霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

茶臼山遺跡

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



 諏訪市上諏訪駅の東北に、上段から立石、踊場、茶臼山、手長丘と段階状に丘陵が形勢さている。その先端、現在の裁判所や丸光デパート付近は、かつて諏訪湖に接していた。諏訪市のその茶臼山と呼ばれる丘陵上に、長野県で初めて旧石器時代の遺跡が発見され、茶臼山遺跡と呼んだ。以後、他の段丘上にも、続々と旧石器時代の遺跡が発見された。
 群馬県岩宿遺跡は、昭和24(1949)年に本格的発掘調査が行われ、日本列島で最初に公認された旧石器時代の遺跡となった。縄文時代を遡る旧石器文化は、それまでその存在が認められていなかった。岩宿遺跡の発見が契機となり、その後の昭和26(1951)年の東京都茂呂遺跡の発掘調査を皮切りに、全国各地で遺跡が続出した。無土器時代、先土器時代とも呼ばれた日本列島の旧石器時代の遺跡の発見は、現在1万6千ヶ所以上と言われている。
 茶臼山遺跡は、岩宿遺跡発掘以後、関東地方以外で初めて確認された、いまから2万年以上前の旧石器時代の遺跡であった。
「昭和27(1952)年、諏訪湖を臨む上諏訪の高台で行われていた住宅工事の現場に立ち寄った高校生が、たくさんの黒耀石で作られた石器を見つけた。茶臼山遺跡の発見である。高校生の名前は松沢亜生(つぎお)。藤森栄一の主宰する諏訪考古学研究所のメンバーだった。」(『諏訪の旧石器展』展示図録より)。発見者の高校生は、後に笠懸野岩宿文化資料館の館長となる。
 これにより、同年、その市営住宅建設の整地工事の最中、藤森栄一・戸沢充則(後の明治大学学長)・松沢亜生ら「諏訪考古学研究所」によって本格的な調査が行われた。岩宿遺跡(群馬県)の発見から3年後であった。既に造成工事中のため総てを調査できず、また茶臼山は戦国時代末期、諏訪頼忠が本城とした茶臼城の遺構があり、その3つ土壇が築かれる過程で一部が破壊されていた。それでも茶臼山の最高70cmもの厚さがある赤土(ローム層)の中から、黒曜石製の石器が発見された。当時の発見による石器の総数は695個で、ナイフ形石器が多く、その外、掻器、削器、彫器、刃器、石核、石片、磨製石斧、打製石斧、棒状石器でその殆どが黒耀石であった。この遺跡では、ローム層中に2基の炉跡が発見された。1号炉では100個以上の大小の礫群が直径2m超、深さ60㎝の穴の中で出土した。焼け土や炭の破片など焼痕も認められている。採暖と調理が行われていたようだが、住居址は検出できなかった。
 ローム層は火山灰が堆積した赤土層であるから、下の古い時代から順次新たな火山灰が噴出順に堆積されるため、出土品の絶対年代を決める有力な根拠となっている。茶臼山遺跡では、その出土品から木の葉形尖頭器がないため、遺跡の年代の特定が狭まるはずが、寒冷地であるがため、年代ごとの土層に遺物が整然と並んで出土する事がなかった。土中の物体は、寒冷地の宿命で、凍み上がりによる凍結融解が繰り返され、赤土から掘りだされる黒曜石器は、小さく軽いものが上層で、大きく重いものは下層に沈み、比較的細長いものは、重い方が下層に潜る状態で発見される。
 この遺跡でも他の石斧に混じって幅5cm、長さ10cm超の蛇紋岩製の局部磨製石斧が出土した。当初学会では無視された。なぜなら「磨く」技術は、ヨーロッパで言えば「新石器時代」の技術であり、それが旧石器時代の遺跡から出土するはずがないという先入観があった。しかし、現在では、旧石器時代の代表的石器の一つに「斧形石器」があげられている。しかもその大半は、刃部を研磨した磨製石器で、それは、昭和24(1949)年日本で初めて「旧石器文化」が確認された「岩宿遺跡」の第 I 文化層でも、既に2点発見されていた。それでも「磨製品」史料をめぐって、日本の先史考古学者たちは、先入観にとらわれて混乱した論争を展開していた。
 その後、全国各地の旧石器時代遺跡から磨製石器の出土が続々と公表された。昭和43(1968)年~昭和45(1970)年頃、東京・武蔵野台地を中心に、旧石器時代遺跡の大規模発掘調査が行われた。昭和48(1973)年、石神井川流域の氷川台の栗原遺跡で、刃部を研磨した立派な磨製の斧形石器が出土した。同じ頃、千葉・三里塚55地点遺跡でも、栗原遺跡と同じ年代の関東ローム層から磨製石斧が出土した。この確かな年代的裏付けをもって発見された「磨製石斧」の登場で、旧石器時代の磨製石器の存在は疑う余地がなくなった。
 更に分析され、驚くことに、その「磨製石斧」は、姶良(あいら)火山の降灰層(約2万8千~2万9千年前)以前の、約4万年~3万年前の立川ローム層に集中して発見されていた。その後、全国の遺跡から出土している同種磨製石斧も、姶良火山灰層前後の地層や、約4万年~3万年前のローム層に埋没していた。

 茶臼山遺跡からも10点余りだがナイフ形石器が出土している。初期の時代と思われる9cm前後の大形のナイフ形石器は作りが荒い、突き槍として用いたようだ。5㎝前後のものは、木の葉形尖頭器といっても良いぐらい精巧なものもある。投槍器までは出土していないが、投げ槍用と見られる。定型的石器としては、獣皮をなめすために、先端に半円形の刃を備える掻器や彫器・錐器も出土している。しかし定型的石器は出土した石器の総数695個の5%に過ぎず、石核が100点近く含まれていた。95%の大部分は剥片であった。剥片の中には左右の縁が平行な短冊形の石刃もみられる。石刃の多くは「石刃技法」で、石刃石核から剥離されたナイフ形石器の仕掛品である。
 出土品から木の葉形尖頭器がない事から、約2万年~3万年前に石工兼狩人達の集落グループが、八島ヶ原周辺の黒曜石原産地から比較的暖かな諏訪湖を見晴らす当地に、その石材を運び込み、ナイフ形石器やその前行程の石刃を作り狩場に戻る、往復移動の痕跡が、茶臼山に大量の剥片を遺存させた。








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