諏訪地方の縄文時代(草創期)

縄文文化の黎明期 (1万数千年~約1万前)

総説

転載元http://rarememory.justhpbs.jp/suwajyou2/suwa.htm


 最終氷期から約1万年前から始まる後氷期(約1万年前から現代までの時代をさす)にかけて、急激な寒暖変化が繰り返される。この時期を晩氷期という。最終氷期最盛期以降の1万8,000年前頃から徐々に温暖化傾向が進む。それが顕著になるのが1万5,500年前後だ。海進により、日本海が形成され、対馬暖流が流入すると、寒暖差の激しい大陸型気候から、日本海からの季節風により冬の寒冷化が抑えられ、その暖流は日本列島を多雨多雪化させた。1万5,500年前後からの顕著な温暖化は、針葉樹林が優占する最中に、中部・東北地方を1万年前前後からコナラ亜属やブナ属、クリ属などの落葉広葉樹林帯に遷移させていった。それでも現在の関東地方以西をおおう照葉樹林は、縄文時代草創期初頭では、南西諸島に限られていた。落葉広葉樹林帯は暖流親潮が洗う関東地方の海岸部に及んでいたに過ぎない。関東地方北部や内陸部の殆どは亜寒帯針葉樹林帯であった。その後の温暖化が落葉広葉樹林帯を日本列島に拡大し、集落の出現が明白となる縄文時代早期初頭と重なっていく。植生や動物相も地域や年代により大きく変化し複雑となった。
 最も温暖であったのは縄文前期頃の約6,300年前から5,000年前で現代より暖かった。植生の変化は緩慢で、その適応力のすごさか、現代の植生となるのは後期初頭の4,000年前頃であった。
 縄文文化の黎明期、次第に、気候の温暖化が進み、北海道を除く日本列島のほぼ全域で土器の使用が始まり、一部の地域では初源的な竪穴住居も作られるなど、少しずつ縄文文化的な定住社会を形成し始めた。 その証拠は、遺物の組合せの急激な変化によって、はっきりと跡づけることができる。縄文時代草創期以降、大型哺乳動物が絶滅に瀕し、石槍よりも小形の動物を狩るのに適する弓矢が登場し、石鏃が盛んに作られた。大型哺乳動物の狩具の投槍器と投げ槍から、鹿・猪など中小形の動物用の弓矢の石鏃へと変化し、その次の段階になると、採集された堅果類や根茎類などを、すり潰す用具としての磨石・石皿を中心とした植物性食料の加工具が飛躍的に増加した。それに伴い根茎類や穀物栽培用の掘削具打製石斧が重用される。こうした重量のある石器類に頼らざるを得ない生業の変化は頻繁な移動を困難にさせた。 縄文草創期の1万年以上前の鹿児島県志布志町内之倉の東黒土田遺跡(ひがしくろつちだ)で、シラス層に掘り込まれたドングリが入った貯蔵穴が発掘された。縄文人は冬季の食料不足に備えて、堅果類を貯蔵穴にたくわえた。貯蔵穴は弥生時代まで存在するが、縄文時代を特徴づける遺構といえる。宮城県里浜貝塚の発掘調査と分析では、秋に採集された堅果類は春までに食べられていた。四季が顕著で、特に冬季には食材が不足する日本では、それに備えてドングリ類やトチの実などの食糧を獲得し保存する事が最重要な課題であった。縄文早期には九州の開地のみならず低湿地にも貯蔵穴がつくられ、中期には近畿地方にまで広がった。低地に設けられた水漬けにする湿式と開地にある乾式のものがあり、しばしば共に群在する。東日本では早期から集落内の乾燥地に大型の貯蔵穴を設ける事が多く、主にクリが貯蔵された。栗の栄養素は可食部の食材100g当たり、156カロリーで、食物繊維が4.2g・カルシウムが30mg・鉄が0.8m・ビタミンB1が0.21mg・ビタミンB2が0.07mg.・ビタミンB6が0.27mg.・ビタミンCが33mgである。栗の一粒が10g程度で、だいたい16kcal/粒である。

