霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

後期旧石器時代後期(2万1千年前以降)

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



 最終氷期の最寒冷期に入ると、旧石器時代人は遠隔地にある石材原産地に行かず、狩場内での生業に専念する。殆どが在地産の原石だけに頼るようになり、良質な石材による良質な槍の穂先より、殺傷能力は劣るが狩の回数を増やす方が生産的とみたようだ。この時期、大形動物が絶滅の危機にあった事と重なる。
 国府型(こうがた)ナイフ形石器は、約2万5千年前頃に登場し始めている。旧石器時代後期、近畿・中国・四国から九州地方にかけて、層理面にそって横長に石片・翼状剥片を連続的に割り出す方法で作られる国府型ナイフ形石器が普及する。サヌカイトという、割れると鋭い縁辺が生じるガラス質の安山岩を産出する奈良県二上山北麓遺跡群では、大規模な採掘を伴う石器作りが成されていた。大阪府羽曳野市の中心部にあたる住宅地の翠鳥園(すいちょうえん)遺跡からは、旧石器類がおよそ2万3千点、国府型ナイフ形石器5百余点出土した。遺跡から5kmほどにある二上山のサヌカイトを用いて製作されている。

 佐賀県には、サヌカイトと黒曜石の原産地がある。サヌカイトは鬼ノ鼻山北麓地帯で産出され、その石材を使った国府型ナイフ形石器を製作したのが多久三年山(たくさんねんやま)遺跡群で、三年山・茶園原遺跡など22ヶ所の発掘実績がある。熟練した石工による尖頭器専門の石器製作跡で、石器は尖頭器に限られ、それらの尖頭器の殆どは折損した状態で出土している。また製作途中で破棄された仕掛品も多いという。国府型ナイフ形石器は他型式のナイフ形石器と比べて仕損率が高くく、多大な労力を要したといわれている。精巧なナイフ形石器の需要の高まりは、狩人の片手間仕事でこなせるレベルでなくなっていた。依然として狩を生業とする集団は、狩場を周回し獲物を追い奔走しなければならないが、石材産地に石器製作集団が組織化された。彼らも狩を当然行っただろうが、石工色をより強め産直的手法で各地の狩人集団まで赴き物々交換を行ったようだ。
 黒曜石は伊万里市腰岳が九州地方では最大の原産地で、その腰岳遺跡群では消費量を上回る原石が備蓄され、本州地方、南は沖縄本島さらに朝鮮半島南部にまで分布している。良材の需要は、安直な流通網で対応できる水準を遥かに超えていた。
 この旧石器時代後期後半、近畿と中国・四国・九州では、ナイフ形石器文化の段階であったが、既に北海道では細石器文化がシベリアからサハリンを経由して広がっていた。

 最寒冷期を耐えぬいた旧石器時代の後期後半(1万8千年~1万8千年前)、列島の南海上から「温暖前線」がより北上する時期が増え、厳しい寒さが次第に減少すると、ナイフ形石器が小形化し終末期を迎える様相となる。槍先専用の石器木の葉形尖頭器文化(1万8千年前~1万4千年前)が登場した。南関東地方平野部を始原とし次第に東北地方に浸透していた。それは投げ槍の機能を高める必要性から工夫された。
 中国・朝鮮半島から渡来した本来温帯性のナウマンゾウ・オオツノシカなどが酷寒で次第に淘汰され、逆にサハリン経由で北海道から本州中部まで南下したヘラジカが、主な狩猟対象となり絶滅した。次の標的は鋭敏な嗅覚と素早い逃走反応をしめすシカ・イノシシ・クマなどのため、「飛び道具」が必須となり投槍器も開発された。合わせて槍先として、微妙な重さの調整加工が施された木の葉形尖頭器が石材原産地に石槍生産バブルを生じさせた。石材原産地における石器の現地生産が頂点に達した。長野県の中央高地の黒曜石原産地帯が大開発期を迎えた。一方、狩場では黒曜石原石を割った痕跡がなくなり、槍の穂先の完成品と仕掛途中の未完成品が出土するだけとなった。

