霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

池のくるみ遺跡

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



 踊場湿原は、池のくるみとも呼ばれ、標高1,540mで周囲をガボッチョ山(1,681m)、ゲーロッ原(1,684m)などに囲まれた断層によって形成され、東西約820m、南北約100mの盆地にできた湿原で、約8.2haの面積がある。湿原の東部には踊場の池(あしくらの池)があり、 これから流出する小川が桧沢川となって上川(かみかわ)と合流する。池から西部へいくにしたがって徐々に高層化が進み、低層湿原から高層湿原へ移行する過程が分かる。
 池から低層湿原への移り変わりは、先ず大型のヨシで始まり、そこにイワノガリヤス(ムギクサ)・オニナルコスゲなどが繁殖し、それらが枯れて、長い年月を経て、大量に積層されていく。それが、寒冷のため腐食せず、次第に泥炭化して堆積して、低層湿原となる。そこに、トマリスゲ・ヌマガヤが生育し、更に泥炭層が蓄積される。
 有機質肥料の過剰投入と同様の状態となり、そこから腐食酸が発生し酸性度が過多となり、土壌養液の濃度が植物、特に根の養分濃度よりも高くなり、逆浸透により根の養液が土壌中へ浸透拡散し、植物の体内の水分と養分が欠乏する。特に寒冷地では、この悪条件に耐えられるミズゴケ類を中心にツルコケモモ・ヒメシャクナゲなどが生育する。高等植物は体内に水分を確保するために外側に厚い保護層を発達させている。コケ類にはこのような保護層がなく、水分が直接細胞壁を通って入ってくる。水分は蒸散によって失われるため、コケ類は水分が常に補給される多湿な、又は水が豊富な湿地や沼地に分布する。その植物遺体が積み重なって分解せず、次第に厚い層を形成するようになり泥炭層が一段と積畳され、その盛り上がった湿地を高層湿原と言う。
 池のくるみ中央部の「あしくらの池」には、谷地坊主(やちぼうず)が浮かび、多くの蛙が生息している。谷地坊主のこんもりとした塊(かたまり)は、スゲ類などの密生した地下茎が、厳しい冬の地面凍結によって、凍み上がり、最初は歪んだ形であったが、春の雪解け水で洗われ削られ、数百年をかけ序々に、坊主頭に整えられ植物の造形を演出する。「池のくるみ」は、この「あしくらの池」を「くるむ」ところからついた呼び名である。
 金井典美とその地元の研究者は、昭和34年、「池のくるみ遺跡」を発見した。金井は霧ケ峰の沢渡で仲間と共に「ゆうすげ小屋」を運営しながら、「山岳考古学」を標榜し研究していた。同年、諏訪大社下社の中世の祭祀址・旧御射山遺跡を調査していた。その当時、戸沢光則が八島遺跡を発掘調査し、星ヶ塔では藤森栄一・中村龍雄による縄文時代の黒曜石採掘跡の調査が行われていた。金井典美は石井規孝・吉川国男らと共に独自に八島ヶ原・霧ヶ峰を調査し物見岩遺跡や「池のくるみ遺跡」などの旧石器時代の遺跡を発見した。
 昭和40年とその翌年、早稲田大学考古学研究会が中心に本格的発掘調査がなされた。車山連峰の主峰・車山方面から踊場湿原に流れる通称いもり沢が池のくるみに達する南岸・サネ山の地籍の小盆地状地形の南縁の麓である。いもり沢にはハコネサンショウウオが棲息する清流である。金井らは、いもり沢に削られる崖の断面や川底から黒曜石製石器を見つけたのだが、その後の発掘調査で現在では、旧石器時代や縄文時代の遺跡群が池のくるみの周囲を取り囲んでいることが分かっている。
 後期旧石器時代の気候は、7万年前から1万年前まで続くヴュルム氷河期の最中で、その最寒冷期には、年平均気温は今より7~8度以上も低く、海面が120mも低下していた。現在の日本アルプスの森林限界は標高2,500m付近といわれている。ヴュルム氷河期の最寒冷期・約2万年前の「森林限界」は標高1,000m~1,500mと想定されている。旧石器時代の池のくるみ遺跡群は、標高1,540mで、「森林限界」より上である。当然、当時も寒暖の波は長短あって定まらない。通常は小さく灌木化したナナカマドや這え松と笹が植生であったようだ。そんな時代の池のくるみ遺跡から、2,000点を超える石器が出土した。イチョウ葉形の台形様石器や多数のナイフ形石器も出土している。殆どが黒曜石製で頁岩・水晶などもわずか含まれていた。 安山岩の礫が20個近く数点ずつまとまり発見された。そのうちの数個はタール状の付着物があった。近隣では茶臼山遺跡上ノ平遺跡でも、こうした「礫群」が見つかっている。焚き火で採暖し調理を行った。
