Mesoamerica

マヤ

チャーチワード 『失われた大陸・白いマヤ人の伝説 』241p-242p より
ランダ僧正が初めてユカタン半島を訪れた時、そびえたつ大神殿の遺跡に驚いて、道端でひとりのインディオをとらえて尋ねた。
「あれは誰が建てたものだ?」
インディオはしばらく口ごもった末、こう答えた。「トルテク」
これはマヤ語で『建築者』という意味である。インディオは誰が建てたのかと聞かれて返事に困り、至極もっともな答えを選んだのである。トルテカ族――その名はアステカ族に先だって中米文化を築いた民族としてのちに注目を浴びるが本来は建築者という意味しかなかったのである。

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マヤ-2 マヤ-3 マヤ暦

マヤ文明(マヤぶんめい)は、メキシコの南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明。メソアメリカ文明に数えられる。また、高度に発達したマヤ文字をもつ文明でもあった。

三つの地域
マヤ文明の栄えたマヤ地域は北から順にマヤ低地北部、マヤ低地南部、マヤ高地の三地域に分かれている。マヤ低地北部は現在のユカタン半島北部に当たり、乾燥したサバナ気候であり、またほとんど河川が存在しないため、生活用水は主にセノーテと呼ばれる泉に頼っている。マヤ低地北部は800年ごろから繁栄期に入り、ウシュマルやチチェン・イッツァ(聖なる泉のほとりの水の魔法使い)、マヤパンなどの都市が繁栄した。なかでももっとも乾燥している北西部においては塩が塩田によって大量に生産され、この地域の主要交易品となっていた。

現在のチアパス州北部からグアテマラ北部のペテン盆地、ベリーズ周辺にあたるマヤ低地南部はもっとも古くから栄えた地域で、紀元前900年ごろからいくつもの大都市が盛衰を繰り返した。気候としては熱帯雨林気候に属し、いくつかの大河川が存在したものの、都市は河川のあまり存在しない場所にも建設されていた。交易品としてはカカオ豆などの熱帯雨林の産物を主としていた。この地域は古典期までマヤ文明の中心地域として栄え、8世紀には絶頂を迎えたものの、9世紀に入ると急速に衰退し、繁栄はマヤ低地北部やマヤ高地へと移った。
現在のチアパス州南部からグアテマラ高地、ホンジュラス西部、エルサルバドル西部にあたるマヤ高地は標高が高く冷涼で、起伏は多いが火山灰土壌による肥沃な土地に恵まれ、多くの都市が建設された。マヤ文明においてもっとも重要な資材である黒曜石はマヤ内ではこの地方にしか産出せず、この地方の主力交易品となっていた。低地と異なり、建築物は火山からの噴出物(軽石など)と粘土を練り合わせた材料で作っていた。カミナルフユのように先古典期から発達した都市があったが、古典期の低地マヤの諸都市に見られるような石の建造物や石碑が発達しなかったため、この地域の歴史には今も不明な点が多い[1]。


言語
マヤ人は、いうまでもなくアメリカ先住民の中で唯一文字を持っていた、あのマヤ文明を造った人々の末裔である。マヤ語の話者は、現在でもユカタン半島一体に60万人もいる(マヤ語のモノ・リンガルもいる)。マヤ人というのは19世紀に白人を追っ払って独立国家を樹立したこともあって、実は相当イケてる連中なのだ。 ちなみにアメリカ先住民語の中で最大のものは、インカの末裔によって話されているケチュア語で、こちらは700万人もの話者がいる
https://yosniimura.net/memo/Maya.html
マヤ語族
話される地域 中央アメリカ: メキシコ南部、グアテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドル。アメリカとカナダに少数の移民 言語系統 マヤ祖語からの分岐 下位言語 ワステコ語派(英語版) ユカテコ語派(英語版) チョル・ツェルタル語派(英語版) カンホバル・チュフ語派(英語版) キチェ・マム語派(英語版、英語版)
マヤ祖語
チョルティ語(チョルティご、Ch?orti?)は、グアテマラ東端のチョルティ族によって話される言語で、マヤ語族のチョル語群に属する。