 定住生活は旧石器時代の初期から営まれていた。この時代、既に南関東地方の平野部台地上と赤城山麓に、軒を並べる様な集落が存在していた。群馬県富士見村の小暮東新山遺跡から竪穴住居が発掘された。直径約3mの円形で炉跡はなく、深さは約20㎝ある竪穴と7本の柱穴が遺存していた。その7本の柱を結束し、獣皮・萱・小枝などで円錐形の屋根が葺かれたとみられている。この伏屋(ふせや)式平地住居の状態は石材原産地でも同様で、解体・可搬を繰り返す、この簡易式の組み立て方式で周回移動する狩人の住居環境が端的に物語っている。移動するに際し、重要な個人財産であった石器・石材と共に携帯したのが小屋の建材であった。
 定住生活を支える生業、即ち移動せず食料を得る環境が整わなければならない。その一つが旧石器時代の黒曜石原産地で、何万年と続く黒曜石製ナイフ形石器・有茎尖頭器・石鏃とその需要は止まる事無く旺盛であった。その採掘者と加工業者こそ、寧ろ定住を余儀なくされた人々であった。それを遠く需要地へ運ぶ交易人一族の動静も興味深い。
 もちろん、定住化が一気に、同じ地域において起こったのではない。日本列島の各地で、遊動生活を繰り返していた旧石器時代終末期の人々の集団が、その地域ごとに、その環境に適合をしていく過程で、それぞれの変革を遂げた。 今のところ、これらの変革が真っ先に始まったのは九州地方南部、続いて関東平野一円、そしてこれにやや遅れて北海道東部地方と三重県周辺から近畿地方へと考えられている。縄文草創期の複数の竪穴住居は、鹿児島県掃除山遺跡(そうじやま)と三角山遺跡と三重県では粥見井尻遺跡(かゆみいじり)、草創期末になると長野県の「お宮の森裏遺跡」で、同時代に居住したのではないが10棟前後が発見されている。
 日本列島の縄文時代は、まさに旧石器時代の遊動生活から定住生活へという転換を可能にした温暖化が大きな契機になった。長期間移動をせず食料を確保できる自然環境に恵まれ、それを有効に活用する知恵と技術により定住生活が保障されると知った。移動に伴う時間とエネルギーを費消することなく、移動を前提に置かない調理設備・木製道具・多岐な石器・多用途の土器などを開発し大量に保管されるようになった。移動が一番の重荷となる乳幼児を抱える働き盛りの親や経験的知識が豊富な高齢者にゆとりが生じ、次第に定住のムラは人口が増大し、生業が安定すると画期的技術開発が促進されてゆく。狩猟具である弓矢・植物質食料の調理に使われる磨石と敲石、万能ナイフの石匙・樹木を切り拓く磨製石器などが縄文文化を創造していった。
 堅果類の採集が期待できないシベリアのアムール川ガーシャ遺跡から魚油などを貯蔵する土器が発見されている。 縄文時代と年代が重なる遺跡から出土した非常に薄い土器であった。 魚油の内の肝油(かんゆ)は、本来外海のクジラ・タラ・サメ、エイの肝臓に含まれる液体、およびそれから抽出した脂肪分の油の総称である。サメの仲間は浮き袋を持たないため、海水より比重の軽い油を肝臓に蓄え、浮力とした。油の内の肝油は戦後の1970年代後半にかけて、日本人の食生活で不足しがちだったビタミンAやDを補給する手段として広く用いられていた。魚油はまた鯨油同様、灯油として貴重であったようだ。瓦灯(がとう)は島国日本では魚油の利用が多く、明治時代初期まで灯りとしていた漁村もあった。しかし燃やすと悪臭を発することから、屋内の灯火には不向きで、江戸時代に入ってからの菜種油が普及した。


