霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

手長丘遺跡(諏訪市上諏訪)

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



 上諏訪駅の東南にあたる長野地方裁判所の裏手の丘に手長神社がある。その南隣りに上諏訪中学校がある。通称「手長丘」と呼ばれる。昭和31(1956)年8月、台風で倒れた校庭の西側のポプラを、生徒たちと片付けていた林茂樹教諭が、その根元の抉られた土底に古墳時代の素焼土師器が一部露出しているのに気付いた。根を掘り返しながら更に調査すると多数の土師器が出土する古墳時代の遺跡と分った。しかもその下層の赤土の中から黒曜石製石器が出土した。林茂樹教諭は勇んで藤森栄一に会い「土師器群の下層のローム層の中から出てきたんです。旧石器でしょうか」と尋ねた。林と生徒達は、藤森の指導と諏訪市教育委員会の協力を得て調査をした結果、丘陵の西端、諏訪湖よりの崖付近から1,000点にも達する石器を発掘した。手長丘遺跡と名付けられた。諏訪湖東岸遺跡群の最下段にあたる。手長神社と上諏訪中学校の間には、現在でも湧水箇所がある。
 出土した石器の多くは、黒曜石製であったが、頁岩やチャートなどの石材も、諏訪湖東岸遺跡群中、出土点数が最も多い。注目されるのが、ナイフ形石器が30点以上あり、その殆どが5㎝未満の小型である事と、2cmにも満たない細石器も少なからず出土している事である。いずれも先端が極めて鋭尖で、細部にも拘った丁寧な仕上加工である。特徴的なのが、2次加工のない石刃も、それを剥離した石刃石核も5㎝以下で小さい事であった。
 オオツノシカ・ナウマンゾウが絶滅した約2万年前、鋭敏な中小動物を狩猟の対象にせざるを得なくなり、投槍器の威力をかりて、鋭尖で速く勢いのある投げ槍の開発が迫られていた。それに適応したのが小形で細いナイフ形石器であった。やがてぶれの少ない照準を定め易い左右対照の角錐石器や木の葉形尖頭器を誕生させた。
 投げ槍の柄は、主に鹿の骨や木が素材となる。鉄製工具の無い時代、その細部にわたる加工が困難で、通常挿入する石製槍先の柄元の加工を重視し、その精度を極めていった。
 細石器は大陸から渡来した。長野県では細石器文化の遺跡が多い。ところが八ヶ岳西南麓にはその遺跡が少ない。白樺湖の「御座岩遺跡」が同時代に属する。手長丘遺跡の石刃石核と、その石刃から判断すると、東北日本に分布した船底形細石刃核から楔型の石刃を剥離し、その2次加工で細石器を作る技法のようだ。バイカル湖周辺で3万年前に生まれ、東方にに広がり中国・シベリア各地で独自に発展工夫され、日本列島には1万4千年前以降に伝播した。手長丘遺跡の石刃の中には5㎝位のものもあり、削器として使っていたかもしれない。
 旧石器時代の生業は、狩猟である。それを前提に出土した石器を分析すべきである。旧石器時代人は、何十万年のスパンがある。後期新旧石器時代でも、数万年の期間に及ぶ。
 興味深いのが5㎝以下の石核が上下両辺から剥離されているのが複数出土している。それを「両設打面(りょうせつだめん)」の石核と呼ばれている。石刃石核から石刃を剥離し、槍先の穂先として2次加工した。この遺跡では上下両端が折られたものが多い。約2万年前以降、薄い精緻なナイフ形石器の需要が高まり、それに応えるべく石工を主な生業とする一団が登場し、最も難しい刃先と柄元の加工に失敗し破棄された仕損品ようだ。
 この遺跡の調査により、上ノ平遺跡、茶臼山遺跡、手長丘遺跡と隣接しているにもかかわらず、それぞれ独立した丘で異なる時期の旧石器時代遺跡が残されている。
 これらの遺跡は現在では「諏訪湖東岸遺跡群」と総称されている。
 手長丘遺跡からは3㎝以下の角錐状石器が出土している。小形であるため投げ槍用であろう。ナイフ形石器は日本列島で発達した石器で、日本では後期旧石器時代後半以降の両刃の槍先形尖頭器と区別し、その片刃の利器をナイフ形石器と称した。それに前後して2万3千年前頃からより強度な角錐状石器が登場する。朝鮮半島、全羅北道任実郡(イムシル=グン)でも出土している。強靭な獣皮を貫く槍先が誕生した。従来型のナイフ形石器は、次第に小型化し主に投げ槍用とされた。それが更に小型化され組み合わせ式替え刃の槍の側刃器・細石器が登場すると衰退消滅した。
 旧石器時代晩期の細石器文化期、野辺山高原・木曽開田高原・赤城山麓・武蔵野台地・相模野台地・下総台地・愛鷹箱根山麓の各地帯では、和田峠・星ヶ台・星ヶ塔・男女倉・星糞峠などの黒曜石石材が、50%以上の割合で利用している遺跡が多い。和田峠から八島ヶ原周辺は本州最大の黒曜石原産地である。旧石器時代人はその原石を求めて数万年の長きに亘って往復移動を繰り返し、和田峠遺跡群・男女倉山遺跡群・八島遺跡群・池のくるみ遺跡群・ジャコッパラ遺跡群に、その足跡を留めている。しかも旧石器時代の文化の変遷を余すところなく網羅し伝えている。
 「諏訪湖東岸遺跡群」は、特に八島ヶ原周辺の原産地との関わり合いが濃厚である。八島ヶ原から諏訪湖に下りルートは限られている。なだらかな丘陵を越え強清水か池のくるみで西進し角間川の上流に出て、広い谷筋に沿って下っていく。その角間川が諏訪湖に流入する地点の右岸に「諏訪湖東岸遺跡群」がある。霧ケ峰高原の南側の末端部の丘陵で、諏訪湖全域をほぼ見下ろし、南アルプスの山岳と富士山が眺められる南西に開け、氷河期最後の寒冷期の西日は、なによりも有難かったであろう。しかも八島ヶ原から直線で5kmであるが、谷筋を通れば15kmで、現代人でも一日で充分往復できる。厳しい寒冷地に留まるよりも、丘陵地にあり安全で、霧ケ峰からの豊富な湧水があって、諏訪湖周辺は動植物の繁殖地で食料源に事欠かない。
 平成11(1999)年6月、国学院大学考古学研究室の谷口康浩を団長とする発掘調査団が「大平山元Ⅰ遺跡(おおだいやまもといちいせき)の考古学的調査」を刊行した。本州の北端、津軽半島北東部にある外ヶ浜町の遺跡から出土した5点の土器片に付着した炭化物の年代をC14・AMS法で測定し、暦年較正年代で換算した結果、現在までに発掘された最も古い土器片が16,520年前とされた。
 福井県の三方湖の花粉ダイヤグラムによれば、1万2千年前にはツガが消え、既に退いていたブナ・コナラ・オニグルミが再び三方湖の周囲を巡り、ブナの花粉が20~30%という高い比率を占めていた。ブナの実はオニグルミに次いで脂肪分が豊富で渋みがない、生のままで食べることもできる。コナラの実は、まさに団栗だ。既に日本列島は狩猟から植物採集へ生業を転換する準備を整えていた。








Home contents ←Back Next→