道具
マヤ文明はほかのすべての新大陸文明と同様、鉄器を持たず、石器が広く使用されていた。金や銀、銅などの金属使用は9世紀ごろから存在する[13]が、銅器も装飾品としての利用に限られており、基本的には金石併用時代であったといえる。刃物には打製石器が用いられ、材料としては黒曜石とチャートが主なものであったが、もろいものの切れ味の鋭い黒曜石製の石器の方が価値が高かった。しかし黒曜石はユカタン半島においては産出せず、文明圏南部のマヤ高地にのみ産出したため、重要な交易品の一つとなっており、現在のグアテマラ市に位置する カミナルフユやホンジュラス北部に位置するコパンのように、黒曜石の交易を握ることで大都市に発展したところも存在した。装飾品としては貴金属も存在したが、なによりもヒスイが珍重された[14]。また、ケツァールと呼ばれる鳥の尾羽も威信材として珍重された[15]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%A4%E6%96%87%E6%98%8E


マヤ人(マヤ族)という定義は、訛りなどはあっても共通する言語や、近しい文化を共有している者たちを意味している。つまり、マヤという国(地域)があって、そこに住んでいた人たちというわけではない。
 ただし、マヤ系の言語ならマヤ語とされる。実際には、いくつもの地域に別れたマヤ人たちは、ヨーロッパ人たちが来る頃には、独自のマヤ語を喋るようになっていて、別の地域に住んでいるマヤ人同士の意思疎通は、かなり難しかったようである。
 ペルーより北のアメリカ大陸において、最大の先住民集団とされるマヤ人たちは、集団単位で、メソアメリカの様々な地域に散らばっていた。

 マヤ人は、南部、中部、北部と、はっきりその地域を分けることができるとされる。
南部は高地が多いが、中部と北部は低地が多く、南部を「マヤ高地」、中部と北部を「マヤ低地」と呼び分けする場合もある。
 単に地理的には、南部は、 エルサルバドルの西半分くらいに、グアテマラと、メキシコのチアバス州の山岳さんがく地帯くらい。
中部は、メキシコのタバスコ州、カンペチェ州南部、キンタナ・ロー州、ベリーズ、グアテマラのモタグア川流域地方の森林地帯に、ホンジュラスの西端くらい。
北部は、メキシコ、グアテマラ、ベリーズにまたがり、メキシコ湾とカリブ海の間に突き出たユカタン半島の北部とされる。
 16世紀にメソアメリカを侵略したヨーロッパ人たちが強く求めていたのは黄金であるが、元々マヤ人たちにとっては、そのような金属はいくらの価値もないものだった。
マヤ人たちは古典期後期までは、そのような金属の存在すら知らなかった、という説もある。

マヤ時代区分

 建築材などによく使われていたのは石灰岩(炭酸カルシウムを多く含んだ堆積岩)だった。
マヤ人はそれらを加工し、農業などに使うための石斧を作ったりしていた。
また、トウモロコシを調理する際などに使われていたという、マノ(石棒)やメタテ(石皿)は、火山の近くなどで取れる、より硬い石を使っていたようである。
 地域にもよるが、石材開発の技術は、先古典期にはすでにあったともされる。
 それと、ガラス質の火成岩である「黒曜石こくようせき(obsidian)」は、様々な道具や武器として加工されていて、現代で言えば鉄といえるくらいに重要だったらしい。
プトゥン人(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%B3%E4%BA%BA)は、マヤ地域とメキシコを結ぶ交易によって繁栄したが、おもにユカタン半島北岸の塩、蜂蜜、綿織物、主としてホンジュラス湾沿岸部、ベリーズ北部、グアテマラの太平洋岸、プトゥン人の本拠地付近のカンペチェ湾沿岸部などを産地とする通貨としても使用されたカカオ豆、アルタ・ベラパス特産のケツァール鳥の羽、モタグァ川流域のヒスイや銅、グアテマラ高地北部からモタグァ川(グアテマラの中央部に源を発し東へと流れ、カリブ海のホンジュラス湾に注ぐ。河口付近の数キロメートルは、グアテマラとホンジュラスの国境線)上流の黒曜石、海岸付近の地域でとれるウミギク(スポンディルス)貝などの取引が行われた[11]。また、交易用に用いた良質オレンジ土器の皿は積み重ねが可能なように作られた[12]。 通貨としてのカカオ豆は、積み荷ひとつあたり、24,000カカオで、トンプソンが紹介する、スペイン征服直後のテワンテペク地方の例では、銀の売値に直して、約9.5ドル相当で、テノチティトランでは、19ドル弱(650カカオが25セント)相当であった。1553年にメリダで荷役夫に100カカオ、当時のニカラグアでウサギ一匹および売春婦が10カカオ前後で取引されたという記録もある[13]

