霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

八島湿原周辺の黒曜石遺跡群と車山を最高峰とする鷲ヶ峰から連なる車山連峰が分水嶺となる関係

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



 地図を見ると分かり易い、男女倉山も含む鷲ヶ峰から連なる車山連峰と八島ヶ原湿原を含む分水界から、北東に流れ下る和田川・男女川・大門川などの川が千曲川・信濃川の原水となり日本海に通じ、それが黒曜石の運搬ルートなり山内丸山遺跡にまで達している。古代、川の流域と狩人がたどる獣道こそが複合的に繋がる交通要路であった。
 分水界から南西に下る東俣川・砥川・角間川・音無川などが諏訪湖に集まり、ただ一本・天竜川として太平洋に達する。塩尻峠・小野峠を越えれば、木曽と伊那谷に通じる。
 この八島ヶ原周辺で採れる黒曜石の品質が優れ、天然の物流ルートに恵まれ、それらが八島ヶ原周辺の黒曜石が広く日本に伝播した理由でもあった。

 長野県には、全国に誇れる遺跡群が各所にある。その代表例が野尻湖遺跡群である。その遺跡群は野尻湖の西岸を中心に、旧石器時代から縄文時代草創期(1万3千年から1万年前)の遺跡が約40ヶ所も集中する日本を代表する遺跡群である。
 その発見は、昭和28(1953)年、芹沢長介、麻生優両氏による野尻湖・杉久保遺跡の調査で始まった。その後は野尻湖遺跡調査団を中心に、野尻湖周辺の発掘が進められ今日に至る。この杉久保遺跡でも、見事な研磨痕が認められる磨製石斧が発見された。
 芹沢 長介(せりざわ ちょうすけ 1919年0月21日 - 2006年3月16日)は静岡県静岡市出身の考古学者で、東北大学名誉教授となった。日本の旧石器時代、縄文時代研究の第一人者で、日本各地の旧石器時代遺跡を調査している。重要なのは、岩宿遺跡発掘の最大の功労者・相沢忠洋の終生の友であり、当初からの理解者であり協力者であった。父は人間国宝で染色家の芹沢銈介である。
 明治大学助教授の杉原荘介と対立し、明治大学大学院を中途退学し、昭和38(1963)年東北大学へ移籍した。その契機は、文部省で行われた岩宿遺跡の新聞記者発表にあった。その発表原稿を杉原荘介助教授より渡された、その研究員である芹沢長介は、相沢忠洋の名前がまったく載っていないことに気づいた。驚いて杉原に原稿の訂正を申し入れられた。その結果、発表時に「地元のアマチュア考古学者が、収集した石器から杉原助教授が旧石器を発見した。」という表現に変えられた。だが相沢忠洋の名前は依然としてなかった。芹沢は「相沢忠洋は単なる情報提供者などではなく、日本旧石器文化研究のパイオニアである」と言い続けた。それで、相沢忠洋が岩宿遺跡の発見者であることが、広く知れわたることとなった。


 野尻湖遺跡群の「野尻湖Ⅰ期」を代表する上水内郡信濃町古間富濃日向林に所在する「日向林B遺跡(ひなたばやしびいいせき)」の約3万年前より遡る文化層を中心に、星糞峠産の黒曜石が大量に出土している。次が和田エリア小深沢群、蓼科の冷山・和田エリア土屋橋北群・星ヶ台が続く。興味深いのは、出土した黒曜石製石器に、遠隔地産の原石を加工したものが見られる事であった。野尻湖遺跡群などから出土した遠隔地産の黒曜石製石器は、ただ単発的に持ち込まれたのではなく、後期旧石器時代(約3.5万~1.2万年前)を通して和田峠産のみならず、青森・秋田産や神津島産の黒曜石が、長期間に亘り持ち込まれていた事実であった。

 旧石器時代に黒曜石が遠くへ運ばれている例は、富山県南砺市の山間部にある約1万4千~1万5千年前の立美遺跡(たてみいせき)でも知られる。昭和49(1974)年に行われた調査で、1,525点の石器が発掘された。長さ7.5cmの槍先形尖頭器や長さ5.5cmの剣先のように鋭いナイフ形石器をはじめ、錐器、掻器、削器、彫器、剥片などが出土した。このうち、1,300点が「黒曜石」であった。立教大学の鈴木正男教授による理化学的分析では、100kmも離れた和田峠産であるとされた。8~10cmの拳大の礫塊で運ばれたようだ。また青森県深浦産の黒曜石製石器も出土している。奈良県の二上山では和田峠産とおもわれる石器が出土している。


 旧石器時代人たちは狩猟をしながら、一定地域内を周回移動して生業を営んでいた。しかし、青森―野尻湖、神津島―野尻湖の距離はそれまで想定されていた旧石器時代人たちの往復移動の範囲を遥かに越えた距離であった。既に流通の主体となる物流が整えられ良質な黒曜石がもっと近くで採れるにもかかわらず50kmも離れた場所や、伊豆半島下田から海上遥か54km、直線距離にして290km離れた神津島から黒曜石が持ち込まれていた。青森・秋田・神津島の黒曜石よりも長野県産の黒曜石が質や産出量が劣るとは考えられない。野尻湖と、これら遠隔地の黒曜石原産地との交流が、なぜ必要だったのか。


