霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

後期旧石器時代中期(2万6千年前以降)

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



 中期になると原石を入手する鷹山地区でも石器が製作された。産地が限定され優良な石器は珍重され需要が増え、重ねて専門職的に製作されれば希少となり、狩人集団間の社交的交易網に乗り遥か遠方へ運ばれた。鷹山地区の原石製ナイフ形石器素材とその完成品が関東地方平野部に流布した。
 神奈川県柏ヶ谷(かしわがや)長ヲサ(ながおさ)遺跡の石器原石は、依然として伊豆半島柏峠(旧伊東街道)・箱根畑宿系が大きな比率を占めていたが、同県綾瀬市の相模野台地にある寺尾遺跡第Ⅵ文化層の石器は、中央高地の黒曜石原産地産が主体となっている。当期の大規模な石器製作地が、鷹山川沿いの旧湿地内の鷹山第Ⅰ遺跡M地点にある。関東地方平野部の狩人集団が、当地を往復する狩場としながら石材を入手し石器を製作していた。その上で、狩場内でも石材を探し副次的に石器を作っていた。
 2万6千年~2万1千年前、中部高地に巨大な伏屋式平地住居が出現する。それはユニット単独か、親しいユニット同士が共同して居住し、石材原産地で原石を入手し、大量に石器を製作し、仕上げた石器を狩場集落に運び込む目的のイエであった。彼らが狩場に戻ると、空家として放置され、やがて石器が使い潰されればされれば、終生に亘る石器手工業のの拠点となった。

 姶良火山灰鍵テフラ層以降の後半になると、石器製作地は鷹山から星糞峠にまで上がるが、関東・中部地方の黒曜石原産地に大規模な石器製作地がなくなる。関東地方の平野部には、河川流域に東京都の野川遺跡のように多くの遺跡が群在する。当時の狩人団は氷河期の最寒冷期の最中苦戦しながらも、シベリア系のヘラジカ・ヒグマ・オオカミなどの動物群と中国北東部系のナウマンゾウ・オオツノシカ・ヤギュウなど動物群を狩猟していた。ナウマンゾウ・オオツノシカ・ヘラジカ・ヤギュウなど大形哺乳類が本州島では2万年前頃に、北海道では1万6千年前頃までに絶滅した。ナウマンゾウの最も新しい化石は岐阜県美山町熊石洞の16,700年前、オオツノシカは広島県帝釈峡の11,000年前、ヘラジカは岩手、神奈川、岐阜で計4例あるが、いずれも約2万年前のものである。一挙に膨大な収量ができる獲物が消滅し生業の転機を迫られた。

 長野県野尻湖で「野尻湖発掘調査団」が、現在でも北欧や北米などに生息するヘラジカの下顎の臼歯の化石を発見した。地層から約4万1千年前、中期旧石器時代の国内最古の化石となる。野尻湖の湖底遺跡は下層の古い順から下部、中部、上部と大きく3つに分けられた。その中部野尻湖層Ⅰは約41,000年~39、000年前の層で、ナウマンゾウの頭骨・脇骨・脊髄骨や牙が、その骨製のクリーバー(cleaver;ナタ状骨器)・骨核・骨製剥片や槍状の木器などと伴出した。当時の湖の岸辺にそって北東から南西方向約40mの範囲にあたる。遺跡からは13,645点の動物化石が出土し、種類が判別されたは6,180点で、ナウマンゾウ・ヤベオオツノシカ・ニホンジカ・ヒグマ・ハタネズミ・ヤギュウ・ノウサギなど7種の哺乳類の骨と鳥類が少々検出されている。その内ナウマンゾウは89.3%とヤベオオツノシカは10.4%で、2種だけで99.7%を占めている。4万年前の旧石器時代の野尻湖人は、ナウマンゾウを湖沼に追い浅瀬に足がはまって身動きができない状態にし狩り獲った。解体し肉をとり分けても重く運び出しが困難なナウマンゾウは、その場を骨製骨器の製作場とした。現在、ヒグマは本州で絶滅し、ヤギュウは日本列島から消えている。

 マンモスは更新世後期に生息し、最終氷期に絶滅した象で、ユーラシア大陸北部からアラスカ・カナダ東部にかけて化石が出土している。インドゾウに近く、体高約3・5m、全身が30~40cmの長い剛毛で覆われ、氷河期に耐えられるよう皮下脂肪が厚く、長く湾曲した牙を持つ。北海道で歯の化石が発見されており、シベリアからは凍結死体が発掘されている。
 ナウマンゾウも約2万年前の更新世後期まで日本に生息している。現生のアジアゾウと比べ、やや小型である。氷河期の寒冷な気候に適応するため、皮下脂肪が発達し、全身は体毛で覆われていたようだ。日本、朝鮮半島、中国に分布している。ナウマンゾウという呼び名は横須賀市で発見されたゾウの化石に由来する。明治9年(1876)、今は海軍基地内にある横須賀市稲岡町の丘にあった洞穴からゾウの化石が発見された。インドで発見されたゾウ化石と比較研究を行った結果、その亜種であることがわった。大正13年(1924)に京都大学助教授だった槇山次郎が「ナウマン象」と命名した。当初、命名者である槇山氏の名前も入り、「ナウマン・マキヤマ」というのが正確な命名であった。その後、最初に日本のゾウ化石を研究した東大の地質学者であったドイツ人ナウマン(明治8~18年日本滞在)の名前で呼ばれるようになった。