メソアメリカがスペイン人の侵略にさらされた時。マヤ文明はすでにその地において過去の存在であったとされる。
マヤ語を喋る人たちはいたし、マヤの遺跡や書物もいくつも残っていたが、文明自体ははっきりと衰退していると言えた。
遺跡を見つけたヨーロッパ人の中には、それらがいつの時代に作られたものなのか興味を抱く者たちもいたが、もはや多くの先住民たちも、そのことを知らなかったそうである。
 1549年にユカタンに派遣されてきた、フランシスコ修道会のディエゴ・デ・ランダ(Diego de Landa、1524~1579)は、マヤに関するいくつもの書物を、迷信だとして燃やした。
https://gamethankyou.com/history/latin-america/maya/

新説 マヤ文明 その繁栄と崩壊
古典期の興隆
その男がやってきたのは、乾期に入って密林の道が固まり、軍勢が通れるようになってからだった。男は戦士たちを従えてマヤの都市ワカに入城し、神殿や市場の前を通過して、広場を堂々と横切っていった。ワカの人々は、侵攻軍の誇示する武力に驚き、はるかかなた西方の都市国家の王権を象徴する華麗な羽の頭飾りや槍、鏡張りの盾に、目を見張ったにちがいない。
 古代の碑文によると、現在のグアテマラにあった都市ワカに男が到着したのは西暦378年1月8日のことで、 男は「火の誕生」を意味するシヤフ・カックと呼ばれていた。現在のメキシコ市近くにあった強大な都市国家テオティワカンから派遣されたと考えられているシヤフ・カックの名は、その後の数十年間、マヤ地域各地で石碑に刻まれた。この男の登場をきっかけにマヤ文明は急速に発展し、その後500年にわたる黄金時代を謳歌した。
 マヤ文明は長い間、謎に包まれてきた。数十年前まで研究者たちは、壮大な都市遺跡や美しい未解読の文字から、マヤは神官と書記が治める平和な国だったと考えていた。だが、マヤ文字の解読が進むと、王朝間の戦いや宮廷内の権力闘争、宮殿の焼き討ちといった血なまぐさい歴史が浮かびあがってきた。
 それでも依然として、マヤ文明が繁栄し続けた究極の理由は何かという点は大きな謎として残った。シヤフ・カックがその勇名を馳せたころ、マヤ地域全体に大きな変化の波が広がった。それまで外部との結びつきが薄かった各地の都市国家が、この時期を境に盛んに交流するようになり、高度な文化や芸術を残したのだ。

