霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

後期旧石器時代の尖頭器の発展

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



 日本列島は旧石器時代に降った火山灰が層をなす酸性土壌と、日本列島が形成され多雨多湿となり、石器は保存されるが人骨・ 骨器・木器・鉄器などは、全て腐食して残らない。だが堆積された火山灰地層の分析により、地層中に埋もれた遺跡と石器の年代が明らかになる。日本列島の旧石器文化は、主に3万5千年前から1万8千年前を中心に置くナイフ形石器文化が大部分を占めている。その時代の主な石器の形状から便宜的に命名された。
 日本の後期旧石器時代の特徴的な石刃で、剥片自身がもつ鋭い側縁の一部をナイフの刃のようにし、ほかの側縁は鈍くつぶす調整剥離を加え、現在のナイフに似た形に仕上げられた石器であった事から名付けられた。しかしその先端の刃の形式は、カンナのように水平のもの、両刃の剣先のように鋭尖なもの、切り出しナイフのように斜めの片刃が切っ先になっているものなど多種様々である。

 通常槍の穂先に使用され、突き槍・投げ槍の部品であった。そのナイフ形穂先は、大形動物の狩猟用に工夫され、やがて約2万年前頃から、ナウマンゾウやオオツノシカが死滅して、狩猟対象が敏捷な小形動物になると、投槍器から投げ槍として打ち出される木の葉形尖頭器に改良された。その投槍器から打ち出される石槍式穂先の威力は、ナイフ式穂先と比べ命中率を格段に向上させ、殺傷力は数十倍に達した。やがて比較的加工が容易で、自在に組み替えられる細石器式穂先に代わっていった。同形の細石器から獲物に合わせて、穂先の組み合わせと形状が変えられ多種の穂先を作り出した。それが漁労具のヤスやモリにも改良され用途が広がり、狩猟の不足分を魚介類で補うようになった。

 石槍式穂先の改良と更新は日本列島で一律に起きたわけでなく、周回移動先ごとに食料獲得の様相が異なる地域環境への適応と、得意とする狩猟パターン、集団が保有する石材入手ルート、石材ごとに異なる石器技法の伝承と現実との葛藤が繰り返された。そのため地域ごとに個性的差異が生じ穂先の形式も石材も異なるようになった。一般的には製作が至難な有茎尖頭器が未発達な地域が多く、その後の細石器文化も含め、その導入は一様でなかった。
 旧石器時代人は狩人であると同時に、槍の穂先を作る石工であった。動き回る獲物を追い周回移動するだけでなく、消尽される石器石材入手のため、度々原産地へ往復移動しなければならない。獲物をとるため先ず原産地で石材を手当てし槍先を生産し、狩猟は長期に及ぶため槍先尖頭器は個々に複数、皮袋に携帯した。石器は消耗品である。そのため狩猟しながら、繰り返し石材原産地を訪れなければならなかった。
 富士山南麓にある標高1,504mの愛鷹連峰(あしたかれんぽう)の山麓に、旧石器時代の遺跡群が遺存している。それらは富士・箱根火山の休灰期(きゅうかいき)の植物が繁茂していたローム層の中の黒色土層に埋没していた。その最下層にあったのが台形様石器で、ナイフ形石器はその上層部から出土した。両石器とも獲物を突き刺す狩猟具であり、その骨肉を更に切り分ける調理具でもあった。
 後期旧石器時代以前ではチョッパー・チョッパーツールに代表される石器時代である。獲物に一撃を加えて殺し獣皮を剥ぐための粗放な核石器(礫器)と、木や竹などを削る剥片石器などが主体であった。

 台形様石器の登場により、後期石器時代文化が始まったとみる。それは新人が日本列島の旧人を絶滅に追いやる画期となった。台形様石器は手投げ槍の嚆矢で、それまでのライオン・オオカミなどのように待ち伏せし狩り獲る狩猟法から、獲物の棲息領域に積極的に侵入し狩をする事で収穫量は格段に増大した。
 台形石器は石核から横長剥片と呼ばれる幅広で短い剥片を欠き取り、その長い両端を削り落として形とし、その多くは粗雑な加工であったため方形・三角形・ひし形など不定形であった。恐らく穂先の刺殺力と石刃の打撃力を重視する狩人であったようだ。
 やがて手投げ槍猟法が伝播すると、先端が鋭尖の方が獲物の堅い皮を貫き決定的な打撃を与えると学習した。そしてナイフ状石器に改良される縦長剥片の有効性に気付く契機となった。当初は縦長剥片の先端に、鋭尖部として細長い先端加工が行なわれただけであった。ナイフ形石器の製作は旧石器時代の画期となる石刃技法を確立させた。石核から石材の節理をなぞって縦長にきれいに剥片を剥がし、中央部の幅広部分の抵抗を弱めるため、石器廻りの側縁の突起を潰す加工を施し片刃や両刃に成形した。