 旧石器時代人にとって、マンモス・ナウマンゾウ・オオツノシカなどの大型哺乳類の絶滅の危機は、当時日本列島人の生業を脅かす衝撃であった。オオツノシカでも肩高約2.3m、体長3.1mに達し大型獣であった。現在のニホンシカ500kと比較して、当時のゾウは10倍の5千kとなる。正味4千k、それを一人当たり1日400gとすると5人家族で2千日の分量となる。ここに大形哺乳動物の絶滅理由が明らかになる。絶好の食料源が、樹木が叢生しきれない氷河期の原野に散在していれば格好の標的となる。現実には集落家族の1~2人が狩猟に参加し、その扶養家族は4~5人とする、狩猟には少なく見積もっても最低10人が必要となる。それでも扶養家族を加えても一人当たり200日分となる。

 寒冷期の草原や沼沢を広域に回遊する大型獲物の枯渇により、狭いテリトリー内を周回する中小型の動物が狩猟対象となり、狩場の周回移動はその生息地の平原部が主となり、石材も周辺地の身近な原石を活用するようになった。シカ・イノシシ・クマ・オオカミ・キツネ・タヌキなどは、車山・霧ヶ峰・八島ヶ原などに生息する固体よりも、里の湯川・芹ヶ沢に生存する方が食料に恵まれ大形であったようだ。結局、黒曜石の原産地から石器製作施設が消滅していく。だが南関東の北方の平野部に集落を構える人々は、蓼科・八島ヶ原周辺・和田峠の中部高地産の黒曜石を圧倒的に活用していく。当時の旧石器時代人は、個体数が減少し続ける大形獲物を追うよりも、狩場内の周回活動の期間をできるだけ長くし小形獲物を狩る方がより効果的と知った。それまで石材産地で石器を製作していたが、原石を持ち帰り狩場内で狩をしながら石器製作に励んだ。更に狩場内にある在地の石材を見直し石器製作にあてようと工夫している。
 やがて、平野部の河川流域に遺跡が蝟集し、そこに集住する人々は黒曜石原産地を訪れる事も無く、平原台地の狩場内を専ら周回するようになる。大規模石器製作地もそのエリア内に留まり盛んに石器製作に励んでいた。ただ姶良火山灰鍵テフラ層後は、南関東地方の下総台地や大宮台地・武蔵野台地・相模野台地の各台地とも、石材の構成比では信州系の黒曜石の方が高い。箱根山西麓の伊豆半島の三島市やその南東の田方郡函南町の遺跡でも、箱根・伊豆いずれもが黒曜石の産地でありながら、蓼科・八島ヶ原周辺・和田峠の黒曜石の比率の方が高く、原産地は広く分散しているが地元産が少ない。
 ナイフ形石器は日本列島で発達した石器で、日本では後期旧石器時代晩期の両刃の槍先形尖頭器と区別し、その片刃の利器をナイフ形石器と称した。狩猟を用途とするナイフ形石器で、突き槍・投げ槍として使われた。やがて2万3千年前頃からより強度な角錐状石器が登場する。朝鮮半島、全羅北道任実郡(イムシル=グン)でも出土している。強靭な獣皮を貫く槍先が誕生した。従来型のナイフ形石器は、次第に小型化し投げ槍用とされた。それが更に小型化され組み合わせ槍の側刃器となる細石器が替え刃となる投げ槍が工夫されると衰退・消滅した。
 関東地方の投げ槍は、ナイフ形石器が画期となり浸透したが、より強靭な角錐状石器となり、ついで2万年前頃、木の葉形の槍先尖頭器となり、次第に大型化し主に突き槍として縄文時代を迎える。  細石器はより有効な弓矢の伝来により、取って代わられた。九州や北海道では弓矢の伝播が遅れ細石器文化が長く続いた。
 氷河期の厳しい後期旧石器時代、植物採集資源に乏しく、その主な生業は、多くを狩猟に頼らざるを得なく、狩猟具を進歩させ続けてきた。その厳しい品質と使い易さを条件とする石器石材需要に応えられたのが、信州中部地方の黒曜石原産地であった。旺盛な需要に応えられる産出量を有する原産地と産直供給の需要地へのルート、その交易条件を決められる仲介者がいた。しかも物々交換の流通網が整備されていた。








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