 遺跡の発掘調査や碑文の解読で得られた新たな手がかりから、シヤフ・カックがこの大変革の立役者だったとわかってきた。最近10年で発見された証拠からは、シヤフ・カックがマヤ世界の政治体制を作りかえたことが読みとれる。彼は外交手腕と武力を駆使してマヤ各地の都市国家と同盟を結び、新たな王朝をたて、マヤ地域全体にテオティワカンの影響を広めたのだろう。
 シヤフ・カックは、マヤを長きにわたってテオティワカンの支配下に置く先導役を務めたのか。それとも、マヤに起きていた変化に拍車をかけただけなのか。あるいは、もともとマヤには発展の素地があり、たまたま変革の機が熟していただけなのか。彼が果たした役割については研究者の間で意見が分かれているが、シヤフ・カックの登場がマヤの歴史の転換点となったことは疑う余地がない。
 シヤフ・カックがやってくる前から、そのやせた土地からは想像もつかないほど、マヤは進んだ文明をもっていた。メキシコ南部とグアテマラのペテン地方からなるマヤ低地では、現在でも住民がどうにか自給できるくらいの作物しか取れない。「高度な文明が栄えるような土地ではありません」と、米国テネシー州にあるヴァンダービルト大学のマヤ研究者、アーサー・デマレストは語る。
 マヤの都市ワカは現在のグアテマラ北部のエル・ペルーにあった。マヤ人が初めてこの地域にやってきたと考えられる紀元前1000年ごろも今とそれほど変わらず、うっそうとした熱帯雨林にコンゴウインコやコンドルが巣をつくり、ジャガーやヘビがうろつく、うだるように暑い土地だっただろう。それまで暮らしていた地域が過密になり、人々はやむなくこの地に移ると、川や湖沼のほとりに住みつき、やせた土壌で精いっぱいの収穫をあげるようになった。今のマヤ人と同様に木を切ったり焼いたりして森を開き、輪作や休耕で地力を回復させながら、トウモロコシやカボチャなどの作物を栽培したのだ。
 人口が増えるにつれ、堆肥や段々畑、灌漑など、より効率的な農法が採り入れられた。沼を埋めたてて畑にしたり、土地を囲ってつくった菜園に川岸の低地の肥沃な泥をまいたりした。人工池では魚を養殖し、森からシカなどの動物を追いたてて柵に入れて飼った。古代マヤの人々はやせた土地をうまく利用し、現在のこの地域の人口より何倍も多い数百万人が十分に暮らせるだけの食料を確保した。
 何世紀もの間に、マヤの人々は熱帯雨林で豊かに暮らすすべを身につけ、集落は都市国家へと成長し、文化はさらに高度に洗練されていった。マヤ人は車輪や金属器は使わなかったが、象形文字の体系を完成させ、ゼロの概念を理解して日常の計算に利用した。
 マヤの王は天と地の間を取りもつ存在とみなされ、神に権力を授けられた「神聖な君主」という意味のクフル・アハウと呼ばれた。王は人々に信仰と世界観を伝えるシャーマンと、平時においても戦時においても人々を統率する支配者の役割を兼ねていた。
 他の文明の国々と同様に、マヤも宗教儀式の体裁をとりつつ、他の都市と同盟を結んだり、戦争をしたり、交易を行ったりした。マヤ地域は現在のメキシコ南部からグアテマラのペテン地方、ホンジュラスのカリブ海沿岸地方まで広がった。踏みしだかれた道や漆喰で舗装した堤道サクベが森を縦横に横切り、カヌーが川を行き交っていた。しかし、シヤフ・カックがやってくるまで、マヤは政治的にはばらばらの都市国家群だった。
 ワカは378年時点でマヤの主要都市の一つで、四つの大広場や何百もの建物、高さ85メートルにもおよぶ神殿、漆喰を塗って彩色した儀礼殿があり、宮殿の庭には彫刻を施した石灰岩の祭壇や石碑が置かれた。サン・ペドロ川岸の要衝に位置するワカは交易の中心地でもあり、各地から珍しい品々が運ばれてきた。南の山岳地帯からは彫刻に使われた翡翠や宝石、衣服の飾りになるケツァール(カザリキヌバネドリ)の長い尾羽が運ばれ、西のメキシコ高地、テオティワカンからは武器用の黒曜石や鏡用の黄鉄鉱が運ばれた。
 当時のテオティワカンは、人口10万を擁する世界最大の都市だったと考えられている。現時点では解読できる文字による記録は見つかっていないが、シヤフ・カックをマヤに派遣した目的は容易に推測できる。ワカはサン・ペドロ川の支流を見下ろす断崖上にあり、自然の要塞に守られた港は大型のカヌーを停泊させるのにうってつけだった。軍事作戦の「拠点としては理想的でした」と、ワカ発掘プロジェクトの共同責任者で考古学者のデビッド・フリーデルは言う。シヤフ・カックが目をつけたのも、まさにそうした地の利だろう。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0708/feature01/_02.shtml