 尖頭器は、シベリア・ユーラシアでは広い意味をもち、単に先端が鋭く尖った石器を総称した。先端の尖った ナイフ形石器は、朝鮮半島・中国北部・沿海州でも出土しているが、日本列島で特段に発達した尖頭器で、やがて登場する両刃の槍先形尖頭器とは区別し、その片刃の利器をナイフ形石器と称した。
 日本列島では、ナイフ形石器文化に3つの階梯があった。先ナイフ形石器文化の段階では、礫器・錐状石器・ナイフ状石器・スクレイバー類などがあった。礫器は人類が作った最古の石器といわれている。石英・安山岩など拳大の河原石を石材として、石のハンマー(打撃具)で石材の一端に直接打ちつけて剥離させる。その剥離面側に沿って同じ方向に打撃を繰り返しことで刃部とし、その裏面にも同様のハンマー打撃をし、それを繰り返しながらジグザク状の刃部を生じさせる。この礫器作業の延長上で、錐状石器・ナイフ状石器・スクレイバー類などが直接打法により製作された。礫器は植物の採集、動物の解体、錐状石器は先端が錐で穴あけ用具として、ナイフ状石器は槍の穂先として狩猟用に、スクレイバーは捕殺した動物の獣皮を剥ぎなめすなど、諸石器は種々の用途に使用された。やがて石斧が開発されると、木の伐採とその用材加工、獣骨肉の処理具、大型動物の解体具などと生業に伴い多岐的に活用される。
 ナイフ形石器文化の第1期、3万5千年前に石刃技法という、石器原石の不要部分取り除き石核をつくり、その石核から石刃と呼ぶ縦長の剥片を連続的に剥離させる画期的な石器製造技術が確立された。それは地域ごとに異なる石材原石と技法に左右される。たとえば頁岩が主体の東北・信越地方では長さ10㎝が比較的多い。関東・中部地方の原産地は八島ヶ原湿原の南にある星ヶ塔が最大の供給地で、黒曜石が主原料であるため細密な加工を容易とし、周辺の「諏訪湖東岸遺跡群」でも同様の5cm未満が多い。
 約3万2千年前、巧な磨製石斧が作られた。刃先に磨きをかけた石斧のことである。刃先を砥ぐ当時の砥石が出土している。磨製石斧は大形獣の狩猟や解体、木の伐採や切断、土掘りなど多目的に用いられたと推定される。 石材は、黒曜石、珪質頁岩、チャート、サヌカイト、ガラス質安山岩などが利用されている。

 

 敲石(たたきいし)は、木の実を敲き割り,石皿の上で擦りつぶして粉にしたりする調理用具であり、石器製作用具でもあった。出土石器には敲打痕(こうだこん)が残っている。磨石(すりいし)は主としてクリ・ドングリなどの堅果類をすりつぶし、粉をひくために用いた礫石器である。棒状の長いものはすり棒と呼ばれることもある。いずれも調理用具である。
 東京都杉並区高井戸東遺跡では、約3万2千年前の旧石器時代の炭化した大型木片と磨製石斧などが出土している。東京都小平市の鈴木遺跡では、石器製作場・たき火跡などが発掘され、蒸焼調理跡とみられる窪地からは拳大ほどの礫群が伴出した。石は加熱され焼けて割れていたものが多かった。炭化木片が集中する場所は、窪みがあり屋外の調理施設とみられている。焼礫の上に肉をのせ石焼きにするか、焼礫の間で蒸し煮にするのが定番であったようだ。
 最終氷期の植生は、気候が様々で一概ではないが、東北日本はマツ・スギの樹林帯で、西南日本はクリ・ブナ・ナラの樹林帯であったようだ。礫群は落葉樹林帯に多くみられ、敲石や磨石の登場は既にクリ・ドングリなどの木の実や山菜などを石焼き・蒸し煮にしていたからであろう。縄文土器が突然出現するわけはなく、樹皮・笹・獣皮などの植物製容器や皮革製容器が、早い段階から使われていたと考えられる。旧石器時代の人々は、比較的安定して収穫できる植物の採集を重視し、容器に水を入れ、クリや磨り潰したドングリ団子を浸し、その中に焼いた石を入れるストーン・ボイリングという調理法がとられていたようだ。次第に植物食の種類が広がり、調理用石器と調理方法の開発により、摂取量が増えていった。
 その他、削器・掻器・彫器・錐器など石器の種類が一気に増加する。
 次第に石器製作者が鋭利さと完成度の均一さに拘るようになると、良質石材産地を探索し石器石材を採取し居住地に運び込んだ。産地が遠く日常的な運搬に適さなければ、集落ごと石材産地へ居住地を移した。八島高原周辺の黒曜石原産地が、一大開拓期を迎えた。
 最後の変化が、特に基部に茎(なかご)を備えた有茎尖頭器化する過程であった。ナイフ形石器の改良形、木の葉形槍先尖頭器はナイフ形石器の盛行期の約2万年前から出現し、ナイフ形石器は後期旧石器時代末葉に衰退していく。代わって木の葉形尖頭器が、著しく発達し量的にもめざましく増加した。
 槍先形尖頭器は、細石器が多用されると一時的に減少傾向をみせるが復活し、縄文土器が出現する前後に最盛期を迎えた。旧石器時代晩期の槍先形尖頭器は、一般的に小形のものが多く、調整も周辺部調整、片面調整、両面調整などと多様であるのに対し、縄文時代の槍先形尖頭器は長大で、大半が両面調整のものへと定式化されていく。両者とも柄に取り付けられた槍の穂先であるが、前者は投げ槍に多く用いられ、後者は突き槍が主で、中型動物を弓矢で射止めて、槍で止めを刺す。細石器は独特で槍の穂先の替え刃で、組み合わせを変えれば、同じ部品から用途の違う何種類もの槍が作り出された。