 関東地方の山沿いの平野部には、相模野・武蔵野・大宮・下総などの諸台地が広がり、後期旧石器時代を通して絶えまなく相当数の遺跡が遺存している。狩猟と植物採集に恵まれた好条件下の猟場であったようだ。後期旧石器時代の後期後半1万8千年前に、日本列島のなかでも中部地方とともに槍先形尖頭器文化が、他地域を凌駕し盛行した一帯であった。関東地方の平原台地に角錐状石器が登場したのは、姶良火山灰鍵テフラ層後の約2万3千年前であった。それが本格的な突き槍用石器の嚆矢となった。より丈夫な突き槍・木の葉形をした槍先形尖頭器の出現は、恐らくは約2万年前に限りなく近づくと思われるが、既に大型獣の多くは死に絶え、ニホンジカ・イノシシ・カモシカ・ツキノワグマなど、今も現存する中型哺乳動物が狩猟対象となってていた。角錐状石器や木の葉形尖頭器は、主に落葉樹林帯の関東地方以西に分布する。
 製作実験によれば、槍先形尖頭器作りは、ナイフ形石器と比較すると、表裏両面の刃潰し剥離による仕上げ加工などが伴うため歩留まりが(原料(素材)の投入量から期待される生産量に対して、実際に得られた製品生産数(量)比率)悪く、原石消費は10倍になり、長さや幅など仕様上の制約も多く原石を割る回数も約10倍で、作業時間は数十倍になるといわれている。それが石材原産地の大開発に繋がった。槍先形尖頭器は精巧過ぎて完成率が低いため、かつての狩人兼石工であった後期旧石器時代人のように諸所の狩場を周回移動しながら、石材原産地で原石を入手し、原産地はもとより自分たち集団内の居留地で製作する時間も技術の伝承もなかった。槍先形尖頭器の登場は石器製作専門の石工集団を誕生させる画期となり、彼等は中央高地の黒曜石原産地の各地を再開発し鉱山採掘も成し遂げていた。その場で大規模に良質な石器を作り、関東地方の平野部の狩人集団へ運び込んでいた。
 鷹山川中流域の旧湿地帯や星糞山の鉱山地でも、随所で大規模な槍先形尖頭器製作が行われた。鷹山川中流域の旧湿地帯にある鷹山第Ⅰ遺跡S地点が、後期旧石器時代後期後半、石器製作専門集団が原産地に設けた大規模な黒曜石石器製作所跡とみられている。
 神奈川県大和市つきみ野の「相模野台地」上にある月見野遺跡群が、槍先形尖頭器文化圏にあったといわれている。この文化期にも石器原産地から離れた平野部でも依然として大規模に石器製作が行われていた。

 群馬県桐生市新里町武井の武井遺跡は赤城山南麓の鏑木川右岸の台地全面に広がり、1万8千年前地層からは多量の槍先形尖頭器も含む20万点もの石器や石屑が発掘された。特徴的なのが渡良瀬川水系産の非常に硬く層状で割ると貝殻状断口になり易い石英質のチャートや中央高地産の黒曜石・利根川水系産の黒色頁岩と同系の黒色安山岩・東北地方産の硬質頁岩など石器石材の原産地が複数で、しかも広範囲に及んでいる事にあった。東北地方産の硬質頁岩の産出地は約150Km離れている。産直的営業があり、更には物々交換を時々の相場観を踏まえ、合理的に説明できる商人が既に育っていたようだ。狩人集落が群集する地域では、手早く必要石器を入手できる地元の槍先形尖頭器製作所を重用したようで、特に多量の地場産出石材の槍先形尖頭器が出土している。

 

 昭和28(1953)年、長野県諏訪市 上ノ平遺跡が発掘された。温泉寺高島藩主廟所の上の諏訪湖を見下ろす丘陵から谷筋にかけて遺存する後期旧石器時代の遺跡で、黒曜石製の特徴がある槍先形尖頭器が多数出土した。スクレイパー(皮を剥ぐ石器等)などの遺物もみられ、石材は黒耀石、サヌカイト、頁岩、チャートなどもあったが、黒耀石を主体にした石器の製作場であった。
 この時期、中部高地と南関東地方平野部の狩場に、竪穴式の床面と住居の周囲に配礫をし、柱は穴を掘って固定し、中央に炉を備えた、他の集落と独立した伏屋式平地住居より堅牢な家屋が登場する。それが狩場内の石器製作所であった。
 大形哺乳類を狩猟対象にする時代が終わり、一地域に集合する環状ブロック集落の役割が消滅した。中小の哺乳類を獲物にするため河川流域に数百m間隔でユニットを営み、それを主軸にする数kmの広範囲に展開する川辺沿いの集落を形成した。これは獲物を河川流域に追い詰める狩猟法で、この川辺集落は、順次川筋に沿い狩場と集落を移動させた。








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