江戸期の諏訪 

中山道及びその風俗

諏訪鋸

転載元hhttp://rarememory.sakura.ne.jp/edo/edo.htm


 鋸の製造は、江戸時代、諏訪、上田、小諸などで盛んに行われたが、文化2(1805)年、諏訪高島藩の招きにより、江戸で有名な鋸鍛冶師、藤井甚九郎が諏訪に移住して藩御用の鋸製造に従事するようになると、多くの弟子が山浦地方に集まり生業にすると、諏訪地方はたちまち信州を代表する鋸産地となった。甚九朗はわざの研鑽や弟子の養成にきわめて熱心で、修行が終わり鋸鍛冶を開業する弟子には「甚」か「九」の字を与えて指導支援をした。それで、多くの門人が独立開業して互いに品質や技術を競い合い、産額が増えると、鋸商が全国に販路を広げ、諏訪地方は新潟県の三条市、兵庫県の三木市と並ぶ鋸産地に成長し、全国に質のよい「信州鋸」の存在が知られるようになった。明治前半には、諏訪地方の鋸業者が580余軒にのぼったと伝えられる。明治初期以来続く北海道開拓に、最もよく使われたのが、諏訪鋸でもあった。
 鍛造に適した八ヶ岳山麓の低温で、鋸を一定の温度で冷やすのによかったため、諏訪鋸は良質で、また鍛造に必要な松材の炭が周囲の山林から豊富に産出されたのも、この地に鋸製造が根づいた要因であった。
 手打ち製造をモットーに品質や技術を一途に追求する伝統を守ってきた信州鋸は、切れ味、耐久性、使い勝手、すべてにすぐれた逸品で、手打ちと機械を併用するようになった現在も、多様な現場で鋸を使うプロのめがねにかなう道具として高い評価を得ている。








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