 2万1千年前~1万8千年前が後期旧石器時代で最も寒冷化した最終氷期の最寒冷期、その気温の低下に耐えられなくなり、大形獣の絶滅が速まった。ナウマンゾウ・オオツノシカ・ヤギュウなど大形哺乳類が本州島では2万年前頃に、北海道では1万6千年前頃までに絶滅した。その結果、イノシシ・ニホンジカなど中型哺乳動物が主な狩猟対象となった。これらは嗅覚が鋭く敏捷で、ナイフ形投げ槍や突き槍よりも、投槍具から打ち出される木の葉形尖頭器の方が飛躍的に威力と命中率を高めた。槍先尖頭器は石槍とも呼ばれ最も槍の穂先らしい左右対称の木の葉そっくりの細長い形状をしており、その製作には、ナイフ形と比べ完成率が低いこともあって原石の投入量は、1点当たりその数10倍に、その作業量もナイフ形の10数点分に相当するという。
 一方、細石器は幅5mm、厚さ2mm程度、長さ2cmに満たないものが多く、その名の通り細かい。槍先形尖頭器1点分の原石から数10点の細石器が製作できる。まさにカミソリの替え刃で、骨や木で作る槍の穂先に沿って細い溝を彫り組合せ式に細石器を装着する。剥片石器であるが、石刃技法が最も進化したもので、加工仕上げの容易さは、ナイフ形に比べて格段に勝る。細石刃も横長の細石刃核から次々と節理に沿って剥離させる製法で、破損した部品の交換修復も簡単であった。
 九州が姶良火山活動で被災し、その後立ち直って最寒冷期に立ち向かっていたころ、その細石器文化が朝鮮半島から北海道に伝播する。

 ホモ・サピエンスも3万年前にはヒマラヤマの北側から極寒のシベリアに進出していった。約2万5千年前に、そのシベリア人が発明した縫い針でトナカイの毛皮の防寒服をしつらえ、ツンドラの永久凍土で果敢にマンモス・トナカイの狩を行っていた。シベリア人がマンモス狩猟具として発明したのが、細石器を両側に埋め込んだ穂先で、その槍で数人掛かりでマンモス狩をした。
 マンモスを追いながら、細石器文化はモンゴル・華北・朝鮮半島と浸透し北海道に伝来するが、なぜか日本列島全域に広まるのは、6,000年後の晩氷期で、それは北海道へ伝播した技法と異なる大陸南方系の系統であった。

 

 同時期、津軽海峡以南では、狩猟具に大きな進歩をもたらした有茎尖頭器が急増していく。やがて弓矢の渡来とともに、タヌキやウサギなどの小動物も狩猟対象となっていった。弓矢と槍の中間的な機能を果たした投げ槍(槍先形尖頭器)は弓矢の普及によって消滅していく。弓と矢柄は、旧石器時代晩期のものがヨーロッパで若干発見されている。
 ナイフ形石器・槍先形尖頭器・細石器と続く3階梯は、関東・中部地方には当てはまるが、北海道にはナイフ形石器と槍先形尖頭器がなく、九州地方では槍先形尖頭器が見当たらない。

 量的には少ないが朝鮮半島の南端にある和順(ファスン)大田遺跡や晋州(チンジュ)長岡里遺跡、長興新北(シンブク)旧石器遺跡などから数点の黒曜石が出土している。その大半が2万年前の、しかも遥か遠く8百Kmの離れた白頭山産の黒曜石であった。新北遺跡では佐賀県腰岳(こしだけ)や長崎県針尾などの西北九州産黒曜石も遺存していた。細石刃文化段階での朝鮮半島と日本列島との交流が垣間見られる。








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