Mesoamerica

トゥラン

トゥランあるいはトランは、メソアメリカの多くの書物に登場する伝説的な地名で、人類の祖先が住んでいた原初の都市とされる[1]。また、メキシコの中心都市、とくに伝説的なトルテカの都もトゥランないしトゥーラと呼んだ。
「トゥラン」という名称は、ナワトル語で「カヤツリグサ(t?llin)の多い土地(-tl?n)」あるいは「葦の多い土地」を意味する。
トゥランは多くの伝説では原初の都市として記述される。高地マヤのキチェ族の伝説と歴史を記した『ポポル・ヴフ』では、神々によって4対の夫婦が創造され、すべての人類はこの4対の子孫であるとする。キチェ族を含む人類ははじめ7つの洞穴のあるトゥラン(Tulan)に住んでいたが、やがてトゥランを去って自らの住むべき土地を探しに出かけた[2]。7つの洞穴云々はチコモストクとの同一視が行われている。
カクチケル年代記』でもカクチケルを含む諸民族の祖先はトゥランに住んでいたとするが、トゥランは東西南北に4つあったとする[3]。
テノチティトランのリオス絵文書(『ヴァティカン A 絵文書)では、トゥランは現在の人類の時代の最初にあって、ここでケツァルコアトルがトウモロコシの栽培を人類に伝えた[4]。詳細はさまざまに異なるが、ほかにもトゥランを原初の都市とする伝承は多い。
トゥランないしトゥーラはトルテカの中心都市をも意味する。実際トルテカ(T?ltec?h)という語は「トゥランの人々」を意味する。このトゥランはアステカの伝説によれば西暦900年ごろに北メキシコの遊牧民であるチチメカと、メキシコ湾岸の職人であるノノアルカの協力によって作られ、ケツァルコアトルにより統治されていたが、1200年ごろに別なチチメカによって破壊されたとされる[5]。この都市は今のメキシコシティの80キロメートルほど北のイダルゴ州にあるトゥーラを指すと考えられている[6]。フィレンツェ絵文書によると、トゥーラはシココティトラン川の川岸にあり、ここからアステカ人はトルテカの財宝や壺を掘りだしてテノチティトランに持ち帰っていた[7]。
伝承ではトルテカはメソアメリカ文明のほとんどすべてを発明した超人的な人々として描かれているが、もちろんこれは考古学的な証拠に反し、そもそもトルテカが帝国であった証拠が存在しない。しかしトゥランは象徴的な意味で重要であり、アステカもそれ以外の支配者も、ほとんどがトルテカの出自を自称した[8][7]。
アステカの伝説ではトゥーラはケツァールが飛ぶ楽園的な土地として描写されており、この特徴は中央メキシコ的でない。おそらくタモアンチャンの描写が混じっている[7]。

いくつかの現実の大都市が「トゥラン」と呼ばれることがあった。
テオティワカン
上記トルテカの伝説的首都、おそらくイダルゴ州トゥーラ

↓トゥーラ・シココティトラン テノチティトラン自身もトゥランと呼ばれた

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%A9%E3%83%B3_(%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB)

カクチケル年代記:『カクチケル年代記』(カクチケルねんだいき、スペイン語: Anales de los Cakchiqueles)は、グアテマラ高地に住むカクチケル・マヤ族の支配層であったソロラ(グアテマラ西部に広がるアルティプラーノと呼ばれる高原地帯、この中央に位置するソロラ県は、コーヒー豆をはじめとする豊かな農業生産と現在でも色濃く残るインディヘナ文化、風光明媚な高原の風景が国外でもよく知られる地方である。中でも県の東部を占めるアティトラン湖は『1984年』で知られるオーウェルが「世界一の美しさ」と評したほどの美観を誇り、周辺の村々で生産される様々な民芸品とあいまってソロラ県を国内有数の観光地たらしめている。)のシャヒル(Xajil)支族の歴史を記した書物である。16世紀から17世紀はじめにかけて書かれ、植民地時代のグアテマラでマヤ人が自らの言語で記した民族史料として、『ポポル・ヴフ』などと並んで重要な価値を持つ。
原書は31.3×21.6cmの紙の両面に書かれている。紙は全部で48葉あるが(全96ページ)、17ページまでは別の文章が書かれているため、年代記の本体は18ページから96ページまでである。人類の創造神話にはじまり、後半は1493年5月20日のイシムチェの反乱から1600年までの年代記が記されている。作者は、1582年までをシャヒル支族に属するエルナンデス・アラーナが書き、アラーナの没後はシャヒルの首長だったフランシスコ・ディアスが書きついだとされている[1]。1年が400日からなる独自の暦を使用しているが、1557年以降は西暦を併用する[2]。
1844年にフアン・ガバレテがグアテマラシティのサン・フランシスコ修道院で『カクチケル年代記』を発見した。その後シャルル・エティエンヌ・ブラッスール・ド・ブールブールが入手し、1855年にフランス語に翻訳した。ブールブールの没後、年代記はアルフォンス・ピナール (Alphonse Pinart) の手にわたったが、1887年に競売に出たのを、アメリカ合衆国の学者で1885年に年代記を英訳したダニエル・G・ブリントンが購入した。ブリントンの没後はペンシルベニア大学博物館の所蔵になり、現在に到っている[3]

