霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

後期旧石器時代晩期・細石器文化(1万4千年前~1万2千年前)

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



 関東・中部地方が細石器文化に組み込まれていくと、黒曜石原産地から細石器も含めて大規模な石器作りが衰退した。代わりに原産地から離れた狩場の高原台地で大規模な黒曜石製石器が作られていく。細石刃は幅1cm以下、長さは幅の2倍ある縦長剥片の石刃で、骨や木の軸に沿って複数の溝を掘り、側刃として装着し銛や槍先にした。それは替え刃式の石器で、破損した石刃は取り替えられた。また槍全体が軽量化され投げ槍としての命中率を高めた。
 細石刃文化の発祥地はシベリア東部のバイカル湖を源流にするレナ河上流域とその支流アルダン川流域一帯といわれている。最初に原石を整形し、小さく扁平にした楔(くさび)形の細石刃核を作る。それを母型にして、横に寝かして縦割りを繰り返し、小さく薄い細石刃を剥離して量産する。その技法が湧別技法で、シベリアからモンゴル・華北・朝鮮半島、そして氷河期の最寒冷期、大陸の半島であった北海道に広がった。
 大陸各地でその細石器製作技術が様々に発展していった。後期旧石器時代の後半期、北海道に入った楔形細石器核と荒尾型彫器(←荒屋が正しいと思われます)は、バイカル湖周辺では、既に約3万年前の地層から出土している。北海道に2万年前に伝播したが、ベーリング海峡を通り北米に広がりながら、日本列島では、当時の狭い津軽海峡を越える事はなかった。??荒尾型が発見されたのは新潟県北魚沼郡荒尾

 その後も、本州・四国・九州はナイフ形石器の時代が続いた。日本列島に細石器文化が席巻する第2波は、その6千年後の晩氷期に入る1万4千年前であった。最初に九州に入った。
 その経緯は中国の黄河流域で発展した細石器文化が、山東、朝鮮半島経由で日本列島に到来した。日本では矢出川技法と呼ばれる、原石を直接うち欠いて円錐形ないし角柱形の細石器核を作る技法であった。さらに中国では、この細石器でシカ・イノシシを狩るだけでなく、漁労用のヤス・モリなどにも活用していた。ヤスは柄を持って直接魚などを刺し獲る、モリは離れた位置から魚などの獲物に投じるため柄に紐を付ける。当時、その刺突部は槍と殆ど差異はなかった。日本列島にも本格的な漁具が初めて登場した事になる。その後、九州には独特な船底形細石器核が登場し、本州列島の各地でも、中国・四国地方ではサムカイトを原石ととするナイフ形石器製作技法を応用する「瀬戸内技法」が発展するなど特有の工夫なされた。この時代20種近くの細石器核・細石器の文化が開花し、後期旧石器時代の最終末期を代表する石器文化となった。西南日本では細石刃に削器が加わる程度で、細石刃自体に各種の用途に対応できる機能を持たせた。東北日本では細石器に彫器(ちょうき)・削器・錐器・掻器などが加わり、用途に合わせて石器を細分化させた。

 糸魚川‐静岡構造線よりも北東側の本州および北海道の西部を含む地域の東北日本では、船底形細石器核から湧別技法により細石刃を作り出した。西南日本では半円錐形・円錐形細石器核から矢出川技法により細石刃が量産され広く分布している。
 八ケ岳東南麓の長野県野辺山高原、標高1,340mにある矢出川遺跡群で、日本で初めて細石器が発見された。良好な狩場であったとみられる矢出川流域の3km四方に11ヵ所の遺跡がある。ここでは、発掘・採集資料を含め781点の石器作りの残滓と細石核が出土した。殆どが黒曜石であった。その原産地の39%が、神津島の南西沖約5㎞にある伊豆諸島の無人島恩馳島(おんばせじま)群岩産であった。その周囲の海底には、今でも良質な黒曜石層が眠っている。恩馳島は矢出川遺跡群から200kmもの距離があり、しかも海上だ。静岡東部でもこの群岩の黒曜石産の尖頭器らしい石器が大量に発見されている。
 その次の原産地が33%で蓼科エリアの冷山群で、23%が星ヶ台、5%が和田エリア産であった。原産地の入手先が複数あり、余りにも広域化している。狩人兼石工が、狩場周回の途上、多年に亘る他集団との交換を繰り返し、他産地の石材を入手していたという単純な説では説明し難いようだ。
 日本列島が氷河期の晩氷期に入り寒暖を繰り返す時代、旧石器時代晩期の細石器時代、長野県上伊那郡南箕輪村神子柴(みこしば)で日本列島最古の土器が出土した。旧石器を代表する局部磨製石器と掻器・削器・彫器など旧石器時代の「狩猟生活を満たす」石器群が出土し、同時に土器が伴出された。発掘者・林茂樹は、出土した大形尖頭器は両面加工され「長さ25.2㌢の月桂樹葉形を呈し、厚さ1.2㌢の薄さで、長身優美なスタイルをもっており、槍先というよりも短剣としての機能をもつかもしれない」、その上で「月桂樹葉形の短剣?」と疑問を呈した。

 

 土器は長江中流域の南部で、最終氷期最寒冷期の2万年前に既に誕生していたようだ。シベリア極東地方のガーシャ遺跡下層では、楔形細石器核と木の葉形尖頭器・局部磨製石器と伴出している。それは線刻を施した土器であった。C14年測定法では、1万2千560年前とされた。このシベリア東部の土器の出現は、マンモスの絶滅により、アムール川のサケ・マス漁に生業を転換した結果とみられている。その過程で土器で煮詰めて灯油として魚油を製出した。やがてその煮沸製法は動物の角・皮・魚の浮き袋などを煮込む事になり「ニカワ」を抽出した。それにより細石器を穂先に装着させる接着剤として活用した。
 土器文化の日本列島への到来は、縄文時代の開始となり植物採集を生業とする転機となった。動物食料を追い続ける狩人から、森林の栗・胡桃・団栗・椎の実などの植物採集が主な生業となり、中小の動物の狩猟、漁労などがそれを補完する多岐に広がる人類文化の萌芽となった。
 この時代、伏屋式平地住居はユニットを形成せず一軒家し、縄文時代の定住集落を目前にしながら、家族単位の狩猟を生業とする周回移動を繰り返していた。








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