旧人と原人
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岩手日報は平成15(2003)年7月7日、岩手県遠野市宮守村の金取遺跡(かねどりいせき)から出土した石器の地層が、9万~8万年前に堆積した火山灰であることが6日、日本考古学協会の調査で分かった、と報じた。
宮守村の北上山地の国道沿いの丘陵で、昭和59(1984)年5月、当時郵便局勤務の民間の考古学研究者武田良夫(後の岩手考古学会副会長)が、「通りがかりに気になっていた丘の断面の上で作業するパワーショベルが掘った穴の底に石斧がのぞいていた」のを発見した。それを契機に、村の教育委員会は県教育委員会菊地強一・武田良夫らと共に発掘調査を行った。そしてその石斧は7万年前~3万年前に亘る黒沢尻火山灰層という長期の火山灰層に遺存し、その3万3千年前頃の地層からは剥片石器を含む31点が出土した。さらに下層の最も古い地層からチョッパー・チョッピングツールなど粗放だが重量感ある大形石器とチャート(珪質岩)製のスクレイパー(削器)など剥片石器など9点が伴出した。
チョッパーは英語のchop、即ち「叩き切る」の意で、片刃がチョッパーで、両刃のものがチョッピングツールという。原人の時代からある素朴な原始的石器群である。平成14(2002)年、同志社大学教授松藤和人が現地を調査し、その土層の火山灰を分析した結果、石器が出土した最下層は、北上上層の序で、8万9千~8万5千年前、九州から北海道まで飛散した「阿蘇4火山灰」と、約10万年前の御岳第1軽石層との間、即ち北原・愛宕火山灰層であることが判明した。松藤和人はさらに調査し「10万年~9万年前の範囲の時期と位置付けた。日本にもホモ・サピエンス以前の旧人が最終間氷期の温暖な間氷期に存在した証明となった。松藤和人は「その前の氷河期の海面低下でできた陸橋を渡ってきた人類の石器ではないか」と、それ以前の氷期に既に渡来したとみている。
日本の火山列島は、酸性土層のため人骨の伴出が期待できないため、ヨーロッパのネアンデルタール人に当たるか定かではないが、旧人が日本列島に確かに存在していた。ドイツ中西部、ノルトライン・ヴェストファーレン州の州都デュッセルドルフ近郊にあるデュッセル川の小さなネアンデル谷で、安政3(1856)年、旧人の骨が発見された。それをネアンデルタール人と呼んだ。この年の7月21日、アメリカ総領事ハリスと通訳官ヒュースケンが下田に来航した。
考古学的研究による人体細胞内のミトコンドリアDNA分析により、現代人のホモ・サピエンスの祖がアフリ力で誕生し、20万年前の「サピエンス最初の女性」イヴの存在を証明した。ホモ・サピエンスは現在の研究ではベーリング陸橋を渡り、1万5千年前、アラスカから北アメリカに到着した。その後、気温の上昇とともに氷床は縮小し、1万3千年前ごろにカナディアンロッキー山脈の西のコルディエラ氷床とカナダ全土を覆いっていた東のローレンタイド氷床の間に「無氷回廊」と呼ばれる氷に覆われない領域が出現し通行が可能になった。
その回廊ができた時期、カナダのユーコン地方からアメリカ合衆国の北部まで哺乳類を追うように新人類も移動した。マンモスは、北米でも旧石器時代、重要な食料源であった。アメリカ大陸の先住民は1万年数千年前から8千年前ころまで、バイソン、マンモス、マストドンなどの大型哺乳類の狩りを生業としていた。この文化はパレオ・インディアン文化とよばれ、定型化した木の葉形尖頭器の槍先などをもちいていた。大型動物の動きを奪うため湿地に追い込むなど、計画的な協働性を必要とした。それを可能にしたのが言語機能の発達によるコミュニケーション力であった。
13万年~12万年、東アジア一帯で地殻変動が起き、南の島々と周囲のサンゴ礁が隆起し「白い陸のバンド」の浅瀬が九州・沖縄から尖閣諸島・台湾・中国大陸と繋がった。やがて7万年前から1万年前まで続く最後の氷河期がやってきた。5万年前と2万年前に2度の最寒冷期が訪れた。カムチャッカ半島から北海道までが大陸と陸続きとなり、津軽海峡は氷結した。本州は四国・九州と陸続きで、朝鮮半島とは狭い海峡があるだけになる。
