霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

上ノ平遺跡(うえのたいらいせき・諏訪市上ノ平)

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



「茶臼山の発掘が終了して、私の家で、杉原(荘介)さんの記者会見のようなものがあった。その直後、諏訪考古学研究所の保管標本を検討していた芹沢長介さんが『石槍もくさいですな』と妙な事を言い出した。それは標本の中に、松沢亜生・藤森始・宮坂光昭などが採集してきた、300本に近い石槍についてであった。そこは、茶臼山の一段上の丘陵、北踊場の一か所で、昭和24年6月に、市営住宅工事で掘り出されたものであった。」(藤森栄一『旧石器の狩人』より)
 昭和27(1952)年における明治大学の考古学研究室の芹沢長介らの茶臼山の発掘調査が、関東地方以外での旧石器時代の遺跡発掘の最初の事例となった。出土品も695個と当時としては極めて大量であった。その調査終了後、藤森栄一宅にある諏訪考古学研究所の保管の石器類を調べていた芹沢が、北踊場遺跡から松沢亜生らが採取した多数の尖頭器に着目した。上ノ平遺跡は、茶臼山遺跡から、北に300メートルほどの位置にある。昭和24年6月、考古学に興味を持つ中学生松沢亜生が採取し、縄文時代の石槍と見なしていた。当時としては当然であったが、芹沢はそれらの尖頭器を旧石器時代の出土品としての可能性があるとした。
 藤森・杉原荘介・芹沢・戸沢光則らは、早速北踊場遺跡を訪れたが、市営住宅建設は完了していた。新たな調査は不可能となった。その帰路4人は北踊場遺跡から谷を一つ越えた諏訪湖側の小さな丘陵地上に「行ってみると、赤い土の露出部は、何か野菜の貯蔵所が埋まった跡らしい。その赤土の中に、明らかに赤土にまみれ、5、6本の石槍が散乱していた。日本の考古学が、石槍は旧石器に属することを確認した最初の瞬間である」(藤森栄一『考古学とともに』より)

 藤森先生の見解とは異なり、昭和21(1946)年、小間物などを行商する考古研究者相沢忠洋は、群馬県新田郡笠懸村(現みどり市)岩宿の切り通し関東ローム層露頭断面から、細石器に酷似した黒曜石製石片を発見した。ただ旧石器時代とは断定できないまま、独自に岩宿で確実とみられる旧石器時代遺物の発掘調査を続けていった。漸く昭和23(1948)年、岩宿遺跡の切り通しの道となっていた部分に露出していた赤土層から、5㎝の黒曜石製の槍先形石器が採取された。この石器を相沢から見せられた当時の明治大学院生芹沢長介は、同大学助教授杉原荘介に連絡した。それが旧石器時代遺跡の発掘の発端となった。翌昭和24年9月11日、杉原荘介が指導する明治大学考古学研究室員が、相沢忠洋の発見した石器が真実、赤土層から出土した遺物か確認するための試掘を行った。その後本調査が2度実施された。切り通しの断面調査が幸いして、石器群その他の遺物が複数の文化層から出土した。表土近くの黒色土層下部に縄文早期の稲荷(いなり)台式土器片などの遺物が出土し、ローム層面を約50㎝発掘した黄褐色ローム層中から瑪瑙(めのう)、黒曜石製の切出片石台式土器などの小形石器群が出土した。ローム層上面から約1mの下位にその下約40cmの厚さの暗褐色の有機質を含むローム層があり、この層中から頁岩(けつがん)製の大形石刃、握槌(にぎりつち)状敲打器(こうだき)などが出土した。しかも旧石器時代、既に磨製石器が存在していた事も証明された。
 杉原荘介は、既に戦後間もなく、登呂遺跡の発掘を牽引し、岩宿遺跡の調査により日本の旧石器時代の存在を最初に実証した。