 黒曜石の交換を明らかにする史料が関東地方各地の遺跡で発掘され、その黒曜石の原産地が判明している。多くの遺跡で黒曜石が大量に使用されていることから、理化学的分析が最も行われている地域である。使用されている黒曜石は、大きく信州(長野県)系、箱根(神奈川県、静岡県)系と神津島(東京都)系の原石などが、複数利用されている。平成9(1997)年、その分析結果では、神津島系の黒曜石が、約3万5千年前頃と東京の旧石器遺跡(武蔵台X層文化)の石器原石と確認された。旧石器人が、海上航海を行っていたことが分かった。黒曜石の流通には商流と物流がある。関東地方の数万年に亘る遺跡から大量の石器原石に、僅かに混じる他産地の数点の石器がしばしば交じる。近辺の直接採取に止まらず、物々交換が広域的に行われていた証である。逆に黒曜石の供給地に近い諏訪地方の遺跡からも、池のくるみ遺跡からは頁岩が、茶臼山遺跡からチャートが、原村の向尾根遺跡から安山岩製石器がそれぞれ出土している。旧石器時代、既に石材の交換を大々的に行う商流があり、それを実現する物流網があったといえる。


 昭和28(1953)年12月、厳寒の八ケ岳・野辺山高原の矢出川遺跡(南牧村)で、カミソリの刃のような形の小さな石器が、地元研究者の由井茂也氏らよって発見された。細石器(さいせっき)と呼ばれる1万年以上前の石器であり、槍先の刃として使われたものであった。細石器の発見は日本では初めてで、考古学上、重要な成果となった。
 今では北海道から九州まで1,800ヶ所もの遺跡で細石器が見つかり、この時代を含めた後期旧石器時代(約36,000万~10,000万年前)晩期の遺跡は全国で5,000カ所を超すに至っている。
 野辺山の矢出川遺跡から出土した黒曜石細石刃石核を蛍光X線による産地分析をした結果、はるか太平洋上に浮かぶ伊豆七島のひとつ神津島と恩馳島群岩産の黒曜石であることが判明した。この地域では、地理的に主に八ヶ岳や和田峠の近場の黒曜石を利用していることは当然しながらも、なぜ、200kmもの距離をおいて、野辺山の地まで神津島の黒曜石が運ばれたのか。氷河期の最寒冷期でも、120m以上の海面低下があったが神津島と本土は陸続きにはならず、舟でなくては渡れない。旧石器人は、我々の想像以上に、発達した広域的な社会的流通網を展開していたようだ。
 縄文時代になると、箱根系、信州系、神津島系の3者の黒曜石出土割合を比較すると、早期(10,000~6,000年前)と前期(6,000~5,000年前)では、43:49:8%という比率であり、中期(5,000~4,000年前)になると、42:42:16%となる。
 神津島産の黒曜石は、沿海州の各地にも運ばれている。日本海沿岸では隠岐の黒曜石も広く運ばれている。黒潮や対馬海流を渡る現代の想像を超えた航海術の発達があったとみられる。

 神津島とならんでもうひとつ、黒曜石の謎が浮かんできた。それは黒曜石分析の結果、和田峠でも麦草峠でも神津島でもなく、日本中どこの黒曜石産地とも成分が、一致しない謎の原産地の黒曜石がたくさん見つかった。この黒曜石は京都大学原子炉実験所の藁科哲男先生によって"NK産地"と仮に名付けられ、その場所をつきとめるための調査が八ヶ岳旧石器研究グループによりなされている。
 沼津高専の望月明彦先生の分析によるとNK産の黒曜石は最近静岡県沼津市の遺跡からも数点みつかっているという。ただ、その分布量からすると、野辺山周辺にかたよる傾向が顕著で、八ヶ岳周辺に人知れず存在した産地の可能性が濃厚となっている。

 北陸沿岸地域に広く利用された黒曜石は、日本海西部地域での唯一の産地・隠岐であることも重要である。出雲世界の領域であり、海神族(わたつみぞく)との関わり合いで、移動生活が基本の旧石器時代人が、その必要とする食料や資材を、まずは自分の手で確保しょうとするのが自然である。しかし、「交換」という高度な社会的広がりと、その当事者となる双方に独立した集団の存在を前提にしなければ理解できない、その出土例が多い。例えば、池のくるみ遺跡では、頁岩、茶臼山遺跡は、チャート、原村の向尾根遺跡では、安山岩と、それら非黒曜石で作られた大型で整った石刃が出土している。上記3遺跡では、他の出土石器のほとんどが地元の黒曜石材である。複数の遺跡で、地元の石材を使わない石器が、それぞれ単品で出土したことは、この時代、既に物品交換のルートが、かなり遠隔的に発達していたと考えられる。








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