霧ケ峰黒曜石遺跡

八島遺跡群・鷹山遺跡群・諏訪湖東岸遺跡群

黒曜石を運び出すルート

転載元・http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/



 シカ・イノシシ・カモシカ・タヌキ・キツネなどの動物は、通う道が定まっている。一度通れば、ブッシュの妨げが無いため多くの動物類が共用する。やがて、草原や山林の藪地が踏みしかれ「獣道」が大地に刻まれる。旧石器時代の人々は、目的によってそれぞれの「獣道」を追って狩をした。
 ナウマンゾウやオオツノシカなどの大型哺乳類も、闇雲に原野を行き来するのではなく、それなりにコースを決めて移動する。当然、移動しやすい場所と経路を選ぶはずだ。
 車山や霧ヶ峰のシカ道は、殿城山・カシガリ山などではブッシュの中を直線的に、何本も縦横に走っている。道筋には、大量の糞があり、特に眺望のよい場所や山ブドウの実がたくさん実る樹叢地には異常なほど高く積っている。
 人類も学習済みで、獣道をたどって狩猟し、その狩りの道として活用した。マンモス・ナウマンゾウ・オオツノシカ・ナツメジカ・ヘラジカ・ハナイズミモリウシ・ワカトクナガゾウなどの哺乳類が、日本列島で絶滅した大きな要因がここにある。特に氷河期が落ち着き、日本海ができ大陸と途絶され、渡来しなくなったためでもある。ヒグマも当時は本土に生息していた。
 人類も獣の一種であれば、それを利用し続ければ「踏み分け道」となる。古道の多くは、このようにして始まった。「踏み分け道」は、尾根や沢・川筋を通り、やがて日常生活圏以外の周辺集落の主道と連結し合い、広域に及びネットワークとなる。旧石器時代の人々は、当初は狩猟をしながら、その狩猟石器に適する良好な原石を求め石器を作りながら、獲物を追い、移動を繰り返すハンターであった。「踏み分け道」はやがて公道のように日本列島に縦横に展開し、良質石材と石器の流通ルートとなった。

 「信州系」黒曜石をブランドとする中央高地原産地群は本州最大の産出地で、大きく2つのグループがある。和田峠から八島湿原周辺に至るまでの原産地群と、北八ヶ岳連峰の冷山(つめたやま)から双子池にかけて原産地群とがある。諏訪市内の旧石器時代遺跡は、前者と近接し、星ヶ塔の黒曜石に代表されるように、不純物が少なく硬質で透明度が高い良質な主力石器材として活用していた。
 ジャコッパラ第8遺跡から6cmの拳大にも満たない黒曜石製石核が出土している。その表面は転石の特徴であるスリガラス状の表面が残っていた。これは一事例に過ぎないが、諏訪市内の遺跡群から出土する旧石器時代黒曜石製石器の多くに見られる特徴である。当時、良質の黒曜石材は、鉱脈に近い高原や川底で、その需要をまかなえるほど豊富な転石としてあった。それも縄文時代になり、温暖化が進み人口が増えると、生活用材として木材以外では、石鏃や重要な道具材として重用された。その大量の需要を賄うため、各地で黒曜石鉱脈の探索と開発がなされた。
 黒曜石は通常、黒色透明な天然なガラス質で、割れば鋭利な刃先となり石器製作としては、加工しやすい最適な製材であった。それでも石器はただ単に割り、偶発的に生じた石刃から石器は製作されたのではない。もともと黒曜石材は貴重で、製作者による「意図の化石」と呼ばれるほど物理的分析を前提にした緻密な石器製作工程を経ていた。

 旧石器時代人が、和田峠から星糞峠を含む八島ケ原周辺の黒曜石原産地から黒曜石を運び出すルートは、「遺跡群」としてその痕跡を留めている。諏訪圏内では主に2つ、1つは八島ケ原湿原からか角間川の谷筋を下り、北踊場遺跡・上ノ平遺跡・茶臼山遺跡等の諏訪湖東岸遺跡群に至るルートであり、もう一つが霧ヶ峰南麓の池のくるみ遺跡群からその南下の丘陵地・ジャコッパラ遺跡群方面に下り、前島川・桧沢川(ひのきざわかわ)・横河川沿いを進み米沢に至るルートである。前者からは諏訪湖から天竜川流れる伊那谷に通じ浜松に至る。後者は八ヶ岳の西山麓に至る道で、桧沢川・横河川を辿り、南大塩峠を経て八ヶ岳山麓の現在の米沢方面に向か道がある。尚、池のくるみやジャコッパラ遺跡群は2万年前を更に遡る遺跡が多い。ナイフ形石器文化初期を代表するナイフ形石器や局部磨製石斧が出土している。更に約3万8千年~2万8千年前頃迄遡る遺跡群と推定されている。諏訪湖東岸の茶臼山遺跡・北踊場遺跡・上ノ平遺跡・手長丘遺跡など丘陵遺跡群は2万年前以降の遺跡が多い。角間川の谷筋を下るルートは、ジャコッパラ遺跡群方面ルートより後の時代と考えられている。八島ヶ原湿原周辺の信州中部の黒曜石の最大の消費地は、北関東の平野部の諸遺跡群である。今後の発掘調査と、黒曜石石材の成分分析が進めば、4万年前を更に遡る関係が解明されていくであろう。
 最近の研究では、原産地に近い諏訪盆地や松本盆地の縄文中期(5,000~4,000年前)の遺跡には、黒曜石が集落内に貯蔵されている場所があることが分かってきた(1984年で22遺跡がある=長崎元廣氏調べ)。
 また和田峠産の黒曜石は、松本~大町を経て姫川沿いを下り、糸魚川に達している。富山県では、和田峠産黒曜石の縄文時代遺跡からの出土は一般的である。立山町の吉峰遺跡では、縄文時代早期(10,000~6,000年前)から前期(6,000~5,000年前)の住居の配置が円を画く環状集落で 中央部に広場がある。出土した黒曜石の分析結果、八島ヶ原湿原周辺が産地と判明した。また、縄文中期(5,000~4,000年前)の集落跡の天神山遺跡(魚津市)や縄文時代中期から晩期(3,000~2,300年前)の集落・浦山寺蔵遺跡(黒部市宇奈月町)などでも黒曜石で作った石鏃などが発掘されている。

 旧石器時代の殆どの人々は、河川流域の大洪水を避け、また海岸線が定まらな海辺の扇状地も危険であり、海から離れる内陸部の台地上に集住した
 富山県大沢野町の野沢遺跡は神通川(じんづうがわ)右岸の舟倉段丘上北西端に営まれた旧石器時代・縄文時代・平安時代にかけての遺跡である。A地点では40m×15mの範囲からナイフ形石器や彫器も含む674点の旧石器時代の石器が出土した。彫器は彫刻刀形石器とも呼ばれ、先端の刃先を樋状に剥離する。骨・角・木に溝を彫る石器道具といわれている。投槍器製作用道具でもあった。








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