 温暖化の流れを受けて、東北地方ではそれ以降、安定した縄文文化の華が開く。縄文文化の幕開け、それは東北地方の文化的基盤の確立と軌を一にする。土器の様式は、当初は、関東地方で盛行した撚糸文土器(よりいともん)様式までを指していた。しかし、その後の発掘で、旧石器時代の影響を残す石槍などの石器群と同時に、初源期の石鏃などを伴い隆起線文土器、多縄文系土器(たじょうもん)、爪形文土器(つめがたもん)など、撚糸文土器より古い土器群が出土した。最近では、これよりさらに古い無文土器群が出土している。それで当初の縄文文化の早期を、さらに遡る「草創期」という大別が設けられた。
 縄文時代草創期の遺跡群の中で、全国的にその密度が高く、また様々な遺物が発見されているのが、山形県高畠町の洞窟遺跡群である。この地は、草創期に人々が住んだ跡として、凝灰岩の洞窟と岩陰が19ケ所ほど知られ、その内の一ノ沢岩陰や日向洞穴・尼子岩陰など、隆起線文土器や多縄文土器などが、多くの石器類と共に出土している。
  それ以外に、東北地方では、開地に比較的大規模な遺跡も存在している。縄文時代草創期の遺跡として、完形の隆起線文土器を出土した青森県表館遺跡、復元された爪形文土器を出土した岩手県大新町遺跡などがある。しかし、高畠町の洞窟遺跡群ほど質量ともに纏まった遺跡はない。近年、福島県西部の阿賀野川流域で、横断道建設に伴って調査された塩喰(しおばみ)岩陰には、草創期以前に遡る遺物包含層が発見された。
 このような洞窟遺跡群は、広島県帝釈峡(たいしゃくきょう)遺跡群や新潟県小瀬ケ沢・室谷(むろや)洞窟など、いずれも草創期に形成され、断続的な居住痕跡を残しながら弥生文化にまで至る場合が多い。開地の竪穴住居という住様式が普及する直前段階、草創期の人々が積極的に洞窟や岩陰を利用した背景には、年間を通じてほぼ完全な遊動生活を送っていた旧石器時代の人々が、ある程度の逗留を可能とする、ベースキャンプとして、手軽で最適であったからだ。その洞窟・岩陰の利用が、定住化のきっかけになったようだ。
 人々は、定住の便利さを知り、定住志向へと転換をすすめ、その延長上に竪穴住居を生み出し、集落を形成し、縄文文化的定住を実現していった。
 東北地方には、他にも岩手県龍泉新洞(りゅうせんしんどう)洞窟、秋田県岩井堂(いわいどう)洞窟など、各地に洞窟遺跡は散在している。その北部の洞窟遺跡では、いずれも早期以降の遺物しか出土していない。
 縄文時代黎明期の東北地方の文化は、高畠町洞窟遺跡群から、次第に東北地方南部地域の洞窟遺跡、北部の開地遺跡へと拡大していったようだ。 今から約1万3千年前に最後の氷河期が終わり、その後約1万年前に始まる温暖な後氷期への過渡期といえる比較的温暖な晩氷期があった。この温暖化は大型哺乳類の生息環境の悪化を招き、同時に人類の人口増加による乱獲と相まって大型哺乳類の絶滅を引き起こし、新たな食糧資源を探す必要性を生じさせた。一方、この温暖化は、木の実を豊富に生産する落葉広葉樹の森を育成することとなり、半ば必然的に植物性食料へと人々の目を向けさせることとなった。
 ドングリ・トチの実・生食も可能なシイの実・ハシバミ(カバノキ科)の実等の堅果類は、その採集時期が秋の1カ月程度に限定されているが、集中的な採集、長期貯蔵が可能な事で主食として縄文人の生活基盤を支えた。その採集には技術が不要で、性別、年齢に関係なく、誰でも収穫できた。採集保存が簡単な食料であるにも拘わらず、カロリーは予想以上に高く、"米"は100g当たり148kcalなのに対し、"栗"は156kcal、"シイ"256kcal、"胡桃"に至っては、673kcalと、驚くほどの数値を示す。  "胡桃"の食経験は、それほど古くなく、紀元前7,000年前から人類が食用としたとも言われている。脂質が70%をしめるが、ビタミンB1、ビタミンEも多いようだ。縄文人の主食は栗、ドングリなどの堅果類であるが、カロリーこそ提供するが、、"胡桃"は別格として、タンパク質、脂肪、ビタミン類が殆ど含まれていない。クヌギのドングリの栄養成分は100g当たり、 カロリー202kcalで水分 49.3g・糖質 44.2g・たんぱく質2.1g・脂質1.9g・食物繊維1..2g・灰分1.3g・タンニン1.3gである。その為、以前ほど、狩猟、漁労による食料の依存度は減少するが、依然として必須の食物であった。なにより、美味なごちそうで、得がたい食料でもあったが、動物性食料の全体に占める比率はそれ程大きくはなかった。








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