霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

八島遺跡群

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



いまも、シカの通るその道。それに、奇妙にダブるものがある。
日本旧石器時代の尖頭器文化、石槍をたくさん作った人々の遺跡である。いまも残る"しかみち"それは、いったい万をこえる過去の黒曜石槍の狩人たちにとっても、やはり"しかみち"だったのだろうか。(藤森英一『古道』)

 車山を頂点に西から南側になだらかに広がる高原台地が霧ヶ峰で、沢渡の西北からは八島ヶ原の平坦な高原が広がる。その西北にある八島ヶ原湿原に向かう遊歩道の途上で、小さな祠のある旧御射山(もとみさやま)神社に出合う。中世の旧御射山遺跡との出合いが始まる。その北側に唐松林がある。その一角に旧石器時代の八島遺跡がある。その西方には物見岩遺跡があり、八島ヶ原湿原の西方の男女倉山と物見石との谷間の湧水地に雪不知(ゆきしらず)遺跡がある。
 八島遺跡は八島ヶ原の南端にあたり、周辺の車山連峰の鷲ヶ峰・男女倉山・物見石からの谷川・湧水が八島湿原に集まり、その排出水が諏訪湖よりの渓谷に集り観音沢となり、蝶々深山・車山湿原・車山を原水とする沢水が沢渡を過ぎて観音沢と合流しやがて諏訪湖に集まり太平洋へ流れる。
 また八島湿原の八島ヶ池と鷲ヶ峰を源流とする本沢が黒曜石の産出地の男女倉川となり、旧石器時代と縄文時代へと繋ぐ黒曜石産出の最大規模を誇る和田峠周辺の谷川・湧水を集めて流れる和田川と合流し、千曲川・信濃川となり日本海に注いだ。八島ヶ原は、まさに分水界であり、そこから黒曜石器の交換流通ルートがみえてくる。
 八島ヶ原湿原の周辺からは、十数ヶ所の旧石器時代の遺跡が遺存しているが、湿原植物の保護のためそれ以上の調査が頓挫している。未発見の旧石器時代の大規模な遺跡が想定されている。遺跡の全体が見出されないまま「八島遺跡群」と総称された。
 昭和27年、霧ケ峰に観光道路が敷設された。その工事に際し膨大な黒曜石器が出土した。発掘調査は昭和30年8月、明治大学生であった戸沢充則(みつのり)と松沢亜生(つぎお)らが調査した。漸(ようや)く18㎡を採掘した。その狭い範囲で、実に5千点を超える多量の石器が出土した。その殆どが剥片だが、ナイフ型石器・石刃など完成品とそれに近い石器が260点ほどあった。戸沢充則は、その調査報告に「大小の黒曜石片がほとんど敷きつめられるほどに濃い包含状態を示していた。」と記していた。「八島遺跡群」全体で埋没される石器と剥片の数は膨大であった。
 八島ヶ原湿原の西方に標高1,576m星ヶ塔がある。ここの黒曜石は良質で旧石器時代から縄文時代にかけて、大量の石材を供給し続けた。湿原の周辺には、さらに星ヶ台があり、和田峠・和田山・東餅屋・男女倉山・鷹山など大産地がひかえている。八島ヶ原に湿原が形成される前にも、豊富な湧水と谷川に恵まれ、石材確保・狩猟のためには、最適なキャンプ・サイトであった。
 旧石器時代を通して、時期によって量的比率は異なるが、関東平野部の遺跡群の多くは、浅間山南山麓・箱根・伊豆・神津島などの豊富な黒曜石原産地を有しながら、八島ヶ原周辺の産地石材の構成比率が高く、良質な黒曜石材として多用されていた。
 旧石器時代の考古遺物は、通常、地表を覆う黒土より、その下層にある赤土ローム層に埋没している。日本列島の火山は、数十万年から1万年前までの長い間噴火を繰り返してきた。そのたびに噴出した火山灰が厚く堆積された。赤土ローム層は1万年以上前までに堆積してきた土層で、長い時間を経て固く締まり、雨水により鉄分が酸化して赤褐色のローム層が形成された。その層から出土した遺物は、まず旧石器時代と推測された。

 八島遺跡の主体となる石器は両刃の槍先形尖頭器で、ナイフ形石器も数点あり、石刃とその素材の石刃石核や他の石核も多数出土した。槍先形尖頭器はナイフ形石器の盛行期の約2万年前頃から、その改良型として登場した。長さは5cm前後、幅は1cm×2~3cm前後のスマートなものと1cm×5cm前後のズングリしたものと大きく2形態ある。ナイフ形石器は3cm~4cmと短いので投げ槍用とみられる。
 戸沢充則の調査では、八島遺跡の尖頭器は殆ど「直接打撃法」で製作されているという。それはハンマーとなる敲石や獣骨などで石刃石核を直接打ちつけ剥片を欠く方法で、原初的な石器製法であった。石器の片面だけの加工か、表裏両面に仕上げがなされていても完成度が低いようだ。諏訪湖東岸遺跡群の茶臼山周辺の北踊場や上ノ平の尖頭器は、仕上げ段階で「押圧剥離法」が施され、表裏両面にも細かな加工がなされている。

 ところが八島遺跡の尖頭器で最も特徴的なのが「表裏非対称の尖頭器」が大部分を占めていることにある。ナイフ形石器では、長い刃部を備えているが、その片面は平である。いずれの面も細かい加工がなされ、平といえども丁寧に仕上げ加工がなされている。装着された木製の柄が、火山灰地の典型地帯で有れば、その出土は期待できないが、投げ槍の装着方法に伴う技巧と想像される。中部地方に細石刃が普及する後期旧石器時代晩期には、骨や木の軸に沿って複数の溝を掘り、側刃として装着し銛や槍先にするため、敢えて凸面をこしらえ柄側とし狩猟獲物の厚い獣皮を破る際の衝撃強度を高める工夫がなされている。八島遺跡のナイフ形石器は、いずれも5cm前後であれば、細石刃を装着した投げ槍としては、重量があり過ぎる。槍先用石刃であった。
 八島遺跡群は、名ばかりで依然として埋没したままの旧石器時代の遺跡の宝庫であるといえる。後期旧石器時代は、野尻湖遺跡群の発掘調査が進めば、5万年前を超える考古遺物が検出されるだろう。八島遺跡群では未発掘の遺物を後世に伝えるだろう。戸沢充則と松沢亜生らは、残念ながら本格的広域的な調査ができなかった。

 旧石器時代晩期の細石器文化期、野辺山高原・木曽開田高原・赤城山麓・武蔵野台地・相模野台地・下総台地・愛鷹箱根山麓の各地帯では、和田峠・星ヶ台・星ヶ塔・男女倉・星糞峠などの黒曜石石材が、50%以上の割合で利用している遺跡が多い。300Km離れる新潟県樽口遺跡でも、数点が確認されている。ただ関東では、質的にやや劣る冷山などの蓼科産地群の黒曜石の利用は少ない。冷山や麦草峠周辺の黒曜石は、不純物が多く質的に劣るといわれている。箱根・伊豆天城産地群の黒曜石は、武蔵野・愛鷹山など50Km圏内で利用されているが、それも良質で採掘量が豊富な八島ヶ原周辺と神津島・恩馳(おんばせ)島群岩の石材を補う程度であった。








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