霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

鷹山遺跡群、旧石器時代前期(4万年前以降)

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



 長野県小県郡長和町(ちいさがたぐん ながわまち)鷹山地区は、中央高地黒曜石原産地帯の一角である。標高1,487mの星糞峠と呼ばれる付近の黒曜石原産地とその周辺の石器時代遺跡の密集地、鷹山遺跡群がある。東西にある高松山と虫倉山の鞍部にあたるのが星糞峠で、そこから虫倉山の山頂付近、標高1,547mまで南北220m、東西300mの範囲で黒曜石鉱山の採掘址が広がっている。虫倉山の噴火口址のようだ。その南側には大笹山の緩斜面が下り、鷹山川が山沿いを流れる。その一帯はかつて湿地であった。この旧湿地の地下に黒曜石の礫塊堆積層があり、その一部が鷹山川中流に露出し流に洗われている。星糞峠には黒曜石の露頭はなく、ズリと呼ばれる黒曜石の破片や割りくずが虫倉山の中腹から眼下の旧湿地に達し、鷹山川中流域にまで下っている。それは星糞峠付近の縄文時代の黒曜石地下採掘による鉱山活動から生じた膨大な鉱滓であった。それが鷹山川流域に流れ込んだ。星糞とは、辺り一面に展開しキラキラ輝くズリが由来となっている。

 鷹山地区には、旧石器時代の黒曜石石器製作場とみられる遺跡がたくさん集まっており、さらに、星糞峠から続く噴火口のあったと思われる虫倉山の斜面一帯には、旧石器時代からの鉱山跡が発掘されている。黒耀石採掘の鉱山活動が最も盛んになるのは縄文時代であったが、後期旧石器時代初頭の鷹山地区は、既に石器原石の採取場として開発されていた。そこでは製作加工はしていなかった。狩場を広く周回する狩猟と植物採集を生業とする旧石器時代の集団が、各地に広く分布する石材地で狩猟をしながら適宜補充し廃棄していた。割れると鋭い縁辺が生じる非常に緻密なサヌカイトや、層理面に平行して剥げ安い性質をもつ頁岩、加工しやすいガラス質の黒曜石など、既に集団全体で共有する情報の蓄積に基づきながら、諸々の長短を考慮し採集を兼ねながらの狩猟活動であった。産地が限定される石材は、調達地近傍で粗割り(あらわり)され各居住地やキャンプサイトで再加工され破棄された。広く当たり前に入手できる石材であれば、生業過程で使い潰され直ぐ廃棄された。黒曜石などは産地が限定され貴重石材であるため長期間拐帯された。全体でみれば希少な石材であるが、用途が広く再加工に適し、それが繰り返されるため各居住地で多くが遺存されるようになる。