既に5万年前に大陸の大形哺乳類を狩りながら新人は日本に広がって行った。南の浅瀬「白い陸のバンド」は、サンゴの陸橋となり、新人の北上を容易にした。5万年前の最終氷期中の休氷期の温暖期、その暖気のピーク時の年平均温度は現在の気温とほぼ同様であった。それはスンダランドの諸島からフィリピンの暖水帯から発した黒潮を房総半島沖へ北上させた。スンダランドの諸島は東アジア系新人の原郷の一つである。その新人は海洋民族として丸木舟やイカダを操り海洋食文化とともに、かつての「白い陸のバンド」を北上した。
東京大学大学院理学系研究科教授木村賛は、現代人の「柱状大腿骨」の横断面が丸いのに比べ、、狩猟採集民族では太くて丸い大腿骨の後ろ側に細い柱がくっついた形状で、その下の脛骨が左右扁平になっている、という。この骨の形態は、前後の方向の激しい動きに対応する走りに強い構造と言われている。縄文人の男性にも多くみられるという。
ホモ・サピエンスが住むヨーロッパの約4万~3万5千年前の遺跡から、槍先の尖頭器を装着したと思われる投槍器が出土している。槍の推進力を高め、遠い標的を射るために工夫された戦闘・狩猟用の補助用具だ。端にかぎ手を備えた棒状の木や獣骨の上に槍を合わせてのせ、槍を強く押し出しながら、かぎ手による推力を最大限に利用して投げた。弓矢よりも登場は早い。フランス・スペインを舞台にしたヨーロッパ後期旧石器時代末期のマドレーヌ文化(1万7千年前~1万2千年前)、ツンドラの平原でトナカイ狩猟をしたマドレーヌ人の投槍器は、主にマンモスの牙やシカの角製でトナカイやウシなど見事な彫刻が施されている。エスキモーおよびイヌイット、カリフォルニアのアメリカインディアンなども投槍器を活用していた。
手投げの槍は、ホモ・サピエンスが創始したようだ。だが至近距離から刺す突き槍より殺傷力は弱い。投げ槍では、大形哺乳動物に直ちに致命傷を与える迄に至らない。槍に射られて逃げ去る獲物を、執拗に追いかけ投げ槍を続けて投打し、弱って動きが止まった時に、突き槍で止めを刺したのだろう。飛び道具の発明と「走る狩猟」、それがホモ・サピエンスの体型をつくった。ただ海洋食文化を育んできたスンダランド諸島の旧石器時代人は、また別の体型になっていたかもしれない。
ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは両存し、別々の集落・集団を営み生活していたようだ。ホモ・サピエンスは、ヴュルム氷期の紀元前3万4千頃から、石材から石器製作に不要な部分を取り除き石核とし、それから様々な剥離技法を多用し細長い石刃を作り、スクレーパー、ナイフ、彫刻刀などを製作していた。骨や角で石器を強く押しつけて、きわめて精緻な整形を行う「押圧剥離」という高度な技法も確立していた。骨角器には、槍・銛、装身具らしきものもあり、技術の伝承や集団社会のあり方など新しい文化を創造していた。
ネアンデルタール人の化石遺骨もこれまで百体ぐらい見つかっている。世界中に存在したネアンデルタール人は、10万人程度の規模だったとも考えられている。ホモ・サピエンス人は、百万人ぐらいに人口が増加していたとみられる。それぞれ両存したが、ホモ・サピエンスは技術やコミュニケーション力を向上させ集団力を大きくし組織化し、収穫量を増大させた。ネアンデルタール人には知的に限界があったようで、高度な文化情報の伝達能力に欠け、新しい協働的組織や技術文化を創始できずに人口や集団の規模が拡大しないまま、やがて生活領域が狭まりネアンデルタール人社会は自ずから行き詰まって行き、人口が減少してやがて集団の基本母数すら維持できなくなった。増大するホモ・サピエンスとの生存領域の争いで、不利な環境に追いやられ、結果的に、成員数の減少化が止まらず自滅した。
一方、ホモ・サピエンスは技術やコミュニケーション能力を向上させ集団を大きくし、収穫量も高まり、それぞれの環境に適応しながら地球全体に広がっていった