 昭和14(1939)年、縄文時代早期の東京都板橋区稲荷台遺跡で赤土層に入った土器が発掘された。それが日本最古の稲荷台式土器であり、日本人類最古の手作り品と断定されていた。赤土とよばれる関東ローム層は、黒土の下に厚く堆積している。それは関東平野の西方および北方の富士山、箱根山、八ヶ岳、浅間山、榛名山、赤城山、男体山などの噴火による火山砕屑(さいせつ)物が風化し土壌化したものである。岩宿遺跡が発掘されるまでは、旧石器時代に日本列島では人類が住める環境ではないとみられ、赤土の発掘など狂気の沙汰と思われていた。
 それ以前にも明治41(1908)年、イギリスの医師で、考古学者・人類学者でもあるニール・ゴードン・マンローが既に神奈川県早川で旧石器時代の石器を、大正6(1917)年、京都帝国大学教授、東北帝国大学国史学研究室の講師を歴任した喜田貞吉(きたさだきち)が大阪府国府(こう)の石器を、昭和6(1931)年、明石原人の発見者・直良信夫(なおらのぶお)が兵庫県明石の石器を、それぞれが発掘していた。しかし、いずれも礫層から発見され、しかも人工的な石器と断定できなかった。それ以外でも各地で採取されていたが無視され、杉原荘介のように発掘調査まで行われる状況ではなかった。
 岩宿遺跡発見に刺激され昭和26(1951)年、中学生滝沢浩が東京都板橋区小茂根5丁目の石神井川のほとりでナイフ形の黒曜石製石器を見つけた。この茂呂遺跡での発見で、武蔵野郷土館の吉田格と明治大学考古学研究室の杉原荘介・芹沢長介などが共同で発掘調査しナイフ形石器・礫器・剥片などを出土させた。そして昭和28(1953)年の諏訪市上ノ平遺跡の発掘と繋がった。

 上ノ平に立ち寄る帰路の途中、たまたま赤土が露出していたところから石槍など8点の尖頭器と局部磨製石斧を見つけた事が契機となり、翌昭和28年、明治大学によって発掘調査が行われ、石槍73点をはじめ掻器・錐器など合計4,500点以上の石器が、土器の破片1つない層から発見された。
 当初の発掘調査では、ローム層やその上の褐色土層から多くの石器が出土した。この遺跡で最大の量を占めるのが黒曜石製の小さな尖頭器であった。中形や大形の尖頭器になると、黒曜石以外の石材も多く使われていた。杉原荘介は「尖頭器石器文化」と呼び、旧石器時代の終わり頃、1万3千年~1万2千年前と予測し、上ノ平遺跡出土品で最も多い小さな尖頭器を「上ノ平型尖頭器」と名付けた。将来、発掘される遺跡で同型の尖頭器が続々と出土すると予想し期待していた。だが「上ノ平型尖頭器」と断定される尖頭器は、未だ出土していない。隣の北踊場遺跡で類品が含まれているだけである。むしろ北踊場遺跡の「柳葉形尖頭器」と同形のものがみられ、全体的に「上ノ平型尖頭器」の方が小型で、左右非対称が多い。石槍の最も太い部分の片側が幾分張り出している。杉原は、炯眼にも、これは槍先として用いるのではなく、槍の両側に差し込む側刃器と見抜いた。