 長野県と群馬県の県境、観光地軽井沢の南には、佐久市八風山(はつぷうさん)がそびえる。この八風山は、石器の良好な素材となる「ガラス質黒色安山岩」の産地である。八風山遺跡群がある。旧石器時代初頭の日本列島最古の大規模石器製作地である。安山岩の露頭は発見されていないが、その西南麓を流れる香坂川は、石器の良好な素材となる「ガラス質黒色安山岩」の原石を洗い出していて、巨大な原石を数多くみることができる。その右岸の流域約1Kmに8遺跡が群在する。石槍製作に伴う膨大な小塊が7万点出土したが、完成したナイフ形石器はほとんど共伴しなかった。石器製作地であれば、完成品は消費地遺跡に搬出されたものと考えられる。八風山Ⅱ遺跡では、約3万年前、姶良火山灰鍵テフラ層下位の石器群も発見されており、基部加工ナイフや局部磨製石刃なども出土している。
 群馬県甘楽郡甘楽町白倉字下原の白倉下原遺跡は鏑川右岸の河岸段丘上にあり、その出土品のナイフ形石器の素材と完成品が、八風山遺跡群から搬出されているという。さらに南関東の旧石器遺跡からも同じ原産地の石器が出土している。
 南関東地方平野部には、流紋岩や珪石など石器石材を産出する地域が各地にあった。しかし南関東の北方の平野部に集落を構える後期旧石器時代の人々は、そうした在地の石材を余り重視していなかった。姶良火山の大噴火までの時代は、赤城山麓産の黒色安山岩や黒色頁岩が石材として最多となる。狩場内の周回を繰り返しながら、遠隔地の石材産地に出かけ石材原石を探し、その場で石器に加工して狩場に戻り使い潰された。石材産地に戻る往復移動の間でも、大形哺乳動物の狩は行われていた。
 この時代、既に南関東地方の平野部台地上と赤城山麓に、軒を並べる様な集落が存在していた。群馬県富士見村の小暮東新山遺跡から竪穴住居が発掘された。直径約3mの円形で炉跡はなく、深さは約20㎝ある竪穴と7本の柱穴が遺存していた。その7本の柱を結束し、獣皮・萱・小枝などで円錐形の屋根が葺かれたとみられている。この伏屋(ふせや)式平地住居の状態は石材原産地でも同様で、解体・可搬を繰り返す、この簡易式の組み立て方式で周回移動する狩人の住居環境が端的に物語っている。移動するに際し、重要な個人財産であった石器・石材と共に携帯したのが小屋の建材であった。
 八島ヶ原周辺では、小屋内に炉を設け、這松・ナナカマド・シラビソ・トウヒ・笹などを燃材として夜間の暖をとっていたであろう。

  昭和58(1983)年、群馬県伊勢崎市下触牛状(しもふれうしぶせ)遺跡の発掘調査により、3万5千~2万8千年前の直径50mの環状をなす、26ブロック(一家族が同居する住居)からなる旧石器時代の「還状ブロック群」、即ち百人を超える人々の集落跡が出土した。そのブロック内には、石器製作の作業場と見られるスポットがあった。八風山遺跡にもナイフ状石器・剥片・石片、そのもとになる母岩などが散乱するスポットがあった。ブロックを分析すると、その住居には平均して2~3人の人が石器製作を行い、1~2人の子供がいて通常5人前後の家族であったようだ。

 仙台市の富沢遺跡は地表下5mの地層で発見された。最終氷河期の最寒冷期、2万年前の後期旧石器時代の地層であった。遺跡から出土した樹木はトウヒやグイマツなどの針葉樹が多く、わずかにダケカンバなどの広葉樹が混じっていた。当時の気候風土が知られる。針葉樹を中心とした湿地林が広がり、まばらな草原の湿地際に、火を焚いた跡を中心に、石器・石核・破損したナイフ形石器・大小の剥片など100を超える石器群と樹木・昆虫の遺体・シカの仲間の糞などと、焚き火跡の南東側からは著しい摩耗痕を留める光沢のある剥片石器も出土している。富沢遺跡は、旧石器時代の人間と自然環境や暮らしを具体的に伝える遺物が多い、と注目されている。恐らくは4~5人の狩人が、焚き火で暖をとりながら、狩で刃こぼれした穂先の補修や獲物の皮を剥ぎ、肉を焼いて食べ、翌日の狩に備えたキャンプ・サイトではなかったか。
 相互に原石や石器を交換し合う家族同士の2、3のブロックがユニットを形成し、周回移動もユニットごとで、通常の狩では、そのユニット内の狩人が集まり狩場でキャンプをした。
 時として後期旧石器時代人は、「還状ブロック群」と呼ばれる集落を営み、50名を越える大集団を組み大形動物を狙う共同狩猟法が行われた。下触牛状遺跡がそれを語る。やがて共同狩猟が終わると、ユニットごとに別々に数地点に分散し居住した。次の大規模な狩猟まではユニット単独か、親しいユニットと協働して中・小形動物の狩をした。埼玉県所沢市の砂川遺跡では、6ブロックの集落が出土し、3ブロックごとに区分される2つユニットが確認された。それぞれナイフ形石器等の製作工程が明らかとなるが、石器自体に歴然とした差異が目視できた。








Home contents ←Back Next→