州の北巨摩郡の逸見(へみ)筋に多く、諏訪の人々は、農閑期には綿打(わたうち)の賃稼ぎに出掛けた。綿打とは綿打弓(弓形で弦には、牛の筋か鯨のひげを用いる)で繰綿をはじき打って、わたの不純物を除きながら柔らかくする作業で、もとでいらず冬稼ぎであった。
 17世紀前半 綿問屋の伊勢商人が江戸・大伝馬町へ進出するようになると、庶民の衣服は、麻から木綿に変わるほど出まわるようになった。17世紀中頃 綿問屋が繰綿を江戸や北国筋に輸送するようになると綿製品の生産地が各地に出現するようになる。こうして商人が物流の担い手になると、生産の分業化が進み、綿布は反物として全国に流通し始めるようになった。17世紀末頃には、東北地方でも大阪から江戸に送られた繰綿を、商人を仲介にして、糸・布等に加工する生産に携わるようになった。18世紀になると、江戸や東北では、関西地方の綿古着の大消費地になっていた。
 諏訪でも、元文・寛保(1740ころ)には、甲州から繰綿を仕入れて、居ながら綿打する人が多くなり、そこからよりこを作り、糸を紡ぎ、自家用衣料を作るだけでなく、現金収入を求めてより質のよい製品の生産に励むようになった。繰綿・製品を斡旋する問屋もでき、それにあわせて労力を広く集める専業綿織業者の工場もできるようになった。その綿織は諏訪小倉とよばれ、帯地・袴地・羽織地・足袋裏などが作られた。殊に袴地は諏訪平(すわひら)と呼ばれ、江戸表や京大阪にも流行った時期もあり小倉織は藩の収入源ともなった。
 棉花生産も1688~1703年(元禄)ごろには、畿内から瀬戸内地方・東海地方へ広く普及した。棉作は有利な商品作物として,ことに摂津・河内・尾張・三河で盛んになり、幕末のころには、全国生産のうち約30%を産したという。
 これらの製品は実綿・繰綿・綿布などの商品となって大坂に集荷され,商人の手をへて全国の市場に販売された。繰綿は江戸時代の重要商品で、正徳(1714)4年には、大阪から他地方へ移出された物資15品目中の7位で、その扱い高は銀4,299貫の金額になっていた。棉作の普及とともに,綿織も農閑期の商品生産として広く行われて綿織生産拡大の基盤となっていった。これを背景として前述のように麻から木綿へと庶民衣料の変革がひきおこされた。佐藤信淵の『経済要録』(1827)のなかで綿織物について〈綿布は河内をもつて上品とし,畿内諸地及び豊前小倉・伊勢松坂等古来高名あり,其他武州青梅・川越・埴生・八王子・下総結城・眞岡及び三河・尾張・芸州・阿州等,皆夥しく白木綿を出す,旦つ近来下総八日市場・上州桐生等より,聖多黙(さんとめ)を始として種々の綿布を夥しく産出するを以て土地富貴し,人民頗る蕃息(はんそく)せり,且又薩摩木綿と称するものあり,甚だ精好にして世人これを珍重せり,然れども比れ亦,琉球製にして,糸及び染法共に皇国の物と異なり,開物に志ある者は,宜しく此法を学で織出すべし〉と記している。これは江戸時代後期の綿織産地である。
 次に生産形態をみると,当初はいざり機であったが,生産性の高い高機が,後期に入ると専業綿織業者に採用されるようになった。しかし本来,綿織業は農閑余業的農家の生産を基礎としていたから,自給的生産から商品生産へと変わっても小規模経営のままであった。その殆どが、生計を補完する経営で,市場と物流を握る商人の支配下に置かれていった。幕末ごろには,従来の小商品生産段階から発展してマニュファクチュアと呼ばれる生産の形態をとる機業が,尾西・泉南・足利・桐生などで部分的に現れてきた。安政の通商条約(1858年)以降,外国から安価で品質の一定した機械製綿糸が導入されるに従って国内産の手紡績(てぼうせき)は衰退し,棉作農家は打撃を受けた。明治20(1887)年ごろには機械紡績の勃興とともに原料綿は,外国に依存し,国内の綿作農家は姿を消した。
 横浜開港以来の生糸業興隆に伴い、それに転業するものが多くなった。諏訪の小倉業も文政の頃から急成長したが、天保13(1842)年頃を境にして生糸の時代へと変わっていった。








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