江戸期の諏訪 

中山道及びその風俗

寒天

転載元hhttp://rarememory.sakura.ne.jp/edo/edo.htm


 寒天は天草・おごなどの紅藻類に属する海藻の煮凝り(いわゆるトコロテン)を凍結脱水し、不純物を除き乾燥したもので、およそ350余年の歴史をもち、日本で初めて発明された食品である。
 しかし、トコロテンを食料として用いた歴史はさらに古く、平安時代に中国大陸から伝えられた、当時の宮廷や高貴な人々の贅沢な食品であった。 このトコロテンから寒天とする手法を発見したのは、徳川時代に伏見で本陣を営んでいた美濃屋太郎左衛門といわる。正保4(1647)年冬、参勤交代の途上宿泊した島津公をもてなす為に作ったトコロテン料理の残りを、戸外に捨てたところ厳冬であったため数日後に白状に変化していた。それに興味をもち、冬の夜の寒さと、日中の日ざしに交互にさらされ、自然乾燥してできたのでは、と考え、これをヒントに透明な寒天を開発した。しかし当時はまだ「寒天」の名はなく「ところてんの干物」と呼ばれていた。この製造に取り組み、後に「トコロテンの干物」と名付けて販売を始めたのが起こりといわる。そして承応3(1654)年、高僧 隠元が試食し、「仏家の食用として、清浄無垢しかも美味、これに勝るものなし」と賞賛して、寒中に作られるから「寒天」と命名したと言われている。

 明和年間(1764~1771)に、大阪商人・宮田半兵衛が、伏見の寒天製造法を習得し、郷里の摂津・城山で工業化に成功した。その後しばらく、上方の名物として「寒天」は、関西地区で盛んに作られる様になった。そして天保年間(1830~1843)、冬の間だけ寒天作りを手伝う「天屋衆」として、諏訪地方から出稼ぎに来ていた穴山村(茅野市)の小林条左衛門(くめざえもん)が、地元でも日本一の寒天を作りたいと、故郷の諏訪・玉川村へ製法を持ち帰り、さっそく次の年から、地元で寒天作りに励んだ。日中は晴れても日が短く、夜間冷え込む信州の気候は、寒天作りにうってつけ。また、雪や雨が少なく水がきれいな諏訪地方は、寒天作りに最高の舞台であった。こうして、諏訪地方の寒天作りは農家の冬の間の副業として定着し、日本一の寒天が作られるようになった。
 それ以来150年たった今も、角寒天のほとんどが諏訪地方(茅野の坂室新田村)で生産されている。諏訪では天保年間より農家の副業として発展した。茅野市を中心とした地域で製造される毎年12月中旬から翌年の2月下旬頃まで製造される期間限定の特産品で、夜間-5度~-8度に下がり、日中は+5度から10度で、晴天の日が多く日照時間が短いから適度に融解される、雪や雨が少ないからよく乾燥され、豊富で良質な井戸水により不純物のない寒天ができた。








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