カクチケル族:
グアテマラ高地のチマルテナンゴ県、ソロラ県、サカテペケス県、グアテマラ県などに住む。マヤ語族に属するカクチケル語を話す
カクチケルの地には16世紀以来グアテマラの中心地であるシウダー・ビエハ、アンティグア・グアテマラ、グアテマラシティなどの都市が作られたため、他のマヤ族よりも西洋化が進み、マヤの伝統を失う度合が大きかった[4]。それでも焼畑農業や手織りの織物などの伝統は残った[4]。
スペイン人の到来以前、カクチケルはイシムチェを中心とする西部の勢力と、ミシュコ・ビエホを中心とする東部のチャホマ人の勢力があった[5]。考古学的にカクチケルは後古典期後期になってこの地に移住してきたと考えられている[5]。『カクチケル年代記』にもカクチケルの先祖が伝説的なトゥランからやってきたと伝えているが、これがどの程度史実を反映しているかは不明である[5]。
15世紀なかばにキチェはカクチケルを含む周辺諸民族を従属させたが、1470年ごろにカクチケルはキチェから独立し、イシムチェに都を築いた[6]。
1524年にペドロ・デ・アルバラードの率いるスペイン軍とトラスカラ軍の同盟軍がやってくると、イシムチェのカクチケルは彼らがキチェ族とツトゥヒル族を征服するのに協力した[4]。一方、東部のミシュコ・ビエホの勢力は1525年にアルバラードと戦った後に投降した[7]。
1524年7月、アルバラードはイシムチェにグアテマラの最初の首都を建てた。しかしアルバラードが黄金と女を強要したため、カクチケルはスペイン人から離れた。5年間に渡る反乱を起こしたが、最終的に鎮圧された[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AF%E3%83%81%E3%82%B1%E3%83%AB%E6%97%8F


キチェ族:
、マヤ人に属する民族で、グアテマラ高地のキチェ県、トトニカパン県およびその周辺に住む。マヤ語族のキチェ語を話す。キチェ語の話者は現代のマヤ諸民族のうちではもっとも人口が多く、グアテマラ全人口の11%を占める
キチェは後古典期のマヤ高地の支配的な民族であり、ウタトラン(クマルカフ)を首都とする軍事王国を築いた。王国の最盛期は1450年ごろで、その領土は今のメキシコのチアパス州南部のソコヌスコ地方から北のアルタ・ベラパス県までを覆い、人口は100万を越えた。キチェのみならず周辺の他民族を統治した[4]。キチェの王族はトゥランの出身を自称していた。
1470年ごろにカクチケル族がキチェから独立するとキチェによる掌握の力は弱まった[6]
1542年にペドロ・デ・アルバラードの率いるスペイン軍とトラスカラ軍の同盟軍は、カクチケルの援助も得てキチェ王国を滅した[6]。スペイン・トラスカラ同盟はウタトランの東にサンタ・クルス・デル・キチェ(英語版)を建設し、ウタトランのキチェ人はチチカステナンゴに強制移住させられた[7]。
スペイン人による植民地化に伴う伝染病の蔓延によってキチェの人口は激減したが、それでも先コロンブス期からのリネージを元にした統治組織を維持した[4]。キチェは常にスペイン人による政治・宗教的支配に抵抗し続けた[4]。

テオティワカンとマヤ文明圏
ティカルやコパンにおける、テオティワカン的要素を持つ、建造物(タルー・タブレロ様式)や土器(三脚付円筒土器)や像(テオティワカンの戦士像)や神(トラロック神)の絵などが挙げられます。
さらに、マーティン・クルーべの碑文の解読によると、「378年1月31日にテオティワカンと関係のあるシヤフ・カックと呼ばれる人物がティカルへ到着した。そして、当時ティカルを治めていたチャク・トク・イチャーク1世王を殺し、その後テオティワカンの支配層と関連する集団がティカルの王位を継ぐことになる。この征服によりそれまで建てられた多くのモニュメントが破壊され、新しい建造物を作る際の盛土となった。また、ティカルから20Km 程北にあるワシャクトゥンでもテオティワカンによる侵入の痕跡が認められる。」とあります。
やはり、テオティワカンという外圧は、マヤ文明圏にかなりの影響を与えていたように考えられます。ところが、そこには大規模な略奪闘争の痕は残っていないようです。それは、テオティワカンの「黒曜石」が、闘争緩和装置(交易)として働いていたからではないでしょうか?
テオティワカンは「黒曜石」の原産地(オトゥンバ)の近くに位置していました。そして、当時の「黒曜石」は、現代の「鉄」に相当する必需品であり、ナイフ等の様々な実用的な道具として使われていました。テオティワカンは、この「黒曜石」を上手にコントロール(戦争回避)してマヤ地域と交流していたのだと思います。さらに、「緑の黒曜石」は、実用品ではなく、マヤのエリート階級の人々にとっては、自らの権威を示す重要な「黒曜石」であったことからも、テオティワカンとマヤ地域は交易関係にあったのではないだろうかと思います。
https://www.rui.jp/ruinet.html?i=200


アグアダ・フェニックス


セイバル


モスキティア地方







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