 旧石器時代末期から縄文時代初頭に、基部を逆三角形や半円形にする長さが通常2cm前後、幅1cm以下の細石器文化が登場する。木の葉形尖頭器と比べ、上下どちらが先端か基部かがはっきりする。上ノ平遺跡の上下非対称の尖頭器は、そのはしりといえようか。
 石槍は遺跡ごとに形や種類の組み合わせが微妙に違っている。「尖頭器の個性」が明らかになっている。ナウマンゾウ・オオツノシカ・ヤギュウなどの絶滅後、地域における主な狩猟対象獣が異なる状況に対応した結果とみられる。
 石槍は岩宿遺跡でも、相沢忠洋によって発見さたが、明治大学による調査の際には出土せず、岩宿遺跡の「尖頭器文化」の確証が得られなかった。しかし、上ノ平遺跡の発見によって、旧石器時代に尖頭器文化が存在することが、初めて確認された。
 定型的石器としては、尖頭器以外に掻器、削器、錐石、局部磨製石斧が出土した。掻器は長さ4㎝位で、3~4㎝の幅広の剥片の先端に分厚く斜行する半円形の刃を作り出している。Scraperとして獲物の皮と肉を剥がし皮の腐敗を防ぎ、また硬化を防ぐため皮をなめしたりする石器とみられる。削器は石器の長い方の辺に刃を作り出し、獣皮を切り、木器や骨器を削るのに使ったと考えられている。木槍の速成には随分と有効であったろう。錐石は錐のように尖った先端を作り出した石器をいう。獣皮や樹皮などに穴を開けるための器具といわれる。上ノ平遺跡の場合、旧石器時代の通常の石器は5㎝を超えつことはないが、形態が種々あって単なる錐具とは断定できない。
 上ノ平遺跡では、長さ17cmを超え、幅も7cm超の緑色片岩(りょくしょくへんがん)を原石とする局部磨製石斧が出土している。緑色片岩も一定方向に節理を有し薄く剥がれ易く、緑色が美しく水をかけると一段と彩が鮮明になる。それが、藤森・芹沢・戸沢充則が昭和27年、上ノ平に露出した8点の尖頭器と共に偶然見つけた局部磨製石斧であった。そのため旧石器時代のどの年代かは不明である。また当時、日本の後期旧石器時代が数万年前にまで遡ると誰が予測し得たであろうか。
 昭和28(1953)年、明治大学の杉原荘介は、日本の旧石器時代の編年をする際、「岩宿文化」「茂呂文化(板橋区小茂根五丁目)」「上ノ平文化」と並称した。当時、この遺跡が旧石器時代研究に占める重要さと期待度の高さが知られる。
 翌昭和29年 、諏訪考古研究室が部分的な発掘を行った。その際4cmにも達しないナイフ形石器が出土した。現在でも、当時のナイフ形石器の出土状態が不明で年代を予測できないままにある。日本の旧石器時代が、縄文時代の期間を遥かに超え、5万年前に接近するとまでは予想されていなかった頃であった。それでナイフ形石器の出土状態が十分に検証されなかった。以後も同形の石器が出土せず、尖頭器も槍先形が殆どで、上ノ平は旧石器時代晩期の遺跡とみられた。その後も、本格的調査がなされぬまま上ノ平遺跡は小さな丘陵に営まれていた遺跡と思われていた。
 平成5年、諏訪市教育委員会のよる発掘調査で、上ノ平遺跡は、その東部にあたる北踊場遺跡との谷間の領域にも達していたことが明らかになった。この谷は上ノ平遺跡の丘陵に沿うように南から西の諏訪湖に向かって広く展開し、眺望がいい湯の脇の2代藩主諏訪忠恒以来の高島藩主廟所がある温泉寺に達する。そのため、この谷は「温泉寺の谷」と呼ばれている。
 上ノ平遺跡の中心は、この丘陵の東側の谷底と思われるほど、辺りから石器類が多数出土した。谷底から上ノ平遺跡に達する西側の崖が急斜面となっている。東側に長い斜面が伸びていて、約200m先の北踊場遺跡の丘陵地に上る。それが北西向きの緩い日だまりの斜面となっているが、調査結果、その緩斜面は約数万年に及ぶ東側の丘陵地から流れ下った土砂の堆積の結果で、旧石器時代にはより深い谷が形成され、その底部が上ノ平遺跡の丘陵に接していた事が知られた。その深部に近い所で、濃密に石器が出土した。旧石器時代にも繰り返された崩落により、最上部の2つの文化層は上ノ平遺跡同様の、黒曜石製の小さな5㎝未満のヤナギ葉形尖頭器が多く、その形に共通性があり規格的製作が行われていたようだ。それ以外に、5㎝を超える中形のケヤキ葉形に近いものもいくつか出土している。旧石器時代晩期の槍先形尖頭器製作所の遺跡に共通する仕掛途中の仕損品も多数出土している。ここでも木の葉形尖頭器の完品の製作の難しさを物語っている。また丘陵上の上ノ平遺跡よりも、槍先形尖頭器を盛んに制作していたようだ。
 それよりも下部の文化層から茶臼山遺跡でも出土している石刃と中形のナイフ形石器が発掘された。特に丘陵の南端では多数の石刃と石刃を剥離した痕跡を遺す石刃石核が出土している。主に槍先としてのナイフ形石器製作は、不純物を取り除いた石塊(石核)から鹿の角などの軟質のソフトハンマーで強い打撃を加えて連続的に剥離させ細長い石刃を作る事から始まる。石刃は、ナイフ形石器文化から始まる後期旧石器時代、4万年前に限りなく近づく文化層からは必ず伴出して当然の?片石器であった。








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