内容 日本語訳
人類は黒曜石を供養する目的で作られた[4]。トウモロコシの粉にバクと蛇の血をまぜることによって人類が作られた。
祖先がトゥリャン(Tullan)からやってきたとする点は『ポポル・ヴフ』と同様だが、トゥリャンは4つあり、シャヒル支族の祖先であるクァクァウィツ(Q?aq?awitz)は西のトゥリャンから来たとする[5]。人々は7つの部族と13の隊に分かれて移動したが、カクチケルはその最後だった[6]。
カクチケルはチアワルの町に住んでキチェの第7代王であるキクァブ(K?iqab?)に協力して多くの町を滅ぼしたが、その後キクァブに対して蜂起を起こし、チアワルを放棄してイシムチェに住んだ[7]。
1493年5月20日、トゥクチェ族[8]のカイ・フナフプが反乱を起こし、その結果イシムチェから排除された[9]。
1521年、トゥナティウ(Tunatiw、ナワトル語で太陽を意味するトナティウに由来し、ペドロ・デ・アルバラードのこと)に率いられたスペイン人が現れてキチェを滅ぼした[10]。カクチケルは当初トゥナティウに協力したが、トゥナティウが莫大な貢納を要求したために王たちはイシムチェを去った。トゥナティウは町を焼き払い、カクチケルを虐殺した。やむをえず王たちは貢納を支払った。トゥナティウはその後も横暴を働いたが、1541年に没した。翌1542年からドミニコ会によるキリスト教の布教がはじまった。しかし伝染病が流行して多くが死んだ[11]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%AF%E3%83%81%E3%82%B1%E3%83%AB%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E8%A8%98#cite_ref-4


タモアンチャン:タモアンチャンは泉や川や森にあふれ、資源に満ちた楽園であり、神々が住む土地である[1]。
タモアンチャンは図像的には風変わりな樹木で表される。図像上は幹から血を流し、根はシパクトリ(英語版)になっていることが多い。詩によると、この木は2つに裂けて互いにからみつき、宝石に満たされている。枝からは人を酔わせる花やケツァールの羽がふりそそぐ。木の上には珍しい鳥が飛びまわる。木はあらゆる種類の花をつけ、この木に触れた恋人たちは幸せになれるという[1]。
タモアンチャンという語はナワトル語では説明がつかず、マヤ語で「もやの多い土地」と解釈する説がある。これはタモアンチャンに関する記述がメキシコ湾岸の低地を思わせることに一致する[2][3]。
タモアンチャンは現在の人類の創造説話に出てくる。ケツァルコアトルは地下のミクトラン(アステカの冥府)に行って、過去に大洪水で滅ぼされた人類の骨をタモアンチャンに持ち帰った。女神シワコアトルは骨をメタテで挽いて粉にし、ヒスイの盆に入れた。ケツァルコアトルや他の神々が盆に血を注ぐことで人類が誕生した[4][5]。
タモアンチャンはトウモロコシの起源説話にも登場する。チマルポポカ文書によると、ケツァルコアトルは赤蟻がトナカテペトル山からトウモロコシの実を運んできたのを見て、これを人間の食糧にしようと考えた。ケツァルコアトルは自ら黒蟻に変身し、赤蟻に案内させてトナカテペトルへ行き、トウモロコシの実を入手した。その後タモアンチャンにトウモロコシを植えた[6]。
また、フィレンツェ絵文書ではタモアンチャンでプルケが発明されたとする[2]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A2%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3


『来るべき種族』訳注246pより:トゥランはペルシア語でオクサス川(中央アジア、アムダリヤ川の古名)の北岸の地方を指した。トゥラン語族はウラル-アルタイ語族と同義に使われることもあるが、もとはアーリア後族とセム語族を除くアジアの言語族を指した。


↑ こちらはヨーロッパロシアのトゥーラ

トゥーラ Tula… トゥーラ・シココティトラン イタリアのトゥーラ













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