 この地の旧石器時代人は、簡易な伏屋式平地小屋を建て種火を絶やさぬようにして暖をとり、ここで食料を得て調理し、槍の穂先となり狩猟具ナイフ形石器や肉を切る調理具となる台形様石器などの製作に励み一定期間、暮らしていたようだ。この時代本州にも北方系のヘラジカやヒグマが棲息していた。ニホンジカ・イノシシ・カモシカ・オオカミもいた。少し下れば桧沢川・前島川・横河川の渓流があり、イワナ・ヤマメなど細流を川石で堰き止め手掴みで獲れっていただろう。冷涼な高原には団栗・栗がないが、灌木や笹の新芽など食せる食物はある。土器はなくとも獣皮や樹皮で器は作れた。その器に川魚や草花を入れ、池のくるみの清水を汲み、焚き火に大き目な石を入れ、器の中にその焼石を投じれば立派なストーン・ボイリングだ。植物特有のアクも減じ魚のはらわたまでも食せた。
 旧石器時代人の多くは、石工兼狩人であり、同属の新人は3万年前にはシベリアに進出し、細石器文化と漁労文化を誕生させ、1万5千年前にはシベリアの東端からアラスカに渡っている。池のくるみ遺跡は、新人がシベリアに進出した3万年前より遥か前から霧ケ峰で、八島ヶ原周辺の黒曜石原産地から石材を得、生業に欠かせない突き槍、投げ槍の穂先の製作に励んでいた。この氷河期に2,000点を超える石器が出土し、それも多くが槍の穂先であれば、狩場を往復移動する狩人にとって、「池のくるみ」が単なる石器製作地ではなく重要な狩場でもあった事の証明でもある。
 出土し殆どが大きな剥片であったが、形が整った短冊形をした10cm前後の石刃が100点近く出土した。いずれも5mm以下の薄形で扁平、その厚さが4cm以下が多く、横断面は台形や三角形に近い。平面はイチョウ葉形の台形で、その平坦な縁は鑿の刃のようになっている。側縁は小さく厚く剥離する「ブランティング」や薄く削ぎ落す「平坦剥離」の2次加工で丹念に仕上げられている。台形石器は通常、突き槍・投げ槍の穂先であり、獲物の解体具であった。台形石器は石材石核から幅広で短形の横長剥片を剥離し、横位置の両端を欠いて台形にする。ナイフ形石器は石核から縦長剥片を剥離し、その縦長の縁辺を片刃ないし両刃とする。
 平成15年、静岡県東部、愛鷹山麓にある富士石遺跡の発掘調査で、愛鷹山上部ローム層最下位(約3万1千年~3万2千年前)の長径10mほどの石器出土集中地点から、200点を超える台形石器が出土した。その石器の石材は主に黒曜石製で、その原産地は八島ヶ原周辺・箱根・伊豆半島・伊豆の神津島などであった。ナイフ形石器はその上層部、約3万1千年前の層から出土していた。
 ナイフ形石器の最も古い粗形ともいえる粗い作りの「ナイフ状石器」が、下高井戸の塚山遺跡や佐久市の標高1千mの八風山遺跡の立川ロームX層下部、約3万2千年前の地層から出土している。旧石器時代、例外は多くあるが概ね剥片石器→台形様石器→ナイフ形石器と階梯を歩んでいる。  池のくるみ遺跡出土のナイフ形石器は、剥離したまま先端に手を加えず、柄に取り付ける基部だけに剥離加工する原初的タイプが多い。200点を超える台形石器は、「ナイフ状石器」を遡る石槍と考えられる。約3万2千年前の遺跡とみられる。
 車山・八島ヶ原・霧ケ峰の遺跡群と黒曜石の関係は重要で、当初は、石材として生活必需品で、その入手のためやや暖かい時期の夏期を中心に、一時居住生活をしていたものと考えられいた。旧石器時代人の実状は、もっと多岐な生活風景があり、数万年に亘る生活者の知恵の蓄積があった。今や本格的な民俗学的研究が進行している。
 富士石遺跡から出土の石製ペンダントは、長さ9.12cm・幅3.5cm・厚さ1.51cm・重さ56.7g、河原石を素材とした製品で、片方の縁が磨かれ、他の縁には連続して14本の線が刻まれている。出土した土層の年代から約1万6千年前の石製と判明した。この一品に込められた当時のロマンに圧倒される。








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