霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

諏訪地方の黒曜石採取と石器製作

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/


 40万年~35万年前、ドイツのシェーニンゲン遺跡では、トウヒとマツを削った精巧な投げ槍が半ダース出土し、イギリスのクラクトン遺跡でイチイ(アララギ)作りの槍の一部が検出されている。

 鷲ヶ峰の西隣にある標高1,576mの星ケ塔の遺跡群では、黒曜石を採掘した凹地が40か所余発見されている。透明度の高い良質な原石を使い、大量の黒曜石製石器が製作された。主に、後期旧石器時代の後半期のものが多く、中から縄文晩期(3,000~2,300年前)の土器も出土するなど、縄文時代の採掘も確認されている。諏訪市内の旧石器時代遺跡から出土する黒曜原石の多くは、大き目で表面がすりガラス状に摩滅していたりして転石(てんせき)であった事がわかる。侵食作用や地震などで鉱脈から離れた黒曜原石は、地表や河川で転がされ洗われうちに、粗悪な不純物が自然に取り除かれ良質の石塊となる。鉱脈から一気に大量に採掘するようにはいかないが、良質な石塊を入手しやすい。旧石器時代までは、八島ヶ原周辺の黒曜石産出地一帯で、豊富で大きめな黒曜石塊が採取できたようだ。
 縄文時代の大規模な黒曜石鉱脈の採掘跡が発掘されている。鉱山の本格的な採掘を必要とする大量の需要が生じたようだ。割れば鋭利な石刃ができ、周辺部も精緻で加工がしやすい良質な「信州系」黒曜原石は、刺す・突く・切るなどの諸用途に対応する石器材として広く流通した。特に弓矢が普及し、標的となる対象獣を正確に射抜く、軽く精巧な黒曜石製矢尻の需要は高まった。

 ナイフ形石器の出現で日本の後期旧石器時代が始まった。昭和23(1948)年、群馬県新田郡笠懸村(現みどり市)岩宿遺跡の切り通しの道となっていた部分に露出していた赤土から、小間物などを行商する考古研究者相沢忠洋(あいざわただひろ)により石器が採取され、その後の旧石器時代遺跡の発掘の発端となった。翌昭和24年9月、その岩宿遺跡から2つの石器文化遺跡が確認された。下層は、基部を加工したナイフ形石器と刃部を磨いた局部磨製石斧を含む石器群で、3万5千年前の後期旧石器時代初頭のものであった。
 昭和24年6月、考古学に興味を持つ中学生松沢亜生(まつざわつぎお)が、諏訪湖を見下ろす手長神社から立石公園に最も北寄りに急カーブして上がる丘上で北踊場遺跡を発見した。亜生は、そこの住宅整地現場で掘り返された土壌に、黒曜石器が散乱しているのを見た。亜生は後藤森始・宮坂光昭ら考古学研究仲間たちと、工事現場から大量の石器を採集した。その石器は赤土層の上部に露出し、その層には土器の破片が全くなく、加工された石器の殆どが、両先が尖る「木の葉形」で一見して分かる槍先であった。旧石器時代にあたる日本は噴火列島で、氷河期の最寒冷期でもあるため人類の存在は予想されていなかった。亜生も日本の旧石器時代の存在を認識していなかったため、当時、北踊場遺跡は「縄文時代の石槍の作業場跡」と『南信子供新聞』に発表していた。
 松沢亜生らが発掘した「木の葉形尖頭器」が、石槍で後期石器時代後半期に本州・四国に画期をなした重要な遺物と分ったのが、昭和27年、明治大学考古学研究室の杉原荘介・芹沢長介らが、北踊場遺跡の出土石器を調査し、翌昭和28年、北踊場遺跡の西南にある谷一つ隔てた諏訪湖側の小さな丘陵地が畑として耕されていた、そこで掘り返された赤土上に8点の黒曜石製の尖頭器と他の石器を採取した、その上ノ平遺跡の発見によってであった。芹沢らはその尖頭器が旧石器時代のものと確信した。

 尖頭器はおおむね木の柄の先に装着して槍先とした。「木の葉形尖頭器」のように細く鋭く薄身であればあるほど、獣皮を貫き深く刺し致命傷を与える。また軽量であれば投げ槍としての命中率を高める。「木の葉形尖頭器」の製作工程は、不純物を取り除いた石塊(石核)から鹿の角などの軟質のソフトハンマーで強い打撃を加えて連続的に剥離させ細長い石刃を作る事から始まる。石器製作者は人類が長年培かって来た、黒曜石・頁岩・サムカイトなど石材ごとの物理的特性を熟知し、ハンマーによる力学的作用を予知し、職人的正確さでハンマーを駆使していた。
 諏訪市のジャコッパラ第8遺跡からは、長さ15cm、幅5㎝ある明確なハンマーストーンが出土している。ハンマーで直接黒曜石原石を叩いて石核を作り、そこから更に剥片を剥がす。これを元に、軟質のソフトハンマーでさらに細かい二次加工を加えて、削片を剥がし様々な道具を作る。この最終工程では石で直接打ち欠くのは無理である。石刃自体が剥片で薄い、石で叩けば本体が割れてしまう。ハンマーと石材の間に鹿の角・骨など軟質材でできたパンチ(たがね)を介在させる間接打撃法がなされる。パンチを石材の目的とする破断個所にあて、そこをハンマーで叩けば、より正確な打撃となり、周囲にひび割れを生じさせない。ジャコッパラ第5遺跡からパンチ痕を2つとそのひび割れを残す石核が出土している。それでも失敗はあったようだ。
 諏訪市の北踊場遺跡出土の木の葉形尖頭器は、「押圧剥離法」による緻密な加工が施されている。製作者は膝の上に動物の皮を敷き、石刃を置く、鹿の角や動物の長骨などをソフトハンマーとして強くプレスして削片を押し剥がす。これが「押圧剥離」技法だが、押圧剥離する前に削片が剥がれやすいように加工途中の石刃を炉で加熱する処理もなされた。

 旧石器時代晩期に北海道から本州・四国・九州と伝播する細石器文化時代、黒曜石原産地から細石器も含めて大規模な石器作りが衰退した。代わりに原産地から離れた、野辺山高原・関東平野部の台地・箱根・伊豆周辺に大規模な黒曜石製石器が作られていく。諏訪市内の上ノ平遺跡からも旧石器時代晩期にあたる細石器が多数出土している。

 また、諏訪湖から霧ケ峰へいたる途中の角間新田地区に、神籠石(こうごいし)という岩山があります。昭和23(1948)年に岩山の洞穴から、トラック1台分にもなる黒曜石の礫塊が出土した。一緒に、関東の諸磯C式土器(縄文前期末葉)も発掘された。ここは、星ケ塔原産地から往復1日の行程になる位置で、縄文前期(6,000~5,000年前)の関東人が、現地での集積場としてこの洞穴を利用していたようだ。
 東俣川沿いの東俣原産地は、平成5(1993)年に下諏訪町の調査で発見された縄文時代の採掘跡で、今後の研究発表が待たれる。








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