霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

雪不知遺跡(ゆきしらずいせき)

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



 雪不知遺跡は、八島湿原の北東、標高1,650mに位置する日本で最高位にある旧石器時代遺跡で、男女倉山(おめぐらやま)と物見石(ものみいわ)に挟まれた沢沿いにある。八島湿原を一望する小高い台地の低位にあり、雪不知という地籍名がある。
 昭和38(1963)年に発掘された。規模は小さく、ナイフ形石器、掻器(そうき)などが出土した。特に多数出土したナイフ形石器は、長さが5cm前後以下で、諏訪圏内では最高レベルの加工技術に達している。
 この遺跡では長さ5㎝もない彫器が複数出土している。溝を彫る彫器は道具をつくるための道具、即ち加工具といわれている。彫器は、その先端部に「樋状剥離(ひじょうはくり)」と呼ばれ精緻で細長い加工を施した彫刻刀の刃を備えている。雪不知遺跡出土の彫器には、激しくこすった摩耗痕が認められている。

 雪不知は名水地である。
「雪不知」の地籍名、その地域は雪深いのになぜ「雪不知」なのか。その場所は、地理的に八島ヶ原湿原の西、車山寄りの「物見石」と男女倉山の狭間にあり、八島ヶ原湿原の最深部にあたる。すると冬季に迷い込めば雪深く出てこられない場所として畏れられていたことから、反語的に「雪不知」と呼ばれたのか?
 この場所は江戸時代以前より上桑原村の入会地(いりあいち)であり、他の地域の住民はみだりに入ることが許されず、また入会地として絶好の土地であったため、その土地の存在を隠すため「雪不知」と言われたのか。湧水が豊富だが、岩地であり、良質な萱が採集できるとたとは思われない。
 唐代の詩人賈島(かとう)の一節、「雲深不知処(くもふかくしてところをしらず )」に由来するのか。「雪が深く所在が知られず」の意が字名に隠されていたのか。「雪深不知処;雪が深く安易に入ると抜け出せなくなるよ!」警告!

 入会地とは、元肥としての刈敷や厩肥(うまやごえ)などの自給肥料、屋根葺き材や生活燃料として、更に厩萱(まやかや;馬の飼料にする萱などの青草)など採取し農業用牧畜生産や中馬荷物運送業を経営する目的で、特定地域住民が共用する場所として定められた土地であった。「雪不知」も入会地であったことから上桑原村の住民からすると、やたらに利権外の人が入ると恐ろしい目にあう場所として、牽制する意図があったのか。現実、入会権を侵し進入し、発見されるとその証拠として、鎌・鉈・鞍などを取り上げられる。更には鉄砲を撃ち掛ける事もあった。さすがに、元禄時代、郡中法度で「境論水論の義、武道具を持つ者は曲事(くせごと)」とされ、以後、鎌や鉈などを振るう実力行使はなくなった。但し、利権侵入者の証拠として、鎌・鉈・鞍の奪取は依然行われていた。
 「雪不知」の東隣りにあたる「物見石」の頂上の巨石に、「塩原地区」と、まるで落書きのように書きなぐられている。観光地としてその見識を疑う。江戸時代以降、諏訪を領する高島藩は、その初代藩主諏訪頼水公から水田開発を盛んに行い、その結果、その水田を支える山野資源の絶対量が不足となり、藩内の入会権の争論にとどまらず、高遠藩や小諸藩との境界争いにまでしばしば拡大し、江戸幕府の裁決までも仰いでいる。時には、他藩との争論に、藩内の農民が高島藩主から激励されたとの記録も残っている。
 明治19年(1886)6月、桑原村の別沢組が、「山の口明け」の前日に、抜け駆け的に刈り始めた。村中どころか永明村四賀村連合戸長役場から吏員が出張して中止させるという大事態に拡大した。農民は各部落ごとに「山の口明け」を取り決め、その時を待ち、競って「刈敷」を採集し急いで田へ入れていた。寒冷地であれば、緑肥の生育は遅い。しかし田植えを急がなければ、冷害による「青立ち稲」の頻度が増す。 毎年逼迫した状況下の過酷な作業であった。
 「雪不知」という、場違いな字名が意味するのはなにか。千葉県市川市八幡の「八幡不知森(やわたのもりしらず)」など各地に散在する事例を今後とも民俗学的に研究する必要が在り、その結果、多くの事が見